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ここは奈落の花溜り

「彼処…です」

花撫が指差す方には切れ掛けの街灯に照らされる公衆電話が合った。まだ夜の9時を回った所のため、公園には犬の散歩をする人、バスケットコートで遊ぶ大学生や高校生が居た。当たり前だがこのご時世に公衆電話を使う人は殆ど居ないため、公衆電話の傍には誰も居なかった。今どき家電が無いのはまだ分かるが、女子高生でスマホ1つないって言うのは珍しい。親が普段帰ってこないと言うなら尚更。と、降谷は気になりはしたが、其れよりも確認しなくてはいけない事がある為、事情聴取は後回しにした。
公園に行く前に財布の中に入っていた紙幣と小銭を花撫に確認して貰ったが、そこは俺がいた日本と同じ物を使っているみたいだ。但し、キャッシュカードは見たことがないとの事なので、財布の中に入っていた数枚の諭吉と野口、337円が俺の全財産だ。諭吉が入っていてよかったと心から思った。此奴が居るだけで安心感が違う。まあ、ホテル暮らしが出来る程の余裕はないが。

「では、少し電話してきます。花撫さんはそこで待っていてください。そこなら公衆電話からでも貴女の姿が見えますので、何か合っても駆けつけられますから」
「あ…はい!…」

降谷の言う通りに花撫は、近くにあったベンチに腰掛けた。花撫がちゃんと座った事を確認すると降谷はスンっと表情が変わり、怖い顔をして公衆電話に向かった。
それもそうだ。ただでさえ、花撫の世界と己の世界で違うものを目の当たりにしてきた。彼が連絡を取ろうとしている"風見"に連絡が付かなかった時、彼が否定したい想像が本当になるのだから。

花撫は公衆電話で連絡を取ろうとしている降谷の横顔を見ながら、そんな事を考えていた。
彼を拾った時は巻き込まれたくない、お父さん怒られる、そんな負の感情を彼に向けていた。でも、降谷さんはお父さんや学校のみんなのように私を殴ったりしない。痛い言葉を向けてこない。優しい言葉で笑ってくれて、触れてくれた。こんな事をしてくれたのは、もう朧気なお母さんか、降谷さんくらいだった。
治療してくれた礼だと降谷さんは言う。でも、私がしたことは雑にシャワーで洗い、本で読んだ応急処置を見様見真似でやっただけ。私にとっては彼から貰ったものの方が私がした事なんかより大きい。私の方が降谷さんにお礼をしなきゃいけないくらいに。
なら、私は彼に何ができるのだろう。
お金を貸すとか?。でも、優しい降谷さんが喜んでお金を借りていくとは思えない。お父さんにやることを降谷さんにもやる?。それくらいしか私が差し出せるものがない。でも、今彼が困っていることに手を貸す方が降谷さんは喜ぶんじゃないか。世界を渡る方法を探す?……学校の図書室にそんな本あるのかな。



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『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』

無機質な女の声がループする。
どれだけ待ってもその声が風見の声に変わることはない。カシャンと受話器を降ろした。
そういう事だ。有り得ない事が見に起きているのだ。
風見の番号も公安の緊急回線も、何もかも繋がらなかった。しかも、相手が電話中のためコールが切れたり、留守電に入ることも無く、全て現在使われていないらしい。今日風見に電話した時は繋がったのにも関わらず。

「………最悪だ」

そんな言葉が思わず口から零れた。
最悪?。最悪すぎて反吐が出る。
こんな展開望んでいるわけが無い。
俺はやらなきゃいけない事がある、やり遂げないと行けない使命がある。アイツの為に、俺は!!!。

「クソッ!!!!!」

拳をガラス壁に殴り付けた。
切っ掛けはアレだ。アレしかない。
弾ける轟音、目が開けられない閃光、そして身を焦がす程の灼熱。そもそもだ。あれだけ間近で爆発したのにも関わらず、俺は五体満足でスーツが少し焦げているだけで済んでいるのがおかしい。普通なら絶対助からないだろう。
あの場で死ぬ気はなかったが、こんな違う世界に来てまで生きたい訳でもない。いや、そんなことより元の世界に帰るにはどうすればいいんだ。また、間近で爆発を受けるか?爆弾が関係する事件なんか、早々起きそうにないこの平和な日本でか。其れにもしそんなチャンスが起きても、本当に帰れるのか。

帰らないといけない。早く、今すぐにでも。
でもどうやって。また同じことをするのか。
今度こそ死ぬんじゃないか。
そもそもあの時俺は………。

コンコンと控えめなノックが聞こえた。
ハッと振り向くと眉を下げ、心配してますとありありと書かれた顔で俺を見ている花撫さんが居た。
扉越しではあるが、大丈夫ですかと声が聞こえた。動かないでとお願いした筈だが、俺が壁をぶん殴ったせいで駆けつけてくれたのか。無駄に心配を掛けさせてしまったな。

「……大丈夫です。驚かせてしまいましたね」
「いえ。………痛く、無いですか」

電話ボックスから出ると彼女は視線を左手に移した。壁を殴った手だ。少し赤くなっているが、痛みはもうない。痛くないですよと手をプラプラさせながら言うと、彼女は安心したのか肩から力を抜いた。

そんな彼女の優しさに少し笑ってしまう。
俺を優しいと彼女は言ったが、俺なんかより彼女の方が余っ程優しく善人だ。見ず知らずの人を助け、心配し、今もきっと聞きたいであろう事があるのに聞かないでいてくれる。まっさらで真っ白で純粋で。
恋焦がれる程己にはもう無い物で、遥昔に捨ててしまったそんな心を持つ彼女。ただでさえ純粋な癖に、彼女の環境のせいで"お願い"にも、"命令"にも弱くなっている。はいか、YESしかないのだ。
助けなきゃいけないはずの人だ。だが、

「花撫さん、お願いがあります」

はいと返事をする彼女の瞳から光が無くなったように見えた。客観的に見れば、今からすることは仕方ないことだろうと皆が言うだろう。手を貸すべきだと。だが、もし帰れたとしてきっと来たた時と同様に帰るその瞬間は突然訪れる。突然という事はさっきやった食事を作って礼みたいなことも出来ないし、一言礼を言えるかも怪しい。というか、不可能に近い。
協力してもらい、使い潰す癖に、俺は何も彼女に返せないままこの世界から去るのだ。
あぁ。自分を助けるために。
奈落に堕ちている彼女を救いもせずに。
ギリと胸の奥が痛む。だが、痛みを我慢して俺は君にお願いするしかない。俺にはやらなきゃいけないことがあるのだから。



「俺を助けてください…。お願いします」



花撫さん。
俺は優しい神様なんかじゃないでしょう。
奈落にいる貴女を見捨てるのだから。