六月。豪雨が続く日だった。
その日は平日だと言うのに朝から家の中が騒がしく、日も昇らないうちに目を覚ましてしまった。階下から聞こえるのは母と父の声だ。部屋の扉の隙間からうっすらと明かりが見える。どうしたんだろうと扉を開けて部屋を出て階段を降りるといつもは自由人の母が何かを一心になって準備しているようだった。声をかけづらい雰囲気に戸惑っていると父が私の存在に気付いてくれた。
「なまえ……。すまない起こしてしまったか?」
「あ……いや、どうしたんだろうと思って」
普段から父と会話をすることは少ないため、言葉を間違えないように慎重に聞く。彼は少しだけ戸惑った様子を見せてから、ゆっくりと息を吐いた。
「知り合いの奥様が昨日亡くなられたようで、今夜通夜があるんだ。それで少しバタバタしていてね、起こしてしまって悪かった」
父はそう言って私の頭をポンと撫でる。外から聞こえる雨の音がやけに大きくなった。胸の中につっかえる何かをやっと飲み込んで「へぇ…」と呟いたそれが震えて聞こえる。何かを予感している?私は何かを、感じている…?
「ね、ねえ、あの、さ」
「数珠あった!」と声を上げるお母さんの方に歩いて行ってしまう父のスーツの裾を掴む。彼は「ん?」とこちらを振り向いてくれる。
「それって、あの、……もしかして」
「ああ。そういえばなまえも一緒に行っていたな」
「ぁ……」
「亡くなったのは赤司コーポレーションの代表夫人でね」
その言葉を最後に、私にはもう父の声は届かなくなっていた。ただただ地面と窓を打ち付ける、雨音だけがサイレンのように響いていたのだ。
翌日のお葬式には家族で参列することになった。
受付には見知らぬ女性が立っており、父がお悔やみの言葉を言うのに合わせて頭を下げる。彼が香典を手渡したのを見て、なんだがじわじわと現実味が増してきた。
たくさんの人が溢れかえる葬儀場を見渡すと、テレビや雑誌でよく見る赤司くんのお父さんと思われる人が様々な人と入れ替わり立ち替わり話しているのがわかった。だが、その近くに赤司くん本人はいない。母親のことを愛おしそうに話していた彼のことが心配で、私は両親に「お手洗いに行ってくる」と嘘をついて葬儀場を飛び出した。
斎場の中は広く、何人もの人が行き交っていた。赤司コーポレーションとなるとその規模は計り知れない。辺りを見渡しながら歩いていると、人々の隙間に赤い髪が揺れるのが見えた。
「赤司くん…!」
人の波を縫って真っ直ぐ手を伸ばす。何を言えばいいのかわからないまま。ただ、ここでなにもしないわけにはいかなかった。
「赤司、くん」
なんとか掴んだその手は震えていた。顔を覗き込んでいいかわからず名前を呼ぶことしかできない。彼はそのままなにも言わず、俯いたまま歩を進めた。私はそれに従うだけだった。
しばらく歩くと斎場の外に出た。へり出した屋根があるとはいえ、雨宿りなんて簡単な言葉で片付けれるものではない。連日続く大雨は止む気配がなく、これも嫌な予感の一つだったとしたら演出が過ぎると言うものだ。……冗談じゃない。
「赤司くん、冷えるよ…?」
しばらくそこに佇む彼に声をかけるが返事はない。湿気を帯びた冷たい風がやけに下から吹き付ける。足元がぶるりと震えた。
「赤司くん……?」
「知っていたよ」
「え?」
早く中に入らないと風邪をひいてしまう。彼を連れて戻ろうと手を引けば、ぼそりと彼は呟いた。きっとそれは独白のようなもので、誰に伝える言葉でもないのだろう。
「本当はもう、知っていた。母さんに、時間がないことは」
感情のこもらない単調な声音。だけれど語尾は震えており、やるせなさを含んでいる。彼は一歩、足を踏み出した。雨の中に踏み出す彼は、何かを清算しようとしているように映る。手を、離したくない。だから私もそれに続こう。
「みょうじさん……濡れるよ?」
「いいよ、それくらい。一人にしたくないから」
赤司くんがばっとこちらを振り向く。彼は、泣いてなどいなかった。ただもう限界だとその表情が言っている。吐き出したいのだと、叫びたいのだと。辛いことを辛いと言えない、そんな彼の人生を見たようで胸が苦しくなる。
そんなのダメだ。絶対にダメ。どう言えば正しいのかなんてわからないけれど、それだけはわかる。
私は彼の母親のように彼を救うことはできないかもしれない。笑顔を守ることはできないかもしれない。でも今ここで、この手を伸ばすことはできるから。
強く、まだ小さな体を抱きしめる。びくりと跳ねた肩にそっと一言「大丈夫」を残して。
「いいんだよ。赤司くん」
「みょうじ……さん……?」
「泣いていいんだよ。ちゃんと泣いて……じゃないと、赤司くんは永遠にここから出られないよ…?」
「一緒に行こう」なんてそんな虫のいいことはいえなかったけれど、腕の中の彼が小刻みに震えるのを確かに感じた。最初は小さな呻き声で、それは徐々に絶叫に近いものに変わっていく。今まで積み重ねた思い出を、感情を全て乗せたような声に、私も鼻の奥がツンとした。だけど、ここで泣くわけにはいかなくて、優しく赤司くんの頭を撫でる。
雨は次第に勢いを殺し、暗雲立ち込めていた空は少しだけ晴れ間を見せてくれた。別れの時間が来るまで、今はそっとこのままで。
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