混濁した世界から出してやる

「沙智!」

バンッ!と大きな音をたてて閉まった体育館の扉と同時に崩れ落ちた沙智の身体。西谷?先輩の怒鳴り声を聞いた時から震え出していたが、まさか発作迄始まるなんて考えもしてなかった。

沙智を抱き抱えて、その場に座り込む。薄ら開いている瞳とヒューヒューとした呼吸音。発作と言うより過呼吸か。多分切っ掛けは西谷先輩の怒鳴り声。その先輩は体育館を出て行っちまったから、パニックになる原因は取り除けている。なら、後は落ち着かせるだけだ。突然座り込んだ俺たちに先輩たちは気がついたが、腕に抱えている沙智が過呼吸を起こしているせいで先輩たちまで慌て出す。

「うぇ!沙智ちゃん、どうした!?」
「せ、せせ先生呼ぶか!?保健室!!」
「過呼吸なら紙、紙袋…!」
「いえ、紙袋はいいんで……俺のバック取って貰ってもいいッスか」

日向に取ってもらおうとしたが、いつの間にか彼奴は隣から消えていた。こんな時にトイレでも行ったのか彼奴。紙袋を取りに行こうとした澤村さんに待ったを掛けて、俺のバックを持ってきてもらう。
紙袋で行うペーパーバック法は有名だが、血液中の酸素濃度が低くなるとか何とかで余程の事がない限りやるなと沙智の兄2人に止められている。崩れ落ちた沙智の身体を俺の足の間に座らせ、

「沙智、俺の呼吸聞こえるか?。聞こえてるなら、俺の手握れ」
「ハッ、はっ…んっ」

沙智の耳元で囁けば、力は弱いが手を握られた。聞こえてるなら大丈夫だ。そこまで"堕ちてない"。

「俺の真似して呼吸しろ。スっー…ハァー……」

過呼吸は息を吐き切らずに息を吸ってしまい、呼吸の回数が増えることで起きるらしい。だから、成る可くゆっくり息を吐いて、呼吸数を整えていく。そもそも過呼吸になった時点で息が吸えないとパニックになっているのだから、「息はちゃんと吸えている」と分からせないといけない。ゆっくり、ゆっくりと。焦らせては行けない。

数分も経てば沙智の呼吸は整い、ちゃんと息も吐けている。真っ青な顔が気になりはするが、とりあえず一旦危機は去ったというところか。沙智の額に張り付いた前髪を除けながら、肩の力を抜いた。あ、そうだった。

「すみません、お騒がせしました。澤村さんも荷物、ありがとうございます」
「お、おう。…影山、沙智ちゃん大丈夫なのか」

3人の視線が沙智に集まる。何時もなら注目されるのが嫌で慌てたりするなのに、その瞳は虚ろだ。過呼吸の後ってのも有るだろうが、其れだけでは無さそうな感じ。先輩たちもそれを察しているのだろう。

「……一応今日の部活、此奴休ませてもいいスか?」
「っ!」

一瞬繋がっていた手に力が入った。
嫌だってことだろうが、こんな状態の沙智を無理させるつもりはねェ。泣こうが喚こうが絶対休ませる。
状況が状況のため澤村さんも沙智を心配して休むことに承諾してくれた。良し、部活が終わるまで保健室で休ませてもらおう。だが、その前にやる事がある。
バックの中から小さなピルケースを取り出す。沙智はそれを見て察したらしく、小さく首を振るが

「自分で飲めるか?」
「や、だ」
「駄目だ」
「…………や」
「嫌じゃねェ。飲めねェなら飲ませる、どっちがいい」
「う、うぅ……」

ぽろぽろと泣き出す沙智。だが、俺も折れるつもりはねェから、どっちと聞いていると澤村さんたちに「待て待て!」と止められた。邪魔しないで欲しいが、そんな態度を先輩たちに向ける訳にもいかず、

「なんスか」
「なんスかじゃねぇーよ!!沙智ちゃん、泣いてんだろ!辞めてやれよ!!」
「お、俺たちも沙智ちゃんの病気とか薬とかそこ迄分かんねーけどさ、泣いてる子を放っておくのも出来ねーべ……」

菅原さんの言い分も分かる。だけど、やっぱり口出ししないで欲しいと思ってしまう俺がいるのも事実。
いい人たちなのは分かってるのに、前の"ミズキ"さんの時みたくどす黒い俺の汚いものが顔を出す。零れてしまいそうになる悪態を飲み込んで、とりあえず今沙智を泣かせる原因となった薬の説明をした。

