暗い幕内からステージを見ると抑えていたはずの緊張が湧き上がってくる。ピクリと弾む指先に喝を入れて、今日のラッキーアイテムである猫のキーホルダーをポケットにしまう。大丈夫だ。蟹座は一位だった。そこにさらにラッキーアイテムの補正だ。今までの練習だって怠っていない。験担ぎも全ていつも通りに行った。万全だ。それでも、どうしてもこの瞬間だけは慣れない。
それに今日は父さんがいない。緊急外来でどうしても行かなきゃいけない、すまないのだよ、と早口で言われた時はなにも言うことができなかった。父さんの仕事上仕方ないことだ。わかっている。わかってはいるけれど、どうしても割り切れない幼稚な自分が嫌になる。
だが、今日は父さんの代わりになまえが来ている…はずだ。ダメ元で誘ったら笑ってくれた、もちろんと言ってくれた。まだ姿を確認したわけじゃないけれど、僕の練習を一番見てくれていた彼女が約束を違えるとは思えない。僕は彼女のことを信頼している。だからこそ、情けない姿は見せられない。
「緑間くん、次出番です」
スタッフの女性にそう声をかけられ、僕はステージに足を踏み出した。起こる拍手の中、客席を横目で見ると…
すぐにわかった。
(なんて顔で拍手してるのだよ…)
自分でもなぜ見えたのかは謎だ。ステージは明るく、客席は暗い。普通は光の関係で一番前の席ですら薄っすらとしか視認できないのに、真ん中より後ろの席の彼女をこうも早く見つけられるとは。
なまえはまるでこれから自分が出るのだと言いたげな面持ちで拍手していた。なぜ僕以上に緊張するのだよ。その様子が酷くおかしくて、ついクスリと笑ってしまう。不思議と肩の力は抜けていた。
光照らされたステージにグランドピアノが一台。
それを奏でる僕と、観客は君一人。
いつもの昼下がりと、相違ない。
「すっっっっっっっごか、った!!!!」
会場の中から出てきた彼に、母を置いて走り寄る。
興奮のあまり息が切れる私を、真太郎くんは呆れたように笑ってくれた。その手には最高位の賞状が収まっている。
真太郎くんの演奏は至っていつも通りだった。その「いつも通りに弾くこと」ができること自体が凄いことらしい。楽器が弾けない私にはよく分からないけれど、母も周囲の人も聴き入っているみたいだったし、本当に素晴らしいピアニストなのだろう。その手に賞状が渡された瞬間、少しウルっとしてしまったのは内緒だ。
「凄かったというが、具体的には…?」
「え…、いや、えと、すごいなんかこう、綺麗だった…です」
「お前はそれしか言えないのだな」
また言ってしまった…と項垂れる私を他所に、真太郎くんはクスリと笑う。その表情があまりにも幼げで、ああ、この子も小学二年生の男の子だったな、と思い出す。大人っぽいから忘れがちだけど。
その表情に見惚れる私に気付かない彼は、ゆっくりと口を開く。
「……今日は父さんがいないのだよ」
「え…?」
「だから、少し不安ではあった。自分のことは信頼しているが、寄る辺がないような気がして。だが、お前がいたからいつも通り弾けたのだよ。父さんに観てもらいたいと焦る気持ちもなかった。本当に、いつも通り、……いつも通り、だったのだよ」
とても大切そうに、その時間を慈しむように、彼は穏やかに呟いた。
確かに今日は緑間先生を見かけていない。緊急の患者でも入ったのだろうか。それはどうしようもないことだけれど。でも、真太郎くんに悲観した様子などはなく、それで良かったのだと言いたげに笑う。もし私の存在が今日の演奏に少しでも貢献できたのだとすれば、それ以上に素晴らしいことはない。本当に、見に来て良かった。
「興奮するのもわかるけど、あんまり迷惑かけないの」
「あ…母さん」
突然背後から呆れたようなため息が聞こえてきてそちらに首を巡らせれば、やれやれと言いたげに肩をすくめる母と目が合う。真太郎くんはピンと背筋を伸ばすと「緑間真太郎です」と挨拶してくれた。
「今日は来てくださりありがとうございます。……なまえさんは、いつも僕の練習に立ち会ってくれて…」
「あー、いいのよ。この子は多分自分がしたいことをやってるだけだから、えーっと、緑間くん?は気にしなくても大丈夫」
「ですが、今日このような素晴らしい賞をいただいたのは…」
「いやいや、それ全部真太郎くんの実力だからね?私何もしてないし…」
「そうよ。この子楽譜も読めないんだから」
「ちょっと、そう言うこと真太郎くんに言わなくていいからね?」
いつも通りの攻防を繰り広げていると、真太郎くんはきょとんと目を丸くしていた。しまった、完全に家のテンションだった。慌てて謝罪をすると、真太郎くんは非常に驚いた様子で「親子とは似るのだな」と呟く。申し訳ないが、「真太郎くんにだけは言われたくないなぁ」。私の言葉に真太郎くんは「いや、僕は似てないのだよ」と言うけれど、その父親譲りであろう語尾に全然説得力がなくて、思わず吹き出した。
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