以前花宮くんへの日頃のパンのお礼に焼いたカップケーキを敦くんにあげてしまったため、そのお礼はまだ出来ずにいた。だからそれを思い出してクッキーを焼いた私はマフラーをぐるぐる巻きにして塾への自転車を漕ぐ。一月の風は冷たく……というか痛いくらいだ。
塾について自転車を駐輪所に停めると、珍しく花宮くんを見つけた。この時間に外にいるなんて……と考えながら近づくと彼の傍に見たことがない女性が立っておりギョッとする。話しかけていいのか分からずいると、花宮くんの方がこちらに気付いて駆け寄ってくる。見てんじゃねーよみたいなこと言われるのかなと身構えていると、彼はにっこりと笑って私の手を取る。え?にっこり笑う……?
「ほら、いこうみょうじさん!」
そう言った花宮くんはその女性に空いた方の手を振ると、私の手を引いて塾の中に入ってしまう。振り向くとその女性が少し心配そうに手を振っているのが見えた。正面から見るとわかる。きっと彼女は花宮くんのお母さんだ。髪色とか、目元が似ている。とても綺麗な人だ。
すごく、驚いた。
驚いた……というより、わかってはいたがこうやって見せられると違和感で苦しくなる。花宮くんは、実の母にも「嘘の貌」しか見せていないということに。
今日は時間が合ったから送ってもらったのだろうか。いや、送ると母親の方が言ったのだろう。それを花宮くんは断らなかった。いや、断ることができなかった。彼女から早く離れたくて私を捕まえたのだろうか。あんな笑顔を作ってまで。それほどまでに彼は……実の母に心を許していない。
花宮くんは何も言わずにズンズンと歩を進めるから何も言えない。私の手首を引くその手は少し痛いくらいだった。でも、痛いなんて言えなくて口をつぐむ。本当に痛いのは誰なのだろうか。
教室の前まで来るとやっと彼は手を離してくれた。そしてそのまま一人で中に入ってしまう。私はずっと廻り続ける思考に足を踏み出せずにいた。どうにかしようと思うことが間違いなのはわかっている。今のを見て理解する。彼はもう修復できないのだ。とっくの昔から。彼の過去はもう決まってしまっている。私のようにやり直すことなんてできないし、きっと花宮くんは後悔なんてしていない。
だから私が気に病むのは間違っている。私が、大人でよかったと、そう思った。もしなにもわからない子供だったら、自分の価値観でモノを語って、尺度や感性を押し付けて、花宮くんは悪態をついてくれなくなっていたかもしれないのだから。
私は小さく息を吐いて教室に入る。そしていつもの席に座ってからカバンを下ろした。この中には花宮くんに渡す予定だったクッキーが入っている。渡していいものだろうか。いや、少なくとも今じゃない。焦らなくてもいい。とりあえず気分を切り替えようと筆記用具を取り出して、一コマ目の大間先生が来るのを待った。
一コマ目が終わって休憩の時間になる。いつも通り後ろを振り向くと、花宮くんと目が合う。それを合図に私は席を立った。手にはクッキーが入った小袋。
「花宮くん」
「ん」
花宮くんは文句もなにも言わず私にイチゴジャムサンドを差し出してくる。「ありがとう」とそれを受け取り、代わりにクッキーを差し出した。花宮くんは訝しげに眉を寄せる。
「なんだよ」
「いつものお礼。パンありがとうね」
「はっ。残飯処理のお礼たぁ笑えるな」
花宮くんはやっといつもの調子で笑ってくれた。だからつられて笑うと、彼は「きも」と呟いた。安心して笑ってしまっただけなのに「きも」は酷いなぁと思ったが、心配するのも安心するのも私の勝手なのでなにも言えない。きもいと思ったのも花宮くんの勝手だ。
「つーかなんでクッキーなんだよ」
「やっぱりカップケーキの方が良かった?」
惣菜パンを食べながら小袋を覗き込む彼が唇を尖らせる。私の返答に「ちげぇよ」と淡々と言って小袋の口を閉じてしまう。今食べてもらえるとは思っていなかったが、口に合うかどうかは気になった。
「自信あるんだけどなあ」
「自信?まさかとは思うが、自分で焼いたとか言わねえよな」
「え?手作りだめだった?」
彼の言葉が図星だったため不安になって聴くと、花宮くんはしばらく私を見つめてからさっと目を逸らし「ばかじゃねえの」と呟いて、それっきりなにも言わなくなってしまう。受け取ってくれた…のだろうか。
「甘いモノ苦手だと思ったから一応甘さ控えめのバタークッキーにしたんだ。砂糖そんなに入ってないから早めに食べてね」
「ん」
これ以上話していたらせっかくもらったイチゴジャムサンドを食べる時間がなくなってしまう。「じゃあね」と捨て台詞のような言葉だけ残して席に戻り、イチゴジャムサンドの口を開ける。甘い美味しそうな匂いだ。いただこう。中身を取り出して頬張りながら次のコマの準備をする。
なんだかんだ花宮くんとも付き合いが長くなってきたよなあと思いながら咀嚼する。彼も中学受験するのだろうか。するなら行くところは決めているのだろうか。そんなことを考えながら食べ進めると、何かがひらりと地面に落ちるのが瞳の端に映る。
「ん……?」
なんだろうと拾い上げると、それは薄い黄色の大きな付箋だった。誰かのノートから落ちたのだろうか、と手に取ると、そこには丁寧だがどこか女性らしい丸い文字で『いつもごめんね』と書いてあり、それが何かわかったような気がしたが、気がつかないフリをして、そっとノートに挟み込んだ。これは多分、意味をなさないモノだから。
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