オレの手を引いて走る後ろ姿にどうしても惹かれてしまう。数多の制止の声を振り切り、君は走るのをやめない。気付いたらオレはその手首を握り返していた。いつも思う、この逃避行が永遠に続けばいいのに、と。
母が亡くなってから父はその厳しさを増した。彼は深く母を愛していたから、その穴を埋めようと必死なのはオレにもわかったし、それはもちろんこちらも同じことだった。オレも、母を失った穴を、様々な事柄で埋めようとしたんだ。
必死だった。でもダメだった。どれだけ詰め込んでも心は同じ形にならない。オレがダメならきっと父もそうだ。どうしようもなかった。どうしたらいいか分からなかった。
オレは昔から器用だったから教えられたらなんでもできたし、なんでも一番になれた。父が命じたことも全てこなせてしまった。確実に、何かが軋む音がするのに、聞こえないフリをして。
そして、“それ”はいつの間にかそこにいた。
オレの中にいる、もう一人の“僕”。まるで苦しみを肩代わりするように彼はオレの中に存在しており、原因を言葉にすることは憚られ、誰にもバレないようにこっそりと仕舞い込んだ。
もしかしたら、君はそれを見透かしてしまうのかもしれないと思うと少しだけ怖かった。それと同時に見透かして欲しかった。いつでも君は、いてほしい時にそこにいてくれるから。初めて会ったホールでも、水族館でも、美術館でも。
母の、葬式でも。
君はオレのたった一人の共犯者だ。いつも本当のオレを見ていてくれる。本音でぶつかってくれる。
「泣いていい」と言ってくれたあの日、オレは何かから解放された気がした。そして、ここに、彼女の腕の中にいたいと思った。心に空いた穴を埋めるには彼女しかいないと断言できるほど、オレはみょうじさんに惹かれていた。
できることならこの手を繋いだまま、誰の目にも届かない遠くまで走ってしまいたい。……オレには、決して許されない願望だ。それを痛いほど理解しているから、あの時手を伸ばすのを躊躇ってしまった。
ホテルのエントランスを飛び出すと中庭に出た。人の気配は感じない。みょうじさんは辺りを見渡してから中庭の噴水に近付く。そしてそこに腰掛けるとオレの手を引いて、「座ろ?」と笑いかけてくれた。本当は断らなければならないのに、オレは素直に従ってしまう。肩がくっつくほど近くに座ると、触れた部分が暖かくて、なんだか泣きそうだった。
「ごめんね、いっぱい走らせちゃって」
「いや、大丈夫だよ。みょうじさんこそ汗だくだね?大丈夫かい?」
「えへへ、いっぱい汗かいちゃった」
額の汗を拭った彼女は悪戯っ子のように笑った。彼女の不思議なところはこういうところだ。いつもはとても子供とは思えないほど落ち着いているのに、こういう時は無邪気に笑ってみせる。その全てを愛しいと思うのだけれど。
「みょうじさんがここにいるなんて驚いた」
「でしょ?赤司くんに会いにきたんだ」
「え……オレに?」
「うん!」
みょうじさんは包み隠さずそう言う。その純粋さがオレには眩しい。
彼女の父親はオレも知っている人だった。つい先日、わざわざ父に会いに我が家に来ていたからよく覚えている。父も気心を許しているように話をしていた。勤勉そうで、とてもみょうじさんの父親には見えないほどだ。それでもなんとなく、顔に名残はあるのだけれど。
そんな彼が家族をパーティーに連れてきているのを今まで見たことがない。だとしたら、本当にオレに会いにきてくれたと言うのか?
「ずっと、会いたかったんだ」
彼女は寂しそうに笑った。オレもそうだと言いたかったけれど、父の顔がチラついて言葉にならない。こう言う時ばかり、「赤司家」と言う肩書が邪魔をする。
「こうやって会えると、なんだか安心するね」
彼女は悲しそうに笑った。言葉と表情が噛み合わない。そんなことが言いたいわけじゃないと物語っているようだった。こう言う時ばかり、オレは知らないふりをしてしまう。
彼女はオレに何を聞くのだろうと思った。辛くないか、とか我慢しないでとか、そう言うことだろうか。それでも確かに嬉しいけれど、聞かれたらオレは僕を隠しきれない気がして心がざわつく。できれば、まだ見つけて欲しくない。だから。
だからーー。
「誕生日、おめでとう」
何を、言われたのか、最初は理解できなかった。
確かに今日は12月20日。オレの十一度目の誕生日だ。
「ごめんね。行きにお父さんに言われて……プレゼント用意できなくて……」
彼女は申し訳なさそうに笑う。寂しそうなのも、悲しそうなのも「プレゼントを渡せないことを悔やんで」だと言うのか?
耐える、つもりだった。
毎日数多くの習い事をこなしているオレに、できないはずがなかったのに。
どうしても熱くなる涙腺を隠したくて、彼女の手を掬い上げる。いつも、この手に救われている。小さくて、柔らかいこの手に。
「赤司くん……?」
「その言葉だけで十分だ。本当に、ありがとう」
手の甲に触れるだけの口づけを落とす。みょうじさんは「赤司くん!?」と飛び上がるほど驚いていた。あぁ、そうだ。それも早く捨ててしまいたい。
「征十郎と、呼んでくれないか?」
「赤司」という肩書は君との間には必要がない。邪魔なだけだ。酷く狼狽した彼女は、耳まで赤くして、掠れたような小さな声でオレの名を呼んでくれた。
母のいない最初の誕生日は、君がオレをただの「赤司 征十郎」にしてくれた日だった。
prev |
next
←