「あら?今日はミニバスはお休みでしょ?」
12月の肌寒い日、外出用の洋服に着替える私を不思議に思ってか、皿を洗う母がキッチンから顔を出した。しまった、ミニバスがないことを把握しているとは思っていなかった。
「遊びに行くの!」
「お友達の家?」
「そう!」
もちろん嘘である。私は少ないお小遣いと昨日母と焼いたクッキーの入ったポシェットを首から下げ、詮索されないうちに「行ってきます!」と家を飛び出した。
経路は下調べ済みだ。最寄りのバス停でバスに乗り、大学病院前バス停までゆらり揺られて20分ほど。子供料金って素晴らしいなと思いながら以前の半額のバス代を払ってバスを降りると、そこは風邪をひいた時にお世話になった大学病院だ。
あの日見た光景が、あまりにも神秘的で荘厳で美しくて、忘れられない。時々、衝動的に彼にもう一度会いたいと思ってしまう自分がいて、その衝動を持て余して、どうしようもなくて、消化してしまいたくて、今日この日をずっと計画していた。
正面から大学病院に入ると、私を見つけたナースさんが「どうしたの?面会?」と優しく声をかけてくれる。私は何も知らない子供を装い「あの、小児科の緑間先生はいますか?」と尋ねた。彼女が「緑間先生」と繰り返すのとほぼ同時か少し遅いくらいに、背後から「私はここにいるが」と声がかかって思わず振り向く。そこには想像以上に長身の緑間先生が立っていた。立つとまた印象が変わる。
「ああ、緑間先生!お疲れ様です。この女の子が先生を探していたみたいで」
「みたいだな。………ん?君は…」
相変わらず美しい先生が記憶を掘り返すような表情をするから、慌ててぺこりと頭を下げた。
「あの、みょうじ なまえです!先月風邪で受診しました」
「ああ!粉薬の。元気になったようで良かったのだよ」
粉薬の、と彼ははっきりそう言った。まさかそんな覚え方をされているとは思っていなかったため、少し恥ずかしくて頬が熱くなる。先生は至って冷たい声で「君、ありがとう。戻っていいぞ」とナースに告げ、彼女は上擦った声ではい!と返事をして早歩きで離れていった。彼女の気持ちは非常にわかる。美しい故に圧がすごいのだ。
「で?今日はどうしたのだよ」
緑間先生はしゃがんで目線を合わせると儚く微笑んで小首を傾げた。この人と喋っていると本当に自分が子供で良かったと思う。
「えっと、これを渡したくて…」
私はポシェットから手作りのクッキーを取り出し、彼に渡す。緑間先生は「私にか?」と不思議そうに言って受け取ってから、「妻も子供もいるのに困った子だな」なんて言って頭を撫でてくれるから、ちょっともう色々限界です。出来ることなら永遠に風邪をこじらせて彼に診てもらいたい。
「先生のお陰で治ったので…その、お礼です…」
「わざわざ作ってくれたのか?……ふむ、上手に焼けているな。いい奥さんになるのだよ」
「え、へへ……っ」
本当にずるい人だ。私じゃなくても女の子だったらこんなの絶対好きになってしまうじゃないか。……なんて、先生にメロメロになっている場合じゃない。今日の目的は彼の向こうにあるのだから。
「その、それで、えっと、クッキー、真太郎くんにも焼いてきたんです」
「真太郎……、息子にか?」
彼はシルバーフレームのメガネの向こう側で切れ長の目を丸くする。どうして知っていると聞かれる前に「ピアノ、弾いてたから…」と伝えると彼も察したらしくすぐ笑顔になった。
「この前勝手にピアノ聴いちゃって…、そのお詫び、です」
「勝手に弾いてるあいつが悪いのだから、気にするものではないとは思うが、ふむ……、君は気立てのいい素敵なレディになるな」
緑間先生は立ち上がると「ついてくるといいのだよ」と踵を返した。私は歩幅を合わせてゆっくり歩いてくれる彼に、言葉がまとまらないまま「ゆっくり、ありがとうございます」と伝えれば、「よく気がつく子だ」と頭を撫でてくれた。細く長く冷たい指に髪を梳かれる感じがなんとも心地いい。
彼について歩いて行くと、すぐに吹き抜けのホールにたどり着いた。先日とは違いしんと静まり返っている。相変わらず光に照らされたグランドピアノに、緑髪の少年が向き合っていた。触れることも、近づく事すら躊躇うほど美しい。
「真太郎」
