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触れる事が仕事で役目で使命で

男性こと降谷零はぬるい風が頬を撫でたお陰で目を覚ました。視界に広がるのは知らない天井。病院の様な無機質な物ではなく、誰かの家の様な。

「っ!?」

誰かの家と言う可能性が頭を過ぎった瞬間、降谷は飛び上がるように身体を起こした。痛む身体を我慢し、辺りを見渡してみる。学習机、クローゼットに小さな机と薄桃色の座布団、草臥れた毛布など誰かの部屋に寝かされていた。男性の部屋というより女性、しかも高校生くらいの年齢の部屋だった。
ベットから抜け出すと、知らない服を着ていたことに気づいた。丈は僅かに足りないが、男性のもの。この部屋の持ち主の父親、若しくは兄弟の物だろうか。服の下には包帯やら湿布など貼ってあり、手当までしてくれているようだ。
組織の奴らならここまで丁寧な治療も清潔な部屋に服を用意しないだろう。少なくとも組織の誰かという訳では無いことが分かり、降谷は息を吐き出した。

「……とりあえず部屋の主にお礼と風見に連絡しないと」

静まり返った部屋に降谷の声は響いた。
そう言えば、この部屋と言うよりこの家は物音1つしていない。壁にかかっていた時計に目を向けたが、まだ時刻は昼間を指している。両親は共働きか?。ここの部屋の子供はどこへ。確か、昨日は土曜だったから今日は日曜日のはず。部活にでも行っているのだろうか。だが、学習机の上に置いてある教科書の中に古典、現代文、数学と言った5教科の教科書が揃って無くなっており、部活と言うよりはきちんと授業を…登校しているように見える。進学校なら休日も授業がある所があるが、ここの子もそういう学校に通っているのか。いや、待て。俺が向かったあの現場近くに土日迄授業を行うような学校は無かったはず。

どういう事だと降谷は首を傾げるが、今すぐ女子高生の部屋を漁るのは流石に出来ず、部屋を出ることにした。
そもそも成人男性が女子高生の部屋で寝ていたという事に警察官として如何なものかと。上にバレたら懲戒免職の可能性もあり、何より部下に示しが付かない。
部屋の扉に耳を当ててみるが、矢張り物音1つしなかった。助けてくれた手前言うのもアレだが、危機感がないのでは無いのか。身元不明の男性を女の子の部屋に寝かせ、家に誰もいないなんて。普通なら両親どちらかの部屋か、客間とかに寝かせるだろ。
ガチャと扉を開けると埃一つ落ちていない廊下が拡がっていた。複数の扉がある所を見ると中々立派な家らしい。その中でも他の扉より立派な扉を開けてみると、そこは20畳ありそうな部屋があった。壁の1部が全面窓になっており、街を一望出来ていた。俺が居たはずのデパートは見えないが、このタワーマンションの反対側にでもあるのだろう。だが、あそこからここまで俺は歩いてきたのだろうか。風見に連絡もせず?。それともこの家の誰かが運んだのか?。

家具はモノクロ調に揃えられており、何処か無機質で温かみがない冷たい印象だった。そもそも必要最低限しか揃えていないようで、L字型のソファに壁に埋め込まれたテレビ、机に観葉植物くらいしかない。
そしてその机に、

「手紙……?」

ノートの1ページを破った紙と俺のスマホ、財布に警察手帳。そして紙袋の中には俺が着ていたボロボロになったスーツが畳まれていた。
少なくとも俺が警察官で公安の人間とここの家族にはバレたな。もう二度と会うことは無いように務めるが、口止めはしておかないといけない。

手紙には達筆な文字が書かれていた。

『降谷零 様
勝手に貴重品を漁ってしまい、誠に申し訳ございません。勝手に触れてしまい、誠に申し訳ございません。応急処置の類には自信がありますが、もしご不快でしたらこの家の近くに総合病院がありますので、其方に掛かって頂けますと幸いです。

私の名前は赤西花撫と言います。高校2年生です。父親は居ますが、母親は居ません。父親は滅多に帰ってこないので貴方の事を知っているのは私だけです。貴方の仕事から無闇矢鱈に風潮するのは良くないと分かっておりますので、貴方の存在も名前も誰にも言いません。
18時頃に私は帰る予定です。鍵はオートロックなので勝手に出て行かれても大丈夫です。

降谷様の怪我が早く治ることを祈っております。

赤西花撫』

一人暮らしなのか。この広い家で。子どもが。
女子高生としては達筆な文字に、大人びた言葉、物分りの良さ。降谷は彼女からの手紙をくしゃりと握り潰した。


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花撫は俯きながら学校から帰ってきていた。

彼、降谷さんはもう起きただろうか。と、頭の中でその言葉がぐるぐる回る。スクールバッグを抱き締めながら、腫れた頬を触る。ピリピリと刺すような痛みが刺さり、冷やさなかったのが悪かったなと後悔した。
もし降谷さんが家に居たらどうしようか。
身体の痛みは我慢すればいいが、頬の怪我は隠しようがない。心配かけてしまうかもしれない。いや、私の心配なんてするはずないか。

