顛末
十字路の角。そこに身を潜めて通りの奥を見つめる。見つめた先に見えるのは今朝屋敷を後にした背中。往来を行く人々に比べ、軽く頭二つ分ぐらいは体の大きなその背中をじっと見つめて息をひそめる「女の影はありませんね。」
「わからないわよ。今から女のところに向かうのかもしれないし。」
「亜光様が、ねえ…お?」
「んぐっ。」
劉勇が見つめた先をわたしも同じく見据え、目にした光景に思わず声を上げそうになったわたしの口を塞ぐ劉勇。口の中で霧散していく言葉を唾と一緒に何とか飲み込んで、口を塞ぐ劉勇を睨みつける。劉勇は、はいはい、なんて言いながら悪びれる様子もなく、肩を竦めながらわたしの口から手を離した
劉勇とわたしの視線の先には、急に足を止めた亜光様に近付く女性の姿。わたしたちに背中を向けている形の亜光様の様子はよくわからないが、女性の様子はわたしたちからよく見えた。微笑を湛えて頬を染め、何と言うか…目に明らかな好意が浮かんでいる。しかも美人だ。思わず自分の体を見下ろし、次いで女性を見る。体つきも、女性らしく、良いのがここからでもわかる。一緒になってわたしと女性を見比べて劉勇がフッと鼻で笑った。それにムッとしつつも、亜光様も殿方だもの…と悔しくて唇を尖らせながら爪先を見つめていると劉勇がぽつりと何かを呟く
「何か、手で制してますね。」
「うう…。」
「おい、聞いてんのか。あ、行っちまうぞ。」
「え?追い掛けなきゃ!」
頭の中でぐるぐるとする嫌な考えを打ち消すのに必死になっていたら、いつの間にか亜光様が歩き出してしまい、慌ててその背を追った。亜光様に近付いていた女性はいつの間にか通りの端で亜光様の背中をうっとりと見つめている。通り過ぎる時に横目でちらりとその女性を確認。ふわりと何とも女性らしい匂いがしてググっと眉間に皺が寄る
わたしだって、わたしだって…。
亜光様を追うために走りながらも、くんくんと自分の匂いを確かめてみたりして。そんなわたしの様子を訝し気に見つめる劉勇。劉勇に「ちょっと嗅いでみて」とお願いすれば「は?何でおれが」と嫌そうな顔をしながらわたしの袖を持ち上げて鼻を近付け、同じようにくんくんと匂いを確かめて、一言
「馬臭い。」
「…!」
馬、臭い…?!
脳に衝撃が走る。予想だにしていなかった返答に打ちのめされそう。もっといい香りを想像していたのに、いや、せめてもう少し良さそうな香りを想像していたのに馬臭いとはどういうことだ。ショックで目の前が暗くなりかけたところですぐ横を走る劉勇の足が止まる。それにつられて足を止めれば、目に入る屋敷が一つ。そこに吸い込まれるようにして入っていく亜光様を見つめ、先程のショックは置いておき、今はとりあえずとホッと胸を撫で下ろす
「これ以上は行けませんね。まあ、これでどこに行ったかわかったことだし、帰りますよ。」
亜光様が入っていたお屋敷は王翦様のお屋敷だった。どうやら今日は王翦様に御用があった模様。亜光様の目的地が女のところなどではないとわかりそれはホッとしたが、先程の女性のことも気になり、もやもやは残ったまま
とりあえず帰るぞ、と劉勇が背中を押す。背中を押されるままとぼとぼと王翦様の屋敷に背を向けて一歩。劉勇がわたしを先導するため前を歩き出す。何故か気落ちをしているわたしを励ますためなのか劉勇がずっと何かをしゃべっているのを聞きながら歩き、屋敷裏辺りで急に人の声が掛かった
「こんなところにおったのか!」
「え?」
「おーい、見つかったぞ!」
「え、何、ちょ、え?」
「お屋敷は広いから勝手にうろうろとしてはならんと言いつけたはずだが。これ、早くこちらへ来い。」
「わ、ちょ、ちょっと。りゅ、劉勇助け…。」
訳もわからないままずるずると引き摺られる体。助けを求めたわたしの手と声は先を行く劉勇に届くことなく、ぱたりと裏門が閉まり、中へと収容される。何が起こったのかわからないわたしを余所に、屋敷へと引き摺り込んだ男は上から下までわたしを吟味するように見つめ、「変わった娼婦がいたもんだ」と肩を竦めた。今何て?と聞く間も与えてもらえず、ずるずると引き摺られ、一室へ。そこは頭がくらくらしてしまうほどの甘ったるい匂いで充満していて。どうやら今日は宴が催されるようで、娼館から娼婦が派遣されたようだった。まさか王翦様がそのようなことをなさるはずがないから、きっと倉央辺りが田里弥を揶揄うために用意したのだろう
集められた娼婦たちの中に放り込まれて、ぽんと肩に置かれる手。振り返ったわたしの手に乗せられた布。「そんな野暮ったい服では客人の前には出せぬ」なんて言われ、手渡された布を広げてやっと今の状況を飲み込めてギョッとした
「わ、わたしは娼婦じゃない!」
「何を言っておる。屋敷の裏をうろうろしておったではないか。」
「そ、それは。」
「今日は給金も弾んでもらえるぞ。もうすぐ宴が始まる時間だ。ほれ、早く着替えろ。」
「いや、だから!」
「何だ?着替えを手伝ってほしいならそう申せば良いではないか。」
「わ、わわわかったわよ!自分で着替えられるからもう向こうへ行って!」
「チッ、つまらんなあ。」
近寄ってくる男をぐいぐい押しやって何とか部屋から追い出す。どうしようかと考えを巡らせ、部屋の中を見渡せば、こちらをジッと見てくる女性たち
着るしかないのか…これを?!
