不出来

「亜光様。」

「……。」

「ねえ、亜光様。」

「……。」


わたしの呼び掛けは聞こえているはずなのに無視を決め込む亜光様。これは相当怒っていらっしゃる様子。ただ無言でわたしを抱えながら家路を歩く亜光様の足音だけがその場を占拠して。もう日も落ちてしまっているから往来に人はいないが、この状況はかなり恥ずかしい。それに亜光様の顔が見えないこの体勢は嫌だ。出来れば降ろして欲しいが無視をされてしまっていてはそうも言いづらい。助けを求めようにもいつも小うるさい従者は要らぬ気遣いをして二人きりにしてくれちゃうし、どうしたものか考えあぐねていると、ぽつりと急に亜光様が呟きにも似た言葉を落とす


「いつから香鈴は娼婦になった。」

「それは、その。」

「屋敷で大人しくしていろと言っただろう。」

「先に寝ていろとは言われたけど大人しくしていろとは言われてないよ。」

「はあ。」

「……亜光様が悪いんじゃん。」

「何?」


思わず口を吐いて出た言葉。その言葉にぴくりと反応する亜光様が家路を歩く足をぴたりと止めて、わたしの体を少し下へずらすと、ばちりと目が合う。一兵卒が見たら腰をぬかしてその場から逃げ出してしまいそうな程の鋭い眼光に吊り上がった眉尻。びりびりと肌が刺激されるほどの怒気にも負けずにわたしは真正面からそれを受け止める

亜光様が王翦様のお屋敷に行くことを下手に隠すから。

甲冑だったら練兵とかかなって思って特に何も思わないだろうけど、そんな格好で夕餉は要らない、先に寝ていろなんて何かあるかと勘繰っても仕方ないじゃん。もし朝出ていく時に王翦様のお屋敷に行くって言っていたらわたしだって尾行なんてしなかった。尾行はしなかった…たぶん、一緒に行きたいとは言ったかもしれないけど

それにわたしだってしたくてこんな格好しているのではない。成り行きで仕方なくこういう格好しているわけであって、わたしが亜光様の前以外で、亜光様以外に見られるようなところでこんな格好したいと思うわけないのに。どうして亜光様はわかってくださらないの


「王翦様のお屋敷で宴があるならそう言ってくれれば良かったのに。」

「…言ったら、ついてきただろうが。」

「……一緒に行きたいって言ったかもしれないけど…でも、何も言わないで、夕餉は要らないとか先に寝てろとか、そんな風に言われたら嫌でも考えちゃうでしょ。」

「何を。」

「他にも女の人がいるのかな…とか。」

「は?」


びりびりとした怒気はすっかり鳴りを潜めて、目が点になる亜光様。お前は何を言っているんだ、とでも言いたげな顔に、言葉にするのも嫌だな、と思いつつも唇を尖らせて、口籠りながらも吐き出していく言葉。その言葉たちがわたしの口から出ようとする度、喉に刺さって痛い


「だって、亜光様は…わたしと結婚、したくなかった、だろうし。亜光様の優しさに漬け込んでわたしが無理にお願いしたから。」

「おい、何故そんな話になる。」

「胸はないし、色気はないし、馬臭いし、大人しく屋敷で待てないじゃじゃ馬だし。だから、他に女の人がいても仕方ない、し…。」

「……香鈴。」

「出来ればわたし一人で満足してもらいたいけど…に、二、三人ぐらいなら…何とか…が、我慢で、んぅ。」


食べられる言葉たち。それ以上、言葉を発することを許さないとでも言うかのような口付けに、息苦しさからか、それとも先程から喉に刺さって痛くて仕方ない言葉たちのせいなのか、頬を伝う涙。ゆっくり離れていく唇。名残惜しいとでも言うように、離れる瞬間に鳴った微音が耳を刺激する。わたしの目を覗き込む亜光様の顔。仕方ないと呆れた顔で笑いながら頬に這う硬い手の平が零れ落ちていった涙を不器用にもごしごしと力任せに拭った


「お前一人で手一杯なのに、他に女を作る余裕はない。」

「そんな手が掛かる…?」

「自覚ないのか、お前。」

「あります、けど…亜光様が我慢するくらいなら大人しく出来るよ…たぶん。悋気を起こしちゃうけど、きっと…というか絶対。」

「フッ…おれに他に女を作らせるために香鈴が大人しくするのか?」

「うぐぐ……あ、亜光様が望むなら。」

「やめておけ、無駄な努力だ。」


無駄な努力、なんてきっぱり言い切られて腑に落ちない。亜光様が本当に望むならわたしだって尾行なんて馬鹿な真似しないで大人しく屋敷で待てる、たぶん。亜光様が本当に望むなら他に女の人を作っても、わたしの場所へ帰ってきてくれるのであれば我慢できる、たぶん。我慢する努力はできる、たぶん。したことがないからたぶんとしか言いようがない。たぶんだけれど、できる、はず

