17


珍しく自分が家を出る直前に帰って来た幼馴染が、靴を脱いだ傍から廊下に倒れ込んだ。本人は大丈夫だと言っているが、まったく大丈夫ではない。額に触れてわかるほどに熱が高い。あまり時間がない。彼をベッドへ運び、無理やり部屋着に着替えさせたところでタイムリミットが迫ってきている。休めれば一番いいが、そうもいかない。

「一二三…俺は、大丈夫だから。仕事、もう、時間だろ」
「けど…やはり、何か食べて、薬飲んだ方がいいって」
「それくらい…1人でできる。ほら、早く行け」
「けど」

本人が思っているより熱が高い。病院で点滴を受けた方が良いかもしれない。いや、考えすぎか?ここは先生に電話して…って、出るわけないか。仕事が忙しいに決まっている。他に思いつく人物……やばい、もう出ないとまずい。

「独歩くん、必ず助っ人を呼ぶから大人しく寝ていてくれ」
「……一二三、時間」
「あぁ、わかっているよ。行ってくるね」

もう悩む時間はない。彼女の仕事だって緊急性が高い、来られるとは限らないが聞いてみるしかない。
電話越しに聞こえる柔らかな声が自分の名前を呼んだ。事情を説明すると「ちょっと待ってくださいね」と言った後に会話が聞こえて来る。丁度通りがかったタクシーに乗り込み、彼女の返事を待つ。

“銃兎さん、今日ってこのまま上がっても大丈夫ですよね?”
“えぇ、構いません。近い所なら、このまま送りますよ”
“ありがとうございます、なら次の駅のところで降りたいです”

「あ、一二三さん。お待たせしてすみません。仕事上がれるので、そっちに行きますね」と良い返事を受けて、家の場所と鍵の受け渡しについて話をする。そうこうしているうちに、タクシーから降り店に向かう。めめちゃんには、申し訳ないが店から1番近い大通りにまでは来てもらうことにした。それから少しして、店を開ける前に連絡をくれた彼女に鍵を渡すため、身なりがわからない状態で店を出て、手はず通りタクシーの中で待っていた彼女に鍵とタクシー代を渡し、住所を運転手に伝えた。

「鍵はスペアキーなので、再びお会いできるときに、お返しください。では、独歩くんをよろしくお願いします。プリンセス」
「わかりました。独歩さんのことは、任せてください」
「必ず、日付が替わる前には必ず自宅にいてくださいね」
「はい」

大切な幼馴染が、初めて彼女のことを話した時、酷く困っていたことを思い出す。そんなに悩むのなら会わなければいいのに、関わらなければいいのにと、そう思った。それでも独歩が何もしないのは嫌だと言ったから背中を押すことにした。「たぶん、一二三も会ってみたらわかると思う」と独歩は言っていたけれど、自分がスーツを着ることなく彼女を接することはもちろん直視することもできない、そう思っていた。鑑定結果が出たあの日、先生と独歩とめめちゃんがいる診察室で、彼女と目を合わせて息を吸った瞬間、ほんの一瞬震えが止まるような不思議な感覚があった。隣に独歩がいたからかもしれない、似ていたからかもしれない、けれども何かいつもと違うという感覚が少しだけ嬉しかった。“会ってみたらわかる”というのもちょっとだけわかった気がした。

“めめと話すと、肩の力が抜けて、気が楽になる気がするんだ。安心するというか、なんというか、形容しがたい何かが、こう…めめにはあるんだと思う。前に先生も、めめの声質に興味があるって言ってたんだ。波長がどうのって難しい話をしていたけど、そういうのも関係しているのかもな”

そうなのかもしれない。あれだけ落ち着かなかった気持ちが、めめちゃんの「任せてください」の一言で、もう大丈夫だなと思えてしまった。独歩くんが、どんな反応するのか少しだけ興味はあるが、これで仕事にも身が入りそうだ。







熱がある。それは、自分でも理解していた。だから早めに家に帰って、確か一二三が…?

「…え」
「あ、独歩さん、起きました?」
「……」
「食欲ありますか?薬飲まないといけないので、少しだけでも食べられたらいいんですけど」
「……なんで、あれ、ここ俺の家だよな」
「そうですよ。一二三さんが、独歩さんが熱を出して倒れたから様子を見ててくれないかって連絡くれたんです」
「…あいつ、そういえば助っ人がなんとかって言って」
「私は大丈夫です。まずは独歩さんが薬を飲まないと、私のミッションが達成されません。雑炊できてますけど、食べられますか?おかゆの方が良ければ、おかゆにもできますよ」
「雑炊で大丈夫」
「わかりました。用意して持ってきますね。じゃあ、その間に体温、計っておいてください」

