冬休みの後半、母に連れられ最近大流行中のインフルエンザの予防接種に大学病院に来た。待合室でぼーっと待っているとやがて受付の女性に名前を呼ばれてソファから立つ。注射を嫌がる裕に付きっきりになる母親を一瞥してから私は診察室に足を踏み入れた。診察ではないが真太郎くんに会いに何度もここに来ているので顔見知りは多い。先ほど私を呼んだ受付の人だって知っているし、部屋で私を持っていた見知った看護婦さんも「こんにちは」と笑顔で出迎えてくれる。「こんにちは」と挨拶を返してから丸い椅子に座ると、看護婦さんは「少し待っていてね」と言って中に入っていってしまう。準備でもするのかと思ったが、向かいの机の上には十分準備がなされていて首を傾げる他ない。

しばらく一人で待っていると、奥から緑間先生が顔を出した。まさか先生が直々に……と焦って挨拶の声が裏返る。彼は優しく笑って案の定向かいに座られた。

「びっくりしました。お時間大丈夫なんですか?」
「ああ、大丈夫なのだよ。君には感謝しているからな」

緑間先生は長い睫毛を伏せて注射器の準備をなさる。指先まで綺麗だなぁとその様子を眺めていると、「注射は平気か?」と聞かれる。もちろん私だって子供の頃は怖かった。だけれど歳を重ねるにつれて「痛くないんじゃね?」「一瞬じゃね?」という感情がまさって、今じゃ全く平気だ。だから「大丈夫です」と答えると、彼は「やはり立派なレディなのだよ」とそう笑った。真太郎くんと緑間先生はそっくりだ。このままいくと、真太郎くんは目の前の先生のようになるのだろうかと思うと将来が怖い。にこりと笑いかけられただけでだいぶドキドキしたというのに……。

「肩を出してもらえるか?」
「あ、はい」

先生に言われて利き腕の袖をまくる。そういえばインフルエンザの予防接種って肩なのか肘なのか、その中間に刺すんだよなあ…、と忘れていたことを思い出した。筋肉注射ほどではなかったけれど、少し痛みがあったような気がしないでもない。高校の時の記憶なんてかなり昔だ。

「なまえくんには感謝しているのだよ」
「え……?」

注射器を構える先生に言われて首を傾げてしまう。私が何かしただろうか、と不思議に思っていると「真太郎のことなのだよ」と言われる。そういえば、私も彼に聞きたいことがあったのだった。

「私なにもしてませんよ」
「そんなことはない。真太郎がバスケに打ち込むようになったのはなまえくんが見てくれているからだ」
「……」

見られていたのかと少し恥ずかしくなる。真太郎くんが練習しているのがこの大学病院の外にあるバスケットコートなのだから仕方ないとは思うけれど、なんだか照れ臭くて「いやぁ…」と目を逸らしてしまう。

「だからとても感謝している。今の真太郎はピアノを弾いているときより楽しそうなのだよ」
「そう……ですかね。真太郎くんはなんだか大人っぽくなってしまって……」
「それを君がいうのか?」

緑間先生がくすりと笑って、私の腕に注射を刺す。少し痛みを感じたが我慢できないほどではない。そんなことより今は真太郎くんのことで頭がいっぱいだった。「言っちゃだめなんですか……」と文句のような言葉が溢れてしまいハッとする。こんなことが言いたかったわけではないのに。

「いや、言った方がいい。君はまだ子供なのだから」

先生はそう言って私の頭を撫でる。「子供なのだから」……か。先生は知らないから仕方ないけれど、私はもうちっとも子供じゃない。いい歳した大人だ。だから、どうにもならないことをどうにかしたいと思ってしまうのだ。例えば真太郎くんのこと、それから…花宮くんのことも。

「終わったのだよ」と言われてやっと注射が終わっていることに気づいた。しかし、お互いに席は立たず沈黙が訪れる。先生が私の言葉を待ってくれているのは明白だった。
これ以上時間を割いてもらうわけにはいかない。ゆっくり息を吐いて気持ちを整えてから、言葉を紡ぐ。

「最近真太郎くんがあんまり笑ってくれないような気がして…。冷たい…っていうのでしょうか…。距離を感じるような気がして……」

我ながら「大人気ない」なと思った。これが元の姿だったらお笑いを通り越して痛いくらいだ。反応が気になってそろぉと視線をあげると、一瞬切れ長の瞳を丸くした緑間先生は、それから小さく広角を上げて、「心配はいらないのだよ」と言った。

「真太郎は大人になりたいと思っているだけなのだよ」
「大人に……?」
「それは子供の特権だろう?だから気にする必要はない」
「でも……何か原因があるんじゃ…」
「原因なんて言い方は良くないのだよ」
「でも……」
「理由、だ」
「理由?」

緑間先生は大きな手のひらで頭を撫でてくれる。相変わらず温度を感じない冷たい手だ。それでもその手つきには温もりを感じる。優しく目を細めた彼は、レンズ越しの瞳に私をしっかり捉えていた。


「君の隣に立ちたい、という理由だ」


それだけ言って緑間先生は席を立つ。呆然とその様子を見ていたが、後がつっかえていることを思い出して少し遅れて立ち上がる。頭にはまだ撫でられた感触が残っている。「ありがとうございました」と頭を下げて部屋を出ると、背中に「お大事に」とありきたりな文言が投げられた。

待合室に戻る短い廊下で言われた言葉を何度も脳内で反復させる。私の隣に立ちたいから大人っぽくなる?言葉の内容を理解することはできても、なぜそうなるのかの過程がわからない。真太郎くんは何故そう思ったのか、緑間先生は何故それを理解しているのか。私にはさっぱりだ。


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