「コレは抗不安薬ッス。かなり強いやつなんで副作用で眠くなります」
「抗不安薬……ってあれか?。名前の通り不安を和らげる薬…?」
「はい。落ち着いてはいますけど、一応念の為に……。沙智、飲め。気持ちが落ち着くから」

さっきより成る可く優しく声をかけるが沙智は頑なに首を横に振る。これはもう無理やり口移しで飲ませた方が早いか?と考えていると、

「わ、わたし、ふつうになる、の」
「…………」

沙智の言う普通は、本当に普通の生活を指す。
普通に歩きたい。走りたい。友達を沢山作りたい。ぐっすり眠って、気持ちのいい朝を迎えたい。季節が変わる度に色んな行事を楽しみたいとか。そんな普通のこと。
そして、沙智の手には届かないもの。

長距離は歩けないし、走るなんて以ての外。
季節の変わり目じゃなくても風邪引いたり、入院したりと学校に殆ど行けてねェから、友達を作る機会すらねェ。毎朝頭痛やら吐き気、腹痛に襲われて起きて、俺か居ない夜は薬がないとまともに眠れもしない。
中学3年の時大きな手術をして、少しだけ歩き回れる体を手に入れたけど、其れでも沙智が望む"普通"にはまだ届かない。
沙智が普通になる為に、頑張ってきたことはずっと傍で見てきたから知っている。全部俺の為であることも知っている。だから、俺は此奴の事を思って話さなきゃいけない。

「沙智は普通じゃねェよ」
「っ!」
「お前が血反吐を吐いて、此処に居るのはずっと傍で見てきたから分かってる。でもな、沙智が望む普通はそんな頑張りが無くても、手に入っている"普通さ"だろ」
「ひっ、…うっ、」
「沙智が俺と一緒にいるために普通に憧れるのは知ってるけどよ。別に普通じゃなくてもいいだろ」

沙智を抱き締めて、ひとつになるかのように隙間を埋める。沙智の涙でじんわりとシャツが濡れていくのを感じるが不快ではない。泣いていいよ、だって俺は。

「泣き虫で怖がりで、」
「うっ、うう……」
「しょっちゅう倒れて俺をハラハラさせては、元気になれば表情をコロコロ変えて」
「ひっく、ふぇ……」
「何時も俺の事を考えてくれて、小さな手と身体で俺を守ってくれた沙智が好きなんだ。普通なお前が欲しくて好きになった訳じゃねェ」
「………っ」
「其れに俺もそんなに普通じゃねェだろ。沙智とバレーと飯のこと以外、あんまり興味無ェしよ」
「ふ、ふふっ」
「お。やっと笑った」

胸元から小さな笑い声。まだ嗚咽は溢れてるけど、笑えているなら、もう大丈夫だろう。少し笑った顔が見たくて、沙智の顔を持ち上げれば、何時もの花のように笑う可愛い顔がそこに居た。でも、目がとろんとして眠たそうだ。今日は沢山泣いたから仕方ねェか。

「薬はもういいから寝ていいぞ」
「…ん」
「家ついたら起こしてやる」
「…………ん」
「おやすみ、沙智」

そういうと電池の切れた玩具のようにスっと目を閉じて、寝入ったしまった。ここまですんなり寝れたのは久しぶりだな。ステージとかで寝かせて置く訳にもいかねぇから、やっぱり保健室に行くしかないか。沙智と保健室の先生は仲がいいから、部活終わるまでベットを貸してくれるだろうし。
バックを肩にかけて、沙智を抱き上げる。沙智を保健室に連れて行ってもいいかとさっき聞いたけど、俺も席を外す許可を貰ってないことに今更気がついた。改めて澤村さんに許可を取ろうとした、その時。

「今更だけどさ」
「はい?」
「沙智ちゃんもちゃんと烏野メンバーなんだし、俺たちにも彼女の病気とか色々教えて貰えないか。また今日みたいなことあった時のためっていうか………あ、ブライベートな事はいいからな!影山が話せるくらいのものでいいからな!」

確かに澤村さんの言う通り、沙智のことをよく知っている奴が多ければ多いほど助かるのは事実。少し俺の独占欲がイライラとするが、それには目を瞑ろう。だけど、

「全員が集まってから説明でもいいッスか?」
「あ、はい!」


prev back next
top