春休みが明けて私は六年生になった。どうあがいてもあと一年しないうちに中学受験がやってくる。まだ受験する学校を決めかねている私には時間がなかった。そういえば、タイムスリップしてからは将来のことなんてあまり考えていない。前までは必死に将来のことを模索していたはずなのに、タイムスリップしてからは今を大切にしようと生きているせいか考えないようにしていたのだ。それでも中学や高校の経験が将来に影響することはわかっているから、今のうちにもっと未来を見据えないとダメだろう。……それが分かっても、どうしようもないけれど。
なんとなく重くなったランドセルを背負って慣れ親しんだ通学路を歩く。目の前には楽しそうにはしゃぐ弟と慶太くんと祝くん。隣を歩く彼がいないのが、どうしてこんなに寂しいのか。風に運ばれてどこからか流れ着いた桜の花びらが、ふわりと君がいた右側の肩に止まる。
「え?熱?」
土曜日、裕と一緒にミニバスに行こうと準備をしていると笠松さんが慌てた様子で我が家のチャイムを鳴らした。
彼女が言うには幸男くんが熱を出したらしい。医者にはもうかかっているらしく、原因は心意的なもの。急激に変わった環境に体が追いつかなかったのだろう。まだ体ができていない中学生なら理解できるし、特に女の子が苦手な幸男くんは慣れ親しんだ環境から一変して苦労もしているだろう。さらに笠松さんは今日ミニバスの保護者当番らしく、どうしても家を開けることになるから、私に様子を見てくれないかと言うことだった。それくらいならと了承すると、彼女は良かったぁと胸を撫で下ろした。相変わらず適当なうちの母は私の背後で「困ったらお互い様ですよ!」と胸を張っており、いや頼まれたの私だから…とため息が出る。
「じゃあ、本当にごめんね。幸男のこと頼みます」
「はい、大丈夫です。裕のことお願いします」
笠松さんが差し出してくださった合鍵を受け取りペコリと頭を下げてミニバスに向かう弟に手を振る。彼は2、3度手を振るとすぐに慶太くんとお喋りを始めてしまった。なんだか寂しい。
「じゃ、私笠松家行ってくるね」
「よし、頼んだわよ!」
ぐっと親指を立てた母親に見送られながら笠松家の敷居を跨ぐ。預かった鍵で扉を開けると久しぶりの笠松家に少しドキドキした。そういえば前回中に入ったのは幸男くんがギターを弾いていた時だ。裕が笠松家で遊ぶことはよくあったが、私はあまり中に入ったことがない。幸男くんと会うのも体育館とか学校とかで家で顔を突き合わせるのは稀だった。
以前来たときの記憶を頼りに階段を上る。「幸男」のプレートがかけられた部屋の扉をノックする。
「幸男くんー?私だけど入ってもいい?」
部屋の中に声をかけても返事はなかった。だからゆっくりと扉を開いて中の様子を伺う。カーテンがひかれて薄暗い部屋のベッドの上に布団をかぶった塊が一つ。そこに幸男くんがいることはすぐに分かった。
「幸男くん……入るよ?」
寝てるかもしれないので小声で聞くがやはり返事はない。耳を済ませると少し荒い息遣いが聞こえた。寝ているようだ。
「……」
先に濡れタオルでも用意しようと扉を閉める。足音を立てないように階段を下りて、洗面所でタオルを拝借する。流石に三人もバスケ少年がいると真っ白いタオルの数が尋常じゃない。その一つを水道で適度に濡らして、もう一度階段を上った。それから音を立てずに部屋に入り、ベッドの近くにしゃがむ。
「はぁ……はぁ……」
近くに来ると苦しそうな息遣いがより熱を持つ。顔は赤いし、汗もかなりかいているようだ。剥がれかけの冷却ジェルシートを貼り直そうと手を伸ばすと、先ほどまで閉じていた目蓋がゆっくり開いた。
「あ……ごめん」
「……ぁ…?」
「起こしちゃった?丁度いいや、汗かいたでしょ?タオル濡らして来たから……」
