俺の指にテーピングを巻く頭は、いつ俺より低い位置にあるようになっていたのだろうか。五年生になってから急激に伸びた身長は、もうなまえと初めてあった時とは比べ物にならない。


初めて言葉を交わした時からこいつのことを考えない日など一度もなかった。


最初はなんて不躾な奴だと思っていた。声もかけずピアノを盗み聞きされて、印象は最悪だった。父の患者であることはわかっていたが粉薬が飲める程度で大人になれると思うな…と子供臭く苛立っていたのも覚えている。しかし、その後手作りのクッキーを「盗み聞きしたお詫びだ」と手渡して来たときは、本当にただの「ばか素直」な奴なんだと思って少し反省もした。だからピアノを聴きに来てもいいと言ったのだ。

どうせすぐに飽きて来なくなるだろうと思っていたのに、あいつは本当に何度も何度も俺の元に来ては、ただピアノを聞いて帰っていった。日に日にそれが当たり前になっていく感覚もあった。なまえがいたから父がいなかったあの発表会、俺はいつも通りにピアノを弾けたのだ。その時にはもう、なまえは特別な人だった。

ピアノよりバスケットを優先させようと決意した時も、本当はすごくすごく悩んだ。ただ呆然と呟かれる「綺麗」と言う言葉が好きだったから。あいつのためにピアノを続けるべきなのかと思ったりもしたが、きっとそれは「綺麗」ではないのだろう。それに気付いたから、俺はあいつに決意と覚悟を示した。彼女はいつも通り「綺麗」と呟いて泣いていた。

その言葉に報いたいと思った。
もっと上を、もっと頂の景色を見せたいと思った。もっと鮮やかな何かを。そのために俺は手を抜かない。あいつに告げられた「人事を尽くして天命を待つ」と言う言葉を胸に掲げ。何度もボールをすり減らせ、何度も買いに走った。誰よりも、なまえの目に止まるほど、綺麗でいたかった。

あいつは俺の知らないものを教えてくれる。自動販売機で売っているおしるこの美味しさも。誰かと笑い合う時間も。俺がバスケットボールをする意義も。全部全部、あいつが教えてくれた。運命があるとしたら、あいつだと思った。だから、追いつきたいとも思った。

もっと冷静に、大人にならなければ。なまえはどんどん先に進んでしまう。その目は俺を子供として見ている。嫌だった。隣に立ちたかった。置いていかないで欲しいと思った。

そしたら、それは自分もだとなまえに言われてハッとした。俺ばかりがジタバタしてもしょうがないのだと気付き、少しスピードを緩めてみた。すると景色がまた変わった。あいつが笑って、世界が輝くんだとわかった。

やはり、俺はなまえが好きなのだと、理解した。


前を行くその背中も、隣で笑う横顔も。
ピアノを弾く俺を映す瞳も。
控えめに弧を描いて笑む唇も。
困ったように八の字になる眉も。
優しい色をした柔らかそうな頬も。
風になびく肩にかかる髪も。
小さな手も。丸い爪も。狭い肩幅も。
声も。言葉も。息遣いも。

全てが、大切で、愛おしいのだと。


いつの間にか俺の身長はなまえを抜いていた。たまらなく嬉しかった。どこまでも先を行くなまえに、走らず追いつくためには大きな一歩が必要だったから。彼女のつむじが少しずつ見えてくるのが楽しみだった。

「普通はキツく巻くものだが、そうすると動かなくなってしまう。だから緩く、出来る限り関節を跨がないように巻くのだよ」
「うん……」

不安そうに呟いた彼女は震える手で俺の指にテーピングを施してくれる。緩すぎたりキツすぎたりするのが面白く小さく笑ってしまうと、彼女は少しだけ恥ずかしそうに目を逸らしてさらに前のめりになった。小さな頭が目の前に差し出され、サラリと流れた髪が俺の手首を撫でる。

「…………」

この時間が愛おしいと思った。口先から溢れそうになる恋情を飲み込む。そしてそれを封印するように、そっと目の前を踊る髪に唇を寄せた。触れるか触れないか分からないほどのキスだったのに、彼女は驚いたように顔を上げてこちらも驚いてしまう。

「触った?」

吸い込まれるほど真っ直ぐな瞳に、どくりと心臓がなった。
今の俺じゃまだダメだ。それがわかっているからこれは口にできない。「いや」と否定した言葉は少しだけ震えていたが、彼女は気付いてないようで少し首を傾げてテーピングを再開する。

その様子を見送ってからバレないように小さくため息を吐く。
もう少し、もう少し待っていて欲しい。例えなまえの運命が俺でなくとも、必ずこの想いは告げる。だから、その日まで待っていて欲しい。願わくば、誰のものにもならず、あの日と変わらない「ばか素直」なお前のままで。


いつか俺の思いを聞いて君が笑ってくれたらそれが一番いい。応えてくれなくても、それで十分なのだよ。そしてその時はこちらから言わせて欲しい、お前のずっと変わらないであろうその口癖を。


綺麗だ、と。



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