パタンと閉まった自室の扉からベッドサイドに視線を戻すと、2本がスポドリで1本が水のペットボトルが置かれている。そして、自分の額には冷却シートが貼られている。まさか、めめが来るとは思っていなかったが家に上げられるような共有の友人がいるわけでもなく、まして忙しい先生を呼ぶわけにもいかないとなれば必然的に彼女に絞られるのか…一二三が、めめに電話をしたのか。ああ、駄目だ頭が痛い。いい年をして恥ずかしいが大人しく、彼女の好意に甘えよう。

「無理して食べなくていいので、遠慮なく残してくださいね」
「ありがとう」
「38.4…これなら病院に駆け込まなくても大丈夫そうですね」

身体を起こしている間に、めめが枕を氷枕に取り換えてくれた。口に運ぶ雑炊は、ほどよい柔らかさで喉を通っていく。味の良し悪しは今の自分にはわからないが、きっと見た目通り美味しいのだろう。食欲はないが、レンゲで3口ほど食べることはできた。一二三がいつも買ってくる薬を彼女が薬局で買ってきてくれたのか、隣で封を切りながら箱の文面を読んでいる。

「市販の薬で治らない場合は、すぐに病院で処方してもらってくださいね」
「うん」

食器を下げながら「蒸しタオル、用意してきますね」と、返事を待たずに部屋を出て行った。至れり尽くせりで申し訳なくなってくる。頭痛に響かない優しい声が身に染みる。そういえば、結局、お互い時間が合わずに食事に行くことは叶わないままだ。

「あと1時間くらいしたら、私も家に帰るので何かあれば言ってくださいね。リビングにいますから」と程よい暖かさのタオルを置いて彼女は部屋を出て行った。あぁ、なんてありがたいのだろう。軽く身体を拭き、着替えを終えてベッドに潜ればすぐに眠りに落ちた。





目を覚ますと、外は明るかった。頭は、ぼーっとしているが熱は下がっているのがわかる。自室を出て冷たい水を求めて台所へ向かうと、めめが残したメモが机に置かれていた。文字を目で追いながら冷蔵庫を開けると、メモにある通りタッパーの中に漬けられたばかりの野菜が入っていた。明日以降の朝食にありがたく頂こう。
“口に合わなければ処分してください”と、おそらく一二三を気遣う言葉が添えられていた。どうだろう。あいつが食べなくても俺が食べるが…。少なくとも、めめのことを悪くは思っていないだろう。俺のせいとはいえ、彼女を家に上げることを決めたのは一二三だ。

玄関で音がして、一二三が帰って来た。

「ただいまーって、どっぽっちん熱は?!まだ寝てた方がいいって!!」
「おかえり一二三。もう下がった、心配かけてすまん。まだ、平熱まではとはいかないけどな」
「それ下がってないじゃん?!そうだ、めめちゃんは、無事に帰った?」
「あぁ、日付が替わる前には帰ってる」
「おれっちとの約束通り!」
「そういえば、お前、めめの連絡先知ってたのか?」
「あー独歩の携帯見た。ごめん」
「いや、いいけど。ありがとな…めめが冷蔵庫に漬物作って帰ったから、明日には食べられるって」
「さっすが、めめちゃん!!浅漬けかなーぬか漬けかなー」
「……」
「…めめちゃんなら大丈夫ってことは、ないけど。でも、独歩が言ってた意味はちょっとわかった気がする」
「そっか」

少し落ち着いた顔で口を動かした一二三に、自分も自然と口角が上がった。

「どっぽちん、食べてみー」
「え?でも、明日って」
「ほれほれ」
「……っ!」
「ちょー美味しいだろぉ?」
「うん!!」

後日、ジャケットを着たホスト状態の一二三が漬物のレシピを復唱する不思議な状況を目にすることになった。








助手席に座る椿が、何かのレシピを電話相手に伝え始めた。職務中に、一体何を話しているんだ。

「今の電話なんだったんですか」
「漬物のレシピです」
「なぜ?」
「一二三さんが知りたいと聞いてくれたので」
「一二三さん?あぁ、あのホストの…貴女、ホスト通いしているんですか?」
「違いますよ?家に行くことがあったので」
「い、家に行く?…あの、話がわからないのですが」
「独歩さんが、熱を出したので助っ人に家にお邪魔した際に冷蔵庫に野菜を漬けて来たんですが、美味しかったのでレシピを教えて欲しいと言われたんです」
「貴女が行ったのは、観音坂さんの家、ですよね?」
「一緒に住んでるみたいです」
「そうですか」
「銃兎さんもレシピ教えましょうか?」
「結構ですよ。あまり料理はしないので」
「そうなんですね。だから、美味しいお店をたくさん知ってるんですね」
「昼時ですが、どうしますか?」
「今日は蕎麦の気分です」
「いいですね、近場に良い店を知っていますので、このまま向かっても構いませんか?」
「もちろんです、お願いします!」


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