小学四年生になってしばらくすると、母が私に一枚のチラシを差し出してきた。無言でそれを受け取り、内容に目を走らせると、それは少し離れたところにある名門塾のものだった。
「え…これ…」
「なまえが良ければ、受験してみない?」
「………」
私はふと去年の秋のことを思い出した。きっと彼女は今日までずっとそのことを悩んできたのだろう。そして、自分の覚悟を持って私に判断を委ねる道を選んだんだ。
これが彼女の決断なら「いいの?」なんて聞くのは野暮なのだろう。
「あの……、もしかしたら色々ダメになっちゃうかもしれないけど、私、挑戦という意味でなら、やってみたい、かも」
せっかくの二度目の人生ならば、やれなかったことを。今しかできないことを。大人になったらできなくなるって、痛いほど知っているから。
母はにこりと微笑むと、「来週の火曜日に見学に行ってみましょう」と言ってくれた。今までに人生を決定的に逸れる選択をしたのは、これが初めてのことだった。
「真太郎くんってさー、塾行ってるんだよね?どんな感じなの?」
「いきなりなんなのだよ」
彼が鍵盤から指を離した瞬間に聞くと、ふぅとため息を吐いて体ごとこちらを見てくれた。最近彼はあまりピアノを弾かなくなった。というのもバスケットボールにかなりハマっているようで、「極めてみせるのだよ」と意気込んでいるようだ。もちろんピアノをやめたわけではなくて、何でもかんでも中途半端なのが嫌みたいで、ピアノに割いていた休日を少しずつバスケに宛てがっているらしい。だから、月に二度会えればいい方だった。
「いや、なんか中学受験することになって、塾に行くことになったんだけど、行ったことないし雰囲気が気になって…」
「雰囲気も何も……塾によって変わるだろう?集団授業もあれば、僕のところのように個別指導の場合もある。あまり望んだ答えが返せるとは思えないが」
「たしかに…それもそうだよねぇ…」
真太郎くんの淡々とした切り返しに頷く他ない。どうしたものかと唸っていると、弾むようなピアノの音が聞こえてきて思わず耳を澄ませた。とりあえず今は深く考えるのをよそう。
そうこうしているうちにあっと言う間に火曜日が来て、私は母に連れられ塾に訪れていた。事務室で軽く説明を聞いて、実際に教室に案内される。
「もう少ししたらみんなやってくるんですけど…今は…」
母に続いて教室を覗くと、そこには一人の男の子が机に向かい合っているのが見える。教室の構造は大学に近いものを感じた。
男の子は音を聞いたのかこちらを向くと、ぺこりと頭を下げてくる。礼儀正しそうなその仕草に思わず会釈で返してしまう。優しそうな男の子だ。私が通う教室にいるってことは同い年なのだろう。
「今日も早いね、花宮くん」
「家にいても一人ですし、ここは環境が整っているので…」
花宮くんと呼ばれた男の子の返答に、事務員さんは曖昧に微笑む。彼の口ぶりには様々な事情が垣間見えた。
詳しい説明は母が聞くだろうと思い花宮くんに近づくと、手元のノートは綺麗に整理されていて驚いた。
「はじめまして、えっと、花宮くん?私は…」
「気安く話しかけんじゃねえ」
「え……?」
先ほどと全く違う声音で言われた言葉がよく理解できずに固まっていると、シャーペンから手を離した彼は心底めんどくさそうに私を見上げてそれからにこりと微笑む。あまりの変化に一瞬何があったのかわからなかった。
「てめえらのような低脳とつるんで俺になんの利益があるんだよ。自分の立場理解してから話しかけろバァアカ」
小学生とは言えないとんでもない物言い。
冷たい態度と声音。
先ほどの先生とのやりとり…これは…。
「花宮くん…何か辛いことでもあったの!?」
「は!?」
話なら聞くよ?と隣の席に座ると、彼は冷ややかな目をこちらに向け、「何言ってんだ」と言いたげに眉根を寄せた。
私と同い年の子で反抗期が来るのは珍しいことだ。基本的に中学生くらい、つまり第二次性徴の時期にやってくる思春期が反抗期になるんだけれども、彼のはそう言うのとは少し違うと言うか、所謂猫かぶりのようなものに感じる。
例えば大人に対しては本音を言えない事情があるとか、猫を被らなきゃいけないようなことがあるとか。それこそまあ家庭環境によるものだから私にはどうしようもないことかもしれないけれど、話ぐらいだったらいくらでも聞ける。都合のいいことに、今の私は見た目が小学生だし。
「別に、何もねえよ。うぜえな」
「言ったら楽になるよ…?」
「はっ!バカじゃねえの。これだからいい子ちゃんは。世の中には俺みたいなやつもいるんだよ。学べてよかったなバカ。感染るから近寄んな」
「世の中には私みたいな奴もいるの。学べてよかったね花宮くん」
「クソが……っ名前を呼ぶんじゃねえ!」
「下の名前は?」
「言うわけねえだろバァカ!!」
「真くん?」
「てめぇ…」
彼の手にする持ち物の一つ一つに名前が書いてあったため、名前はすぐにわかった。花宮くんのジト目を笑って流すと、彼は深い深いため息を吐き出す。
「めんどくせぇな、お前」
「ふふ、褒め言葉だと思っておくね」
「勝手にしろ」
私に何を言っても無駄だと悟ったのか、花宮くんは何事もなかったかのようにシャーペンを手にしてノートに向き合う。結局何も聞けていない、ともう一度声をかけようとすると「なまえー?」と私を呼ぶ母の声が聞こえて、慌てて席から立ち上がる。
「なまえ…ねぇ」
「あ、聞いてた?」
「うるせえよ」
「多分ここ通うし、よろしくね?」
「勝手によろしくすんな」
「勝手にしろって言ったの花宮くんだもん」
「都合のいい頭してんな」
「でしょー?結構楽よ」
「はっ!悪そうな頭」
そんな悪態を聞き流して母の元に向かう。振り向いて彼に手を振れば、親や先生の目があるからか、にこりと笑って手を振り返してくれて思わず吹き出すところだった。
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