「ぁんで……なまえ……?」
「体起こせる?パジャマ着替えよ?」
「んぁ……あ……」
熱に浮かされ揺らぐ瞳の焦点が定まらない。弱々しいその表情は成長したとはいえまだあどけなさが残る子供のそれだった。弱ってる人間相手に可愛いなんて失礼だとは思ったが、そう感じてしまったものは仕方ない。
「あー…………あ?」
呆然と私を見ていた幸男くんが次第に焦点を定めていく。やっとしっかりこちらを見てくれたと思ったら、彼はガバッと体を持ち上げた。
「ちょ、そんないきなり…っ」
「っんで、お前がいんだよ!?」
勢いよく起き上がった彼はすぐに顔をしかめて頭を押さえる。「危ないでしょ」と体を寝かせようとすると「触んなっ」と先ほどより赤い顔で払い退けられてしまう。拒絶じゃないのは分かっているが、なんとなく悲しい。
「私は幸男くんのお母さんにお願いされて様子を見に来たの」
「別に……ただの風邪だって。揃いも揃って心配性かよ」
「はいはい。そういうのは風邪を治してから言って」
「体拭くよ」とタオルを持ち出すと、彼は「ばっ、おっ、はっ、なっ」とよくわからない動揺を見せてから、「いらねえ!」と布団にくるまってしまう。今更恥ずかしいことなんてないでしょ……と思ったが、よくよく考えれば幼馴染と言っても裸を見たことがあるわけじゃなかった。私は精神年齢が大人だし、幸男くんは女の子が苦手だから仕方ないとは思うが…。まぁ、私の体なんて見られたところでさして興奮もできないような幼児体型でもはや申し訳ないくらいだけど。
とはいえ私が中学一年生の男の子の裸に動揺するわけがない。一応二十歳をこえた大人としてそれなりに経験はあるし、弟がいる分慣れたものだ。それよりも汗を拭かずに体を冷やし風邪を悪化させる方が嫌だ。
「ねえ、風邪悪くするよ」
「別にこんくらいへーきだ」
「ふーん……」
意地でも出てこないつもりか。仕方ないとため息を一つついて私は彼を覆う布団に両手をかけた。出てこないなら力づくだ。
「観念して!!」
「うわ!?」
布団を一気にめくってその勢いのまま彼のパジャマであるTシャツの裾に手をかける。体まで熱いな。やっぱり汗を拭かないと…。
「やっ、やっ、やめっ」
「大人しくして!熱上がっちゃうでしょ?」
「それはこっちのセリフだろ!お前どういうつもりだよ!」
「Tシャツ替えないと体冷やすから!」
「だからって脱がそうとすんな!!」
「じゃあ脱いでくれるの?」
「それ、は、」
幸男くんの歯切れが悪い回答なんて待っていられない。私は力が緩んだ隙に一気にTシャツを脱がし、彼の体をゴロンとひっくり返す。背面はぐっしょりと濡れていた。
「やっぱり汗だく…」
「おま……まじでふざけんなよ…」
「はいはい」
幸男くんの文句は聞き流し全身をタオルで拭く。ズボンを脱がそうとしたら流石に怒られたため上半身だけだが。汗を拭いてから新しいTシャツを彼に渡す。流石に観念したのであろう幸男くんは終始黙っていうことを聞いてくれた。
「よし、できた」
「……どっと疲れたわ…」
「最初から言うこと聞いてくれたら良かったのに」
「…………うるせぇよ」
幸男くんはボソッと呟いてまた布団にくるまってしまう。私としてもこれ以上負担はかけたくないのでタオルと脱いだTシャツを持って部屋を出る。すると扉が閉まるギリギリのタイミングで「あんがとな」と聞こえてきたため思わず顔が綻ぶ。
「早く治してね」
彼に届くこともないほど小声で言ってから階段を下りる。なんだか久しぶりにたくさん幸男くんと喋れたし、彼を見ることができて、どこかで安心する私がいた。
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