一人になった教室で、思わずため息が溢れた。自分自身こんな感情になるなんて思ってもいなかった。未だざわつく心に悪態が溢れる。まだ9時も回ってないっつーのにこんなんで自習なんかできるかよ。俺は参考書を閉じて窓の外を見やる。

みょうじ なまえとの付き合いもだいぶ長くなってきた。初対面の印象はかなり悪かったし、特進クラスに来たときはなんの天変地異かと思ったが、なまえはそこそこ頭がいいやつで、素直に驚いたことを覚えている。そんなあいつとももう一年半以上だ。少しではあるが思い出とも言えるような記憶もあって、絆されてんのかと嫌気がさす。

今まで、俺と進んで仲良くしたがる奴なんて周りにいなかった。頭がいいってだけで話しかけてくるやつも、外見だけで好きだと言ってくるやつも気にくわなかったし、俺自身友情とか、青春とかそう言うのに一ミリも興味がなかったからまるで問題がなかったが、そんな人生にやたらと首を突っ込んできたのがあいつだった。大抵のやつは本性を見せれば離れていくのに、あいつだけがしつこく話しかけてくる。無視を決め込んでも結果は変わらない。何が面白いのかあいつは“俺に”話しかけてくるのだ。「今日は冷えるね」とか、「今日も疲れたね」とか、そんな当たり障りのない些細なことを、なまえは“俺だけ”に言う。最初はこいつも顔が目当てかと疑ったりしていたが、あいつの言動に「よく見られよう」と言う「媚び」のようなものは感じられなかった。だから余計にわからない。

……それを少し、悪くないと思っている自分に気がついた時は心底絶望した。

愛などと言う言葉は口先だけの嘘っぱちだ。人間関係なんて利害の一致でしかない。俺が今まで学んだのはそう言うことだった。

生まれた時から父親はおらず、母は隠しているようだが水商売をしていることは知っている。金と愛を交換する仕事だ。どうせ俺のことだってちゃんと見ちゃいない。そりゃあ、少し前は期待だってしていた。それでも、あの女は俺になんの興味もないのだ。たまに俺を塾に送るのだって世間体のためで、いつも周りを気にしている。ああ、こんな奴に期待をした俺がバカだったんだとすぐに分かった。

なのに俺はまた、誰かに心を許そうと、そんなことを考えたのだ。期待した分、裏切られた時は苦しいだけなのに。

なまえがパンのお礼だと言ってクッキーを渡してきた時、本当はゴミ箱に捨ててやろうかと思った。そうすることで救われる気がしたから。でもできなかった。もし次に会った時「美味しかった?」と聞かれたら、俺はどんな顔をすればいいのかわからなくなったからだ。
ぞわりとした。
それは言い換えれば違和感だったのだろう。人との関係に、明日や未来を求める自分が今更存在したことに対する違和感。
俺自身が変わったわけじゃない。ただ、あいつに対する感情に、変化があったのだ。


アメリカに行くと言われた時、正直目の前が真っ白になった。
だからこいつは志望校を決めないのかと納得したし、嫌だと思った。もともと俺は塾に通う必要なんてなくて、母が都合のいい託児所として使っているだけだと言うのはわかってた。それでもなんとなく通っていたところにあいつがきて、三つ前の席でホワイトボードを見つめるあいつのつむじを見つめるのが当たり前になっていた。その当たり前を、俺の日常を壊されるのなんて我慢ならねえ。

だから、行くなと言った。本当はめちゃくちゃ言いたくなかった。言ってて自分でもあり得ねえと思った。悔しかったし、まぁ、照れもあった。なまえが言う通り、多分俺は素直じゃないんだと思う。周りくどい言い方でもいいから、あいつを引き止めたかった。

そしたらあいつはなんでもないようにこう言うのだ。
「アメリカ旅行」と。

あり得ないことが立て続けに起こる。
まじで信じられねえと思った。言い方ってもんがあるだろ。もっとまともに日本語喋れねえのか。言葉足りなさすぎだろこのクソバカ女。イライラしたし腹も立った。なんだこいつっていうのは素直な感想だ。

呑気に「またね」なんて言って出て行くなまえに返す言葉なんてないが、自然と「ああ」と漏れるのはもう癖になっているからだ。いつからだろう、あいつの一方的な挨拶に、見えなくなってから返事をするようになったのは。

「はぁ〜〜……」

深くため息が出る。何度出したって出したりねえ。幸せだって裸足で逃げ出すだろう。もうとっくに逃げているだろうが。

多分、俺にとってなまえは「特別」なんだろうと思う。塾に姿が見えなければ「いないのか」と思うくらいには。でも、なまえにとって俺はなんでもないんだろうとも思う。ただの友人の一人、なんだろう。友人なんてこっちはちっっっっとも思ってねぇが。

……それが、まぁ、やるせない。

なまえは面倒見がいいタイプだ。さぞ友人も多いことだろう。そして誰にでも平等に声をかけるのだろう。素直に笑顔を見せるのだろう。俺の数倍世渡りがうまそうな奴だ。まじでめんどくせえ女だな……。

そういえば、家には先日あいつがくれたクッキーが残っている。お礼の件から色々手作りのものを渡してくるが、これがまた甘くて仕方ねえ。甘さ控えめにしたと言っていたが、甘いものは甘いし、俺は甘いものが嫌いだ。ギリ食えなくもないが、進んで食べたいものではない。

少なくとも、あいつが作ったものじゃなければ、とっくの昔に捨てている。



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