「わーい!ペンギン!」
「ちょっと裕!?あまり走らないでねー!?」
薄暗い水族館の中でペンギンを見つけたのだろう裕は嬉しそうに走り出す。傍の母はあっけらかんと笑っている。
「いいじゃない今日ぐらいは。人もいないんだし!」
「まあ、いないわけじゃないけれど…たしかにぶつかることはないよね」
今日は隣町に新しくできた水族館のプレ会館の日だ。父がこの水族館の建設事業に関わった関係から招待していただいた私たちは、閑散とした水族館の中を歩く。集まったマスコミはまだ水族館の館長やスポンサーにインタビューをしているようで、水族館の中は私たちのような関係者の家族がゆったりと水槽を見て回っていた。
漠然と「綺麗なもの」が好きな私はもちろん水族館が大好きだ。深海魚やクラゲなんかも幻想的で美しいと思うけれど、個人的には薄暗い館内を真っ青に染めるこの独特の雰囲気が一番綺麗だと思う。
「わぁ…あっちなんだろう」
「ん?何か見つけたの?」
「うん!ちょっと見てきていい?」
辺りを見渡しながら見つけたのは路地裏のような暗く細い道。その先が一面青色で埋まっていて俄然興味が湧いた。放任主義の母は、「裕は見とくから行ってきなさい」と言ってくれる。それに頷いて細い道に向かうと、そこには特別展示室と書かれたプレートが掲げられていた。
(特別展示室…?)
大人が二人分通れるかどうかくらいの細い道をくぐると、一面が青で染まった。
「うわぁ…」
思わず漏れる感嘆の声。壁一面が水槽に埋められたその部屋は、静かでまるで水中にいるかのように錯覚してしまう。その水槽にはまだ何もいなかった。
「ここはアートアクアリウムになる予定だそうだ」
突如聞こえた声に振り向くと、そこには全身を青い光に包まれた少年が立っていた。整った顔とそのルビーのような瞳、柔らかそうな赤色の髪を私はどこかで見たことがある気がする。
「アートアクアリウム…?」
「そう。アクアリウムに芸術性を掛け合わせた近代アートだよ。季節に合わせた展示を予定しており、幻想的な雰囲気を保つために入室制限を設けるといっていたな」
「入室制限…!?は、入ってよかったのかな…?」
「今日はプレ会館だから大丈夫だよ。それに、ご覧の通りまだ水槽は空だ」
確かに水槽の中には水草の一つもない。ただひたすら一面の青が広がっている。こっちの方が綺麗だと思う私はおかしいだろうか。
「何も…入れなくてもいいのにね」
そう言ったのは私ではない。彼はまるで私の気持ちを見透かしたかのように口角を上げた。バレてる、と口元を押さえるとクスクスと笑われて少し恥ずかしい。
「でも、オレもそう思うよ。淀みのない青が、一番美しい」
「だよね…。ふふ、良かった。私だけじゃなくて」
「……ああ、そうだ」
彼は一度満足そうに笑うと、何かを思い出したように声を上げる。そして突然手首を掴まれるものだから、びくりと肩が跳ねた。ゆらりゆらりと青い光が揺れる。
「今日は、オレと一緒に逃げてくれる…?」
その言葉が、瞳が、私の記憶を呼び起こす。
彼とは以前一度だけ会ったことがあった。
この落ち着きよう、光の加減で金色に輝く瞳、間違いない、真太郎くんのコンクールの日、あの時にあった男の子だ。
「ま、待って…」
「ん?」
「これって……偶然?運命?」
「ははは…っ、面白いことを聞くね?…オレ的には、運命がいいんだけど」
なんていたずらっぽく笑った彼は止める間もなく走り出す。引かれるままに特別展示室を飛び出して閑散とした館内を走る。どこに行くのかはわからないけれど、それもいいなと思った。
「君は今日も付き合いできたの?付き合いの付き合い」
「そうだね。父がこの水族館のスポンサーで、お前も将来的にはこういうことをするようになるからよく見ておけなんて言われて来たけれど…」
そこまで言って彼は口をつぐむ。そして声色をガラッと変えて、笑みを含みながら「そういえば」と切り出した。
「名前を聞いていなかった。オレは赤司征十郎、君は?」
「−−みょうじ なまえ」
「みょうじさん」
彼は、赤司くんは確かめるように呟いて目元を緩める。なんだかくすぐったい。
それにしても、「赤司」というのは聞き覚えがある。同じ名字の知り合いがいるとか、そういうことじゃなくて…。例えばそう、テレビのCMとか、広告とか、そういう類のもので…。
「え……そういえばお父さんがスポンサーって…」
「ああ、言ったね」
「もしかして“赤司コーポレーション”の……ご子息様では…?」
「あの…その言い方は恥ずかしいからやめてくれないか…?」
赤司くんは恥ずかしそうに耳をうっすらと朱に染める。私の問いに否定はなかった。それはつまり“肯定”ということだろう。
「赤司くん本当に逃げてきてよかったの!?」
「今更なことを聞くんだね」
彼はあっけらかんと「大丈夫だよ」と言うが、残念ながら私が大丈夫ではない。
今までちょっと大きな家に住んでる子とか、食卓に並ぶご飯が豪華な子とか、そう言う小金持ちの友達はいたけれど、赤司コーポレーションともなればそんなレベルではない、本物のお金持ち、いいや大金持ちの御坊ちゃまだ。赤司コーポレーションは日本有数の名家である赤司家が…なんて説明を何処かで聞いた覚えがあるが、「名家」なんて崇高な響きにトンと縁がなさすぎてまさかこんなに身近にいたなんて思わないだろう。
「オレの家のことは気にしないでくれよ。この肩書きでまともに友人がいないんだ」
「そ、そうなの…?」
「ああ、家の力を恐れた親たちが、あまり関わらないようにと釘を刺しているみたいでね、友人と呼べる人間は片手で数えられるくらいしかいない。………遊ぶ暇もないから、こう言う時でしか自由はなくて……って、これはもう愚痴ということになってしまうな」
「悪い」と曖昧に微笑む姿があまりにもあどけなさを帯びていてゾッとする。彼はこんなに小さいのに、いったいどんな人生を歩んできたのだろうか。それは私たちの想像を絶するものだろう。その抑圧が彼に自由を求めさせるのか。私の陳腐な人生では到底理解できると思えない。
「………わかった。家のことは気にしない!」
「うん…それがいいな」
「じゃあ、行けるとこまで逃げよう」
「行けるところまで、か………!」
「じゃあ−−」 と口を開いた彼の表情はまさしく年相応に輝いており、その眩しいくらいの笑顔に私はつい足を早めてしまう。
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