エンドロール


「楚水。」

「…なまえ。」

「もう、大丈夫よ。」


何が、大丈夫と言うのだろうか。

そう言って笑うなまえを抱き締めようと伸ばした手。それを指先でそっと押しやって行き場をなくした手がだらりとぶら下がり重力に負けた。ゆっくり離れていくなまえの指先。その指先に生える爪の先までもを見つめながら、ぐるぐると目まぐるしく思考を巡らし、正解の言葉を探すも何も浮かんでこない


「何が、ですか。」


やっと出てきた言葉の何とお粗末なものか。でも、聞かずにはいられなくて。何が、大丈夫なのだろうか。そもそも急に何だと言うのだ。本当に、急に。そこに至るまでの経緯も何も見えず、対処もできない。何とか平静を装っているように見せるので精一杯で、内面は慌てふためているなんて、誰が知り得ようか

わたしの質問になまえは思案顔。口を開いては、閉じてを繰り返す。その口元を見ながら、そこから言葉が発せられるのを待って、数分。意を決したように、固唾を呑み下し、わたしを見据えるなまえがゆっくり開く口


「わたしは元々、郭備様に嫁ぐ予定だった。」

「…そう、ですね。」

「お父様も意地が悪いわ。郭備様が討たれ、お亡くなりになったからといって…楚水、お前に無理矢理あてがったりして。」

「……。」

「わたしも、悪かった。お前の気持ちを考えもせず、そんな身代わりみたいな形でそこに収まろうなどと。」

「わたしの気持ち、ですか。」

「好いている人がいると、聞いたのよ。」

「は?」

「そんなこともわかろうともせず、ずっとお前の気持ちを踏みにじってきたのね。」

「そんな。」

「だから、もう大丈夫よ。」


側にいずとも、無理せずとも。そう言って笑うなまえ。その顔を見ながら、どうしてこうなったんだ、と溜め息を吐きたくなった。口調も、いつもと違い、在りし日のなまえの口調になっていて、頭が痛くなってくる。やっと前戦から帰ってきて、屋敷でゆっくりと過ごせると思ったら、これか。どういう仕打ちだなんて恨めしくさえ思ってしまう

わたしの気持ちなど何もわかっちゃいない。

なまえは確かに今は亡き郭備様の許嫁であった。郭備様の副官を長らく務めていたわたしとも勿論旧知の仲で面識があり、このお二人にお仕えできることを心より誇らしく思っていたものだ。あの、元趙三大天だった廉頗の四天王である輪虎に郭備様が討たれたあの日までは。亡き郭備様を想い、食事も喉を通らず、段々とやつれていくなまえを見ていられなかった。無理矢理などではない。わたしはなまえを幸せにしてやりたいと心から思ったから。でも、実際それは建前上の話で


「わたしは幸せになってはいけないのよ。」


そんなわけあるはずもないのに、何故わたしにそれを言うのだろうか。わたしはなまえを幸せにしたかった。なまえを幸せにしたかったわたしに、何故。でも、その言葉で、わかる。なまえは今でも、郭備様を愛しているのだ、と。わたしでは郭備様の代わりにはなれないのだ、と。その事実が重く圧し掛かり、ひどく息苦しい


「今更、何を。」

「本当にそうね…今更だけれど、楚水。お前の時間を奪ってしまって本当に申し訳なく思っているわ。」

「いや。」

「大丈夫よ、楚水。お前はいい男だもの。郭備様もよくお話になっていたから。だから。」

「なまえは。」

「楚水……?」

「なまえは…わたしといて、幸せではなかったのですか。」

「楚水。」

「わたしではなまえを幸せにできないのですか。あなたはまだ、郭備様を。」

「…違う。」

「え?」

「違うの、楚水。」


なまえから発せられた言葉の意味を汲み取ろうと、見つめるも一向に目が合わない。伏せられたなまえの顔。その上で袖口で顔を覆って、わたしからなまえの顔は一切見えなくなる。その代わりに、なまえの肩口が小刻みに揺れているのがよく見えた


「きっと、わたしが郭備様を殺してしまったの。」

「何をおっしゃいますか!郭備様は輪虎に討たれて…!」

「違うの。違うのよ、楚水。」

「違う…?」

「…わたし、わたしね。」

「なまえ?」

「お前がずっと、好きだった。」

「え……?」

「楚水、お前がずっと好きだったの…!」


今日は頭の理解が追いつかないことばかり起きる。なまえから発せられた言葉に返す言葉を失う。何を言っているんだろうか。色んなことがごちゃごちゃと混線。一つ一つの絡まった糸を解くように、なまえが罪の告白をするように、いや、実際その気持ちでいるのだろう。ゆっくりと、確かな言葉を自嘲の色を滲ませながら紡ぐ