「……帰りたくない、なぁ」

何時もなら家に帰る時は少しは軽くなる身体が重たく感じる。降谷さんを助けたことは後悔してないが、まだ家に居たら困るという不安に押し潰されそうだ。

チーンとエレベーターから降りる。
重たい身体に鞭打って、自宅前の扉まで帰って来た。降谷さんは居ないだろうか。居ないと良いな。
カードを差し込むとカチャと鍵が開く音が聞こえた。何時ものように成る可く音を出さないように扉を開け、家の中を伺うとリビングに続く扉に光が零れていた。

「あ………」

いる。ふるりと身体が震えた。
電気を普段付けず、暗闇で過ごすようにしているため、消し忘れなどは有り得ない。ということはあの部屋には降谷さんはまだいるという事だ。
ゆっくり扉を占め、靴を脱ぐ。靴も私が今脱いだローファーと降谷さんが履いていた靴しか無いため、お父さんが居るわけでも無いらしい。
どうするべきなのか。
リビングに向かえばいいのか、それとも部屋に、何時ものように隠れるべきなのか。
花撫は痛む頬を隠すように手を当てて考えた。そして、逃げる様に、足音を出さないよう滑るように自分の部屋のドアノブに手を掛けた。その時だった。

「おかえりなさい」
「っ!!」

男性の声がした。降谷さんの声だ。
錆びたブリキの玩具様にぎこちなく声の方へ顔を向けると、柔らかく微笑む降谷さんがいた。
久しぶりに、いや初めて言われた『おかえりなさい』に、花撫はどう返せばいいのか分からなかった。
そもそも挨拶をする機会が殆どない、人と話すことも無く、声を出すのは基本謝罪ばかりの為、何と返せば不快にならないのかが花撫には分からなかった。
どうしようどうしようと頭は混乱し、スクールバッグを強く抱き締める。口は魚のように開いたり開いたりと間抜けな顔をしていた。
だが、降谷はそんな花撫を罵倒等せず柔らかく微笑み、

「赤西花撫さん。昨日は助けて頂き、ありがとうございました。お陰で身体を休める事ができました」
「………あ、りがとう……?」
「はい?。助けてくれてありがとうございます」

降谷は花撫の態度に首を傾げたが、気にせず再びお礼を口にした。だが、花撫はぽかんと惚けており、何故お礼を言われたのか理解していない様だった。

「助けて頂いたのにお礼もせず帰るのは出来ず…。あと、一人暮らしと手紙に書かれていたので、勝手に夕飯を作らさせて貰いました。冷蔵庫漁ってしまってすみません」
「お、れい……ゆうは、ん?」

花撫は降谷の言葉の半分以上理解が出来なかった。
おかえりなさいと言われたらなんと返すべきなのか。何故私にお礼をするのか。夕飯とは何か。私も食べていいものなのだろうか。何で降谷さんは私に頭を下げているのだろうか。

降谷は花撫の態度に些か怪しんだが、助けてくれた手前詰める事もせず、此方へとリビングへの扉を開けて中に入るように促した。花撫は視線を降谷と自分の部屋にキョロキョロと移し、迷う様な態度を見せたが、ゆっくりと降谷の方へと足を進めた。

「花撫さん?その頬、どうしたんですか?」

暗い廊下から光が指すリビングに彼女が来たことで、彼女の一際目立つ容姿が目に入った。真っ白な肌に真っ白な髪。そして真っ赤に腫れている頬も。
降谷にはその腫れ具合から何があったか想像が出来た。ぶつけた怪我ではない、誰かに殴れたものだと。事件が多い米花町だ。この子も何かの事件に巻き込まれて逃げてきたのではと思い、怪我の具合を見ようと彼女に触れようと手を伸ばしたが、

『パチンッ』

乾いた音が響いた。
花撫が降谷の手を振り払った音だ。

降谷としては振り払われた事に特に不快感などはなかった。と言うよりかは、事件に巻き込まれ、逃げてきたとして、例え俺が警察官だと彼女が分かっていたとしても信用などないほぼ初対面の男に触れられるのは怖いに決まっている。俺の配慮不足で怖がらせてしまったと謝罪を口にしようとしたが、

「ごめんなさい!」
「…え、いや、僕の方こそ」
「ごめんなさい、ごめんなさい、叩いてしまってごめんなさい、私、私なんかが…ごめんなさい!」

張り詰めていた糸が切れた様な。
薄氷が割れた様な。

花撫の薄水色の瞳からボロボロと零れ落ちる涙に、崩れ落ちるように座り込み、謝罪を繰り返す彼女。
これは只事ではない。本能的に悟った。

彼女はずっと何かに怯えていると。