春が終わり5月。朝夕が冷えるまだ夏とも呼べない気候にうんざりしながら塾に入る。クーラーを使うには早いが、やはり少し暑くて近くの窓を開けると涼しい風が吹き込んだ。一コマ目まではまだ時間がある。教室の中には私と花宮くんしかいなかった。

「花宮くん暑くない?」

相変わらずノートに向き合う花宮くんに聞くと、彼はこちらをチラリとも見ずに「別に」とだけ言った。花宮くんが素っ気無いのはいつものことなので、返事があっただけマシである。
そしてこれは最近知ったのだが、彼が自習で解いているのは一学年上の参考書。つまり今やっているのは中学生レベルなのだ。じゃあ塾になんて通わなくていいんじゃ、と思うが多分母親はそれを知らないのだろう。自分で購入して解いているとしたら頷ける。
今日はどの問題をやっているのかなぁ、と覗くと中学時代嫌と言うほど見た比例・反比例の問題で思わず「げぇ」と嫌悪を示す呟きが出てしまう。

「あ?なんだよ」
「そんなのよく解こうと思うね。まじで見たくないわ反比例とか」
「…………」

花宮くんはいつも通りやる気のなさそうな目で私を見据えてから、やがてノートに向き合ってしまう。それにしてもこちらを向くなんてレアだ。久しぶりに正面から見た。やっぱこうやってみると花宮くんは綺麗な顔をしている。本人に言ったら嫌がりそうだけど。

「お前、わかるのかよ」

消え入りそうな声で花宮くんが呟いた。それがこのグラフの話だと思って咄嗟に「うん」と答えると、彼は「ふはっ」と吹き出したのかなんなのかわからない笑い声をあげる。何か問題があっただろうか……と考えていると、彼はジロリとこちらを見上げてきた。

「なんでわかるんだよ」
「え……?」

その言葉にハッとする。
そうだ、今の私はまだ小学六年生の少女。比例・反比例なんて聞いたこともないはずなのだ。花宮くんがごく自然に中学の参考書なんてやっているからついつられてしまった。だから慌てて「私も中学の参考書見てさ…」と切り返したのだが、花宮くんの追求の瞳はそれることがない。

「えっと、はなみや、くん?」
「本当はお前、もっと頭いいんじゃねえの」
「……っ」

食い気味に言われた言葉にあからさまに肩が揺れる。馬鹿正直に反応なんてしなくていいのに。
頭がいい、わけではない。計算が特別早いわけでも記憶力がいいわけでもない。私のこれは頭がいいとは言わない。知識があるだけだ。花宮くんの頭の良さとはベクトルが違う。だが、否定の言葉を花宮くんがどう受け取るか分からず言葉が出ない。そんなことないって言いたいのに。謙遜でもなんでもなく。

「……ズル、してるだけだよ」

言えたのはそれだけだった。否定ではなく事実。私にしか理解できないだけの、事実だ。ゆるゆると視線が下がる。いたたまれなかった。穴があったら入りたい気分だ。

「頭がいいんじゃない…特別な解き方とか、知ってるわけじゃないし、問題を説明しろって言われたらわかんないと思う。私のは頭がいい…じゃなくて、単純に「知っている」ってだけだから……」

花宮くんとは違うよ。と付け足せば、彼はもう一度「ふはっ」と笑った。何を笑うことがあったのだろうと不安になり下げた視線を恐る恐る上げると、なぜか楽しそうに笑う花宮くんがいて、ドキッとした。そんな表情、今まで一度も見せてくれたことなかったじゃん。

「なんでそんな顔すんだよばぁあか」
「ば、ばかって……」
「まじで生き辛そうだよなお前。罪悪感と後悔でいっぱいですみたいな顔しやがって」

けたけたと笑ってから彼は参考書を閉じてしまった。相変わらず教室には私たち二人しかいない。今日はみんな遅いようだ。

「そんな顔してるやつ泣かせても楽しくねえだろうが。ばか女はばか女らしくばかみてえに笑ってろバカが」
「ぁっ、はっ!?はぁ!?いま、花宮くん何回ばかって言った!?」
「何回でも言ってやるよばか!」
「なっ……!?」

そんなに言う必要ないじゃん!とむくれると、彼は心底楽しそうに声を上げて笑う。なんで普通に話しかけた時より楽しそうなんだ意味がわかんない。花宮くんの笑顔が見れるのは嬉しいけど、これはなんだかちょっと違う!やっぱり歪んでる!

「もうっ…!」

花宮くんに嫌われないか心配だったのに、どうやら杞憂だったようだ。まぁもともと好かれているわけでもないだろうが…。とため息を吐きながら自分の席に戻る。
びゅうっと吹いた風が机の上のノートをめくる。飛んでいかないように手で押さえていると、背後から「まぁまぁだった」と聞こえてきた。もしかして風で聞き取れなかったのかもと振り向いて「何か言った?」と聞き返すと、また「馬鹿じゃねえの」と言いたげな視線を浴びる。そんな嫌悪たっぷりに表情を歪ませなくても……。

「クッキー」
「え、うん」
「……まぁまぁだった」
「…………あり、がとう」

彼の言葉になんて返せばいいのか分からなくて、無難に感謝を告げる。クッキーはだいぶ前にパンのお礼にあげた手作りのクッキーの話だろう。かなり前の話だったし、私自身すっかり忘れていたので今更そんなことを言われると思っていなかった。もしかして、ずっと言うタイミングを見計らっていたのだろうか?そしてそれを言うために会話をふってきた……?これはあくまで予想でしかないが……だとしたら素直に嬉しい。咄嗟に出たのが感謝の言葉でよかった。今の気持ちをしっかり伝えられている。

「……まぁまぁだからな。調子に乗るなよばか女」
「一言余計なんだってば!!」

吐き捨てるように言った彼はまた参考書を開いて問題を解き始める。「また作るね」と言いたかったのに、あと少しのタイミングで教室の扉が開いて私たち以外の生徒が入ってきたので思わず口を噤む。それから結局何も言えなくて、私はため息を吐きながら窓の外を見つめた。


prev | next