「今でもよく、覚えているわ。楚水、お前と出会ったのは郭備様に許嫁としてご挨拶する日だった。郭備様のお屋敷のお庭にあった牡丹がとても綺麗で。」

「……そうでしたね。」

「本当にとても綺麗だった。思わず足を向けて見惚れるぐらい。おかげで一緒に来ていたお父様や従者とはぐれてしまったけれど。探しに来てくれたのが楚水だったわ。」

「あの時は大騒ぎでしたよ。なまえ付きの従者など、この世の終わりのような顔をしてらした。」

「あの後のことはあまり覚えていないのだけれど。」

「何故ですか?」

「頭に葉を乗せて、息を切らしながらわたしを探してくれた楚水が許嫁の郭備様だと思っていたの。それなのに、あなたは郭備様じゃなかった。」

「ああ…。」


わたしも、よく覚えている。咲き誇る大輪たちの中で、佇んでいたなまえのことを。割れ物でも扱うかのように、牡丹の花弁にそっと触れようとしていた指先を。思わず見惚れてしまうぐらい、絵画のように綺麗な光景だった。我に返って声を掛けてみれば、わたしを振り返り、花が綻ぶように笑ったその顔にひどく胸を掴まれた

一目惚れだったのだと思う。恋に落ちて、それと同時に失恋でもあった。この人は郭備様の許嫁で、わたしの手に落ちてはくれない、手に入れられない人だと思うと、尚更胸焦がれて。それでもこの気持ちは殺して、二人に誠心誠意お仕えする気でいた。お二人で仲睦まじく過ごしている様子を羨ましく思いながらも


「郭備様が好きだった。ちゃんと好きだった。あんな出来た方そういない。あの方に添い遂げることをちゃんと覚悟していたし、それを誇りに思っていた。」

「なまえ……。」

「あの日、あの戦から帰ったら、郭備様と祝言を挙げる予定で。だけど、思ってしまったの。もう、お前と添い遂げることは出来ないって。もし。もしも郭備様がいなかったら、楚水と添い遂げられたのだろうか、って。」

「なまえ。」

「たった、一度。たった一度だけ、あの日に。あの、日に…!」

「なまえっ!」


泣き崩れるなまえを抱き寄せる。次は手で制されることなく、すっぽりとわたしの腕の中に収まるその小さな体。その体に、今までどれほどの思いを抱えていたのだろうか

なまえはわたしの気持ちを何もわかっていないと思っていた。でも、わたしもなまえの気持ちをわかっていなかった。お互いに伝えてこなかったのだ。伝えるのが怖かった。たぶん、なまえも。それでもわたしを思って、わたしを解放してくれようとして、軽蔑されるかもしれないと思いながらもわたしに懺悔して。どれほどの勇気が要っただろうか


「きっとわたしが郭備様を殺した。あんなことを思わなければ郭備様は死ななかった…!それなのに、わたしはお前と添い遂げようとしてる…幸せを感じようとしている。わたしは幸せになってはいけないのにっ。」

「そんなこと。」

「それでも、わたしはお前と共にありたくて。でも、今なら間に合う。今ならまだ離してやれるから好いている人がいるなら、楚水だけは。自分勝手だけれど楚水だけは幸せにしてやりたいの!だからっ。」

「……本当にあなたは自分勝手だ。」


わたしを好きだと言う口で、わたしと分かつことを勧める。自分勝手にもわたしと一緒にいられない理由ばかりを紡ぐその口を塞ぐ。なまえの紡ごうとしている言葉を食べるようにして、深く口付けて。ゆっくり離れた先になまえの顔。目尻に涙を溜め、唇を噛み締めて


「あなたの罪を、わたしにも背負わせてください。」

「楚水…?」

「わたしの幸せを思うなら、一緒にいてください。」


次はなまえが意味がわからないという顔をする番。伝っていく涙を拭って、瞳いっぱいにわたしを映すなまえを見下ろしながら


「あなたを愛してる。」


口を吐いて出た言葉。流れていく雫が袖口に染みを作った。


エンドロールが流れる前に。
あなたを愛してると言わせてくれ。


(なまえが幸せを感じられるまで何度でも言う。)
(……っ。)
(わたしがなまえを幸せにしたい。)
(…うん。)
(誰の代わりでもなく、わたし自身が。)


きっと、郭備様も許してくださる。そういうお方だ。もしかしたら、気付いていたのかもしれない。わたしの気持ちにも、なまえの気持ちにも。とても敏い方だったから。だから、きっと許してくださるはずだ。わたしが、郭備様の代わりでもなく、わたし自身がなまえを幸せにしたいと思っても。今はまだ、幸せを拒んでしまうかもしれない。拒まれても、いい。わたしが何度でも教えてあげるから。幸せになってもいいのだと。愛していると。

あとがき
郭備様は絶対に許してくれるはず。



back to list or top