「真太郎くんひさしぶりー!!」
「2ヶ月ぶりか」
私が塾に通い出すと真太郎くんと会う回数は更に減った。夏休みに入ってすぐに会えると思ったのに、結局8月になってしばらくするまで全くといっていいほど予定が噛み合わず、ほぼ2ヶ月ぶりの今日やっと会うことができた。感覚的には“再会”といった感じだ。勢いよく飛びついた私を彼は苦笑しながら受け止めてくれて、珍しいこともあるものだと思った。いつもなら「やめるのだよ」とか「暑苦しいのだよ」とかいうのに。受け止められると逆に反応に困ってしまう。
「や、あー、え?ど、どうしたの?」
「なにがだ」
「いや、珍しくない…?こんな、………」
声に出して確認するのは恥ずかしくて、「ナンデモナイデス…」と彼から離れる。あの幸男くんも私だけには慣れたのだから、こういうこともあるのだろう、うん。うーん、こっちが恥ずかしいのは悔しいしこういうスキンシップは少し控えようかな…。
「というか……、今日ピアノは…?」
いつもはホールの中央にあるグランドピアノに座って演奏している真太郎くんが、今日はいつも私が座っているホールの壁沿いのベンチに座って本を読んで待っていた。こんなことは今までなかったし、楽譜も手にしていないようだ。
「そうだな…お前には言っておかなくてはならないと思っていたのだよ」
「言うって……何を?」
身を正した真太郎くんのレンズ越しの瞳が真剣みを帯びる。何か重大なことを言われる予感がして緊張感が走った。ゆっくりと息を吸った彼は、静かに唇を動かす。
「僕はもうコンクールに出ることはやめたのだよ」
「………え…?」
その言葉があまりにも予想の範疇を超えており言葉がない。どうすればいいのか、なんてどうしようもないことを考えながら、彼の言葉を整理し終える前に真太郎くんは続けた。
「もちろんピアノをやめるわけではない。しかし、そもそもピアノは父の勧めで始めたもので、父に褒めてもらいたくて続けたものだ。だが、前回のコンクールで僕は初めて父以外の人のためにピアノを弾いた。その瞬間、“父に認められたい”という根本的な目的が変わってしまった。僕の目指すべき道がわからなくなってしまった」
待ってと言っても多分彼は止まらない。複雑に、曖昧に笑うだけだ。それが分かっているから、私は言われるがままに耳を傾ける。
「もちろんそれに後悔はない。自分の意思でピアノを弾けたことは誇りに思っているのだよ。しかし、こんな宙ぶらりんな状態でピアノを続けるのはプライドに関わる死活問題だ。それに……」
ずっと抱えていたのだろう彼の思いはとどまるところを知らない。私はそれを受け止めるのでいっぱいいっぱいだった。
彼は自分の陰に隠れていた何かを取り出した。
それはとても馴染みがあるもので、だからこそ彼の本気が伝わってきた。
「今はもっと上を目指したいものを見つけてしまったのだよ」
バスケットボールを抱えて辛そうに笑うその姿が、目の奥を焼く。どうして、真太郎くんがそんな顔をしているの。自分の決断を誇りに思ってよ。じゃないと、もう一度ステージの君が見たいなんて願ってしまう私が諦めきれなくなってしまうじゃないか。欲を出してしまう私の不遜な感情なんて、コテンパンにしてくれなきゃ、困るよ。
「………なんで、私に話してくれたの?」
「お前が考える機会をくれたからだ」
「これって、もう決定事項?」
「いや……今から、お前を納得させる」
彼はそう言って私の手首を掴むと走り出した。その横顔が強い決意にあふれていて悔しい。
情けない。自分が情けない。もう十分大人なのに。ワガママなんて、らしくないくせに。
でも、彼を“綺麗”だと思ったあの一瞬を、私が見ていたいと思っていたものを奪われるのは、たとえ本人でも認めたくなかった。
彼が私を連れてきたのは大学病院内にあるストリートのバスケットコートだった。大好きな場所だが今は少し恨めしい。
彼は私に「座ってろ」と言いドリブルをしつつコートに入っていく。私は大人しくコート傍のベンチに腰かけた。
真太郎くんはしばらくドリブルをするとスリーポイントラインに立った。まさか、そんなわけ。
そう焦る私を他所に、彼は超自然な動作でボールを構えた。
「うそ…」
ミニバスにスリーポイントシュートはない。どこから放ってもそれはツーポイントになる。だから、これは、彼がこれで生きていくことを示すためのものだったのだろう。
そして放たれたボールは、なんとも優美な弧を描き、リングに触れることなくネットをくぐる。
文句のつけようもない、完璧なスリーポイントシュートだった。
純粋に綺麗だと思った。
その動作が。空気が。音が。瞬間が。全てが美しく、乱れのないその様が、私が黙るほかないほど美しくて、視界が滲み出す。
「なんで、泣くのだよ」
わからなかった。
きっと、喜びと悔しさでぐちゃぐちゃになっていて、自分でも制御できなくなってしまったのだろう。
彼に伝える言葉が見つからなくてひたすら目元を拭う。「泣かれると、困るのだよ」苦しそうに言う真太郎くんは優しく私を抱きしめてくれた。
ああ、どうすればいいのだろう。
思ったことを言ってしまってもいいのだろうか。
私はゆっくり息を整えて、言い慣れたその一言をつぶやく。
「綺麗、だった…っ」
一瞬黙った彼はしかしすぐに「それしか言えないのか」といつものように笑ってくれた。
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