本当は嫌だけど、それが普通だもの。

大王様ほど、お抱えになるわけではないけど、身分の高い者が数人の妾を抱えるのは。それが当たり前で普通だというのはわかっている。わたし一人で満足してほしい、嫉妬するなど器の小さい、出来の悪い妻であるということもわかっている。わかっているから、もし、もしも本当に亜光様が望むのであれば言ってほしい。そのためにわたしも心の準備をして、覚悟を決めるから。それが、わたしと結婚してくれた亜光様にできることだから


「おれは香鈴だけで十分だ。」

「……本当に?」

「嘘を吐いてどうする。」

「だって馬臭い女だよ、わたしは。」

「…なんだそれは。」

「亜光様に話しかけていたあの女の人みたいにいい匂いしないし。」

「どこから後をつけていたんだ、お前は…。」

「女性らしくて良い肉付きとはお世辞にも言えないし。」

「まあ、そうだな。」

「…娼婦のお姉さんたちみたいに色気があるわけでも、ないし。」

「確かに、そうだな。」

「…もー!頷いてないで少しは否定してよ!!」

「フッ。」

「フッ、じゃない!」


全然否定してくれない亜光様に文句を漏らせば、その文句さえもフッと鼻で笑う姿にさらにムッときてどんどんと胸元を叩いて攻撃する。わたしなんかの力では大した攻撃にならず、亜光様の涼しい顔に悔しくて歯噛みして、次いで「降ろして!」と暴れてみたり。抜け出そうともがいても腰に回った腕ががっちりわたしを拘束してびくともしない。何なら、逆にぎゅうぎゅうと力を込められ、さらには反対の腕もわたしの背中に伸びて抱き竦められる。痛いくらいギチギチに締め付けてくるもんだから、背骨からパキパキと変な音がした


「いた、いたたた!」

「まだ半分も力入れてないが。」

「えっ、嘘だ!」

「疑うのか?」

「あ、いや、ごめんなさい、わかった、わかったから!」


亜光様の腕の中で圧死しちゃう!

それはそれで幸せなような気もするが、これ以上力を込められたら冗談ではなく本当に内臓が潰れてしまう、と慌てて謝罪を口にすれば少しだけ緩まる力。ホッと胸を撫で下ろすわたしの顔を覗き込み、フッと笑う。人の顔を見て笑うとは何事だ、と思いつつも、わたしはその顔にとんと弱くて仕方がない。もう、と唇を尖らせれば、わたしの機嫌の取り方を熟知している亜光様はそこ目掛けて軽く口付けて「機嫌は直ったか?」と一言。とんでもない策士だ


「……おれを翻弄できる女はお前ぐらいだ。」

「え、何?聞こえなかった。」

「ところで、香鈴。」

「ん?」

「このような格好をして、娼婦の真似事などしようとしたということは、おれに何をされても文句は言えんな?」

「…あの、これには深い訳が。や、やりたくてやったのではなくて、ほら、ね!」

「ほう。」

「ぎゃっ。ちょ、お尻、お尻に手…!」

「覚悟しろ。」


何の覚悟、と聞くまでもなく、ぎらついた目でわたしを見る亜光様に冷汗がだらり。あれ、さっきまでの甘い雰囲気はどこに?とどこで何を間違ったのか理解の追いついていないわたしを余所に「さっさと帰るぞ」なんて言って止めた足を再び動かし始める亜光様。「さっきより早くなってない?!ねえ、ちょ、亜光様!」というわたしの叫びは闇夜の中に霧散していった


不出来の妻なれど。
あなたの唯一でいたい、なんて。


(はあっ、はあっ、ちょ、も、もう無理!死んじゃう!!)
(フッ、このぐらいで音を上げるな。)
(このぐらいって何回目だ…んっ、ほん、とに、ま、待って、あっ。)
(これじゃあ娼婦など務まらんな?)
(いや、あっ、ご、ごめんなさっ。)


あれからどれぐらい時間が経ったのかわからない。足早に着いた屋敷。寝室へ直行して、布団に沈められたかと思った時には、息継ぐ間もないほど深く口付けられて。息が上手くできず、酸素を求めるように布団から這い出ようとしたわたしの腰を掴んでずるずると引き戻される。何の役にも立っていなかった薄い布はいつの間にか奪い去られて、熱を持ち始めた体を這うごつごつした手。何回目かもわからないほどの行為。お仕置きだと言わんばかりの攻めに思わず音を上げても許してくれる気配はない。段々と明るくなっていく窓の外に反比例して、目の前が少しずつ暗くなっていく。薄れてゆく意識の中で、もう絶対にこんなことしない、と出来もしない誓いを何度か呟いて、完全に暗闇に意識を投げうった


あとがき


お仕置きしない道を用意していたはずなのに何故…

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