この光景を見慣れているのであろう緑間先生は特に躊躇うこともなく真太郎くんに声をかけた。真太郎くんはぱっとこちらを向くと「父さん!」と無邪気な笑みを浮かべる。驚くほどの変化に少しドキッとした。
真太郎くんはぴょんっと椅子から飛び降りて、こちらに走り寄ってくる。彼は私を見つけると少し眉をひそめるが、先生の前だからか小さく会釈をしてくれた。そういう少年らしい態度は嫌いじゃない。むしろ可愛くていいと思います。
「父さん、お仕事は…?」
「可愛らしい客人も届けたしな、すぐ戻るのだよ」
「客人?彼女がですか…?」
「そんな顔をするな、真太郎。彼女はもう粉薬が飲める立派なレディなのだよ」
立派なレディの判定そこなんだ、と思いながらぺこりと頭を下げると、真太郎くんは顔を真っ赤にして「僕だって粉薬くらい飲めるのだよ!!」と反論していて、あまりの可愛さにキュンとした。親子として可愛さが限界突破しているので、出来るのであればこの二人が一生幸せでいられるように全額投資したいレベルだ。
「では次からは粉薬にするのだよ」
「う……っ、別に、平気です…っ」
すごく嫌そうな真太郎くんに「お前のせいだ」と言いたげに睨まれる。嫌味でもなんでもなく心の底から「頑張ってね!」と思っているのだが、多分口にしたら嫌われるような気がしたので無知を装って首をかしげる。真太郎くんは何か言いたげだが、ついに何も言わず顔を背けられた。
「では、私はもう行く。真太郎、相手は女の子だからな?」
「分かっています…」
先生の言葉に真太郎くんは頬を膨らませる。緑間先生は最後に「ゆっくりして行くといい」と私の頭を撫でてホールを出ていかれた。
「なんの用なのだよ」
急にテンションが下がった真太郎くんにそう問いかけられる。私は慌ててポシェットからクッキーの包みを取り出した。
「これ…!この前勝手にピアノ聴いちゃったお詫び…っ!」
「は……?クッキー…これ、手作りか…?」
「うん…一応…お母さんと作ったんだけど…」
「………」
真太郎くんは受け取ったクッキーをじーっと見つめている。潔癖っぽい印象もあったし、やっぱり市販のものの方がよかったかな?偶然、母のお菓子作りしたいタイミングと重なっただけで、ついでみたいなものなんだけど。
「お前はバカなのか…?」
「え…?」
真太郎くんは訝しげに私を見ている。恐る恐る、それはどう言った意味なのでしょうと聞けば、そのままの意味なのだよ、と返された。
「ピアノなんて、気にすることじゃないだろう。僕が勝手に弾いていたのをお前がたまたま耳にしただけで」
「でも…嫌だったでしょ…?」
「嫌、と言った覚えはないが」
「たしかに…言ってなかったと思うけど…」
真太郎くんはふぅとため息をついて再度クッキーを見つめる。やっぱり迷惑だっただろうか。
「まあ…どうしてもと言うならもらってやらんこともないが」
しまったなぁ…と落ち込んでいた時に聞こえてきたその言葉が、余りにも優しさに溢れていたから、驚いて顔を上げると、彼はメガネのフレームを押し上げて言い訳のように呟く。
「まあ、あの時は少し気が立っていたのだよ。発表会が近かったしな。気分を悪くしたなら謝ろう。しかし、わざわざお菓子を持って謝罪に来るなど、融通が効かないにも程があるだろう」
小学一年生とは思えない程難しい単語が、その端整な顔からたくさん出て来る。お医者さんの息子さんというのはここまで頭がいいのだろうかと単純に驚いた。それとも真太郎くんが特別なのか。
「えっと、お菓子については本当にたまたまお菓子づくりをして…ついでに持ってきたようなものだから気にしないでほしいな。謝罪についても、これを機に真太郎くんと仲良くなれたらなぁっていう下心付きで…」
「バカ素直か」
「バカ素直……」
遠慮のない物言いに思わず反覆すると、今度は今日一番長い、それはそれはとてもとてもなっっっがいため息をつかれた。伸ばし棒が五十本分ぐらいの、長いため息だ。
「お前の気持ちは分かったのだよ。ここまでされて悪い気はしないし、お前の誠実さは理解した。………まぁ、ピアノくらいしか聞かせられるものはないが、暇があれば来るといい。休日ならば僕は大体ここにいるからな」
うっすらと笑みを浮かべる彼は、さらにこう続けた。
「そろそろお前の名前を聞かせてもらえるか?」
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