ひらひらと揺れる布。もうこの時点で布越しに女性たちの顔が見える。それほど薄い布を手に頭を抱えた。逃げ出そうにも部屋の前には勝手に娼婦たちが屋敷を歩き回らないように見張りがいるようだし、逃げ場がない。その上部屋の前から「おい、早くしろ」なんてせっつかれ、更には部屋の女性たちの視線が突き刺さり、ギュッと目を瞑りやけくその様に自分の服に手を掛けた
スケスケなんて形容詞では足りないぐらいの透け具合の布に着替えたところで、宴が始まるようで、部屋の扉が開く。せめてでも、と着ていた羽衣を羽織り、女性たちに混ざって逃げ道がないか探すも、広間はすぐそこ。考えがまとまらない間に広間の扉が開かれて、目に一番に飛び込んできたのはわなわな震えて怒り心頭の田里弥
「倉央…お前って奴は!」
「あはは。田里弥もご無沙汰だろう?たまには羽目を外したっていいではないか。」
「なっ、べ、別にご無沙汰などではない!王翦様、このような勝手を許してよろしいのですか!」
「……まあ、よい。好きにさせておけ。」
「くっ。」
王翦様を味方につけようとして当てが外れた田里弥が歯噛みしながら、すごすご用意された自分の席に座る。それを合図にお酌をするために娼婦たちが散り散りになり、軍の幹部たちの両隣を陣取った。その勢いに呆気に取られて一歩出遅れたわたしの目に映る、光景。勿論その幹部たちの中に亜光様も含まれていて。枝垂れるように、亜光様に体を預け、その腕に触れる、すらりと細長い指
後を追わなければ良かった。
後悔したところで後の祭り。こんな格好して、馬鹿みたい。きっと亜光様も知っていたんだろうな。だから先に寝てろなんて言ったのか。そりゃあ、殿方だもの。付き合いだってある。こういう席もあるでしょう。勝手に追ってきておいて何だが、わたしの見えないところでやってほしかった。…見えないところでやられるのも本当は嫌だけど、嫌だけどせめて
唇を噛んで、立ち尽くしていたわたしに、宴を取り仕切っている王翦様の家人が「何をしている。早くお酌に行け」とせっつく。肩を押されて一歩、前へ出る。末席にいた顔も知らぬ人の席に追いやられ、早く座って酌をしろと言わんばかりに手を掴まれて前のめりになり、羽衣が肩から滑り落ちた。亜光様以外の人に体を預けるのは嫌だ、と何とか踏ん張ってみるも体が見えないように庇いながらの体勢では力の強い男に敵うはずもなく傾いていくばかり。最後の一押しと言わんばかりに、ぐいっと引かれた手。倒れ込む体を支えるようにしてわたしを抱き留めた腕を辿って、胸がキュッと音を立てて締め付けられた
「……手を離せ。」
「えっ…あ、は、はい!」
わたしの手を掴む男をギロリと見下ろし、一言。その声音のひどく恐ろしいこと。低く唸るような声に男はびくりと肩を震わせ、急いで手を離す。男の手がわたしから離れたのを確認した後、亜光様はわたしを見遣り、溜め息を一つ。床に落ちてしまった羽衣を掴み取り、わたしの肩に掛け直して、くるりと踵を返して上座に向かって一礼。そしてそのままわたしに向き直り、わたしの体を抱きかかえるとざわざわと騒がしい広間を後にした
あなたを追った先の顛末。
鼻につく甘い香りと絡みつく指先が目に焼き付いて離れなかった。
(今、香鈴がいなかったか?!)
(うーん…確かに香鈴だったなあ。)
(ハハハッ、亜光も気苦労が絶えんな。)
(気苦労どころじゃないだろ…何やってんだ。)
(まあ、後を追ってきたんだろうなあ。)
抱えられて歩く王翦様のお屋敷の中。宴で広間に人が集まっているからか、しんと静まり返って怖いくらい。慣れた足取りで門前まで歩を進める最中、一言も発さない亜光様。ピリピリとした空気を肌で感じて、これは完全に、今までにないくらい怒っていらっしゃる、と冷汗がだらだらと流れて止まらない。そのまま王翦様の屋敷を出ると暗がりで一つの人影が。わたしの顔を見るなり、怒鳴りそうな勢いの劉勇を手で制して、その横を素通りする。劉勇を見るとご愁傷様といった顔で見返されて、やっぱり助けてくれない従者に歯噛みするしかなかった
あとがき
これはとてもお仕置きがしがいのある…