やっぱり綺麗だなってそんなことをぼんやり思った。

ピアノの旋律がゆっくりと空間に溶けて行く。私は思わず拍手していた。パチパチパチパチ、乾いた音がホールに飲まれる。

「まあ、こんな感じなのだよ」
「すごい綺麗!」
「お前はそれしか言わないな…」

一週間後にあるピアノの発表会での演奏曲を弾いてくれた彼は、私の安直な感想に呆れたようにため息をついて、中指でメガネのフレームを持ち上げる。その指には何か白いものが巻かれていた。

「指…怪我したの!?」

それが包帯のようなものに見えて慌てて駆け寄ると、彼は「何を言ってるのだよ」と言いたげに伏し目がちにこちらをにらんだ。真太郎くんはその左手をぐーぱーしながら「テーピングなのだよ」と静かに教えてくれた。

「テーピング?」
「そう。爪などが鍵盤にひっかかると困るからな。それに、ボールもひっかかる」
「ボール…?」
「バスケットボールなのだよ。言っていなかったか?勉強の息抜きに始めたのだが…」

全くもって聞いていない。
知らないんですけど、という感情を込めながら真太郎くんを見据えると、彼は「謝るから睨むな」と眉根を下げる。綺麗。ずるい。許す。

「ピアノに座学にと座って学ぶことが多いから、息抜きは運動にしようと思って、小学校でクラブチームが存在するバスケットボールにしたのだ。それなりに筋がいい方だと自負している」

自信満々に言ってみせる姿が真太郎くんらしくて思わず笑ってしまう。それを聞き逃さない彼には「嘘ではないのだよ」と端的に切り返された。嘘だと言いたかったわけではないけれど、ムッとしてる顔も可愛いので訂正はしない。

「でもそっか。真太郎くんもバスケ始めたんだ」
「僕も…?」
「そう。私の幼馴染も弟もミニバスやってるんだ」
「そう、なのか」
「幼馴染は素人目で見ても上手だし、弟も筋がいいんだよ」
「む、僕だって負けていない」
「いや、別に比べてるわけじゃ…」

真太郎くんは非常に負けず嫌いだ。そういうところはバスケにはとても向いていると思う。

それにしてもピアノにバスケなんて、才能に溢れていて羨ましい限りだ。それに緑間先生曰く名門塾にも通っているし、成績も良好。その上美少年ときた。敵なしといっても過言ではない。ちょっと性格に難があるかもしれないけれど、私に言わせたら可愛いものだし、大きな問題にはならないだろう。

「いいな、真太郎くんは。やりたいことがいっぱいあって、全部できる才能があって」
「……」
「あ、いやごめん。嫌味とかじゃなくて本気で。私、やりたいことがなくて…」
「別に、ピアノが聞きたいと思ってきているならそれはやりたいことだろうし、バスケットを応援したいというのもそうだろう。それに、素直に人に好意を伝えられることも、分け隔てなく接することも、僕からしたら立派な才能だが?」

「僕にはできないことだ」真太郎くんはさも当然のようにそう言った。
そんな些細なことを、やりたいことや、才能にカウントするなんて考えつきもしなかった。見る角度を変えるとこうも世界が開ける。

「びっくり……、真太郎くんは本当にすごいね」
「別に、当然のことを言ったまでに過ぎないが」
「そう言えちゃうとこもかっこいい」
「………かっこ、いい、か…?」

レンズ越しに目を丸くする彼に、そういえば「綺麗」はどれだけでも口にしていたが「かっこいい」と言ったことはないなと気づいた。

「うん、真太郎くんはかっこいいよ」

私には君が眩しくて仕方ない。
どれだけ長く生きてもハッキリとした目標も夢も無いと思っていたから、漠然と抱いていた「裕を応援したい」「綺麗なものを見たい」そんな些細な願いを目標や夢にしていいんだって肯定してくれた真太郎くんが、かっこよくて、やっぱり純粋で真っ直ぐで美しくて。こんな彼がずっとずっと穢れを知らずに生きてくれたらいいのにって。そんなのわがままでしかないのに。

私の言葉に真太郎くんはみるみるうちに顔を赤くしていく。どうやら「かっこいい」への耐性は無かったみたいだ。どうしよう、もう可愛い。

「く…!!ニヤニヤしながら見るな!!可愛いなんて考えてるんじゃないだろうな!?」
「えー、思ってないよ〜」
「信じられるか!!せめてその口角を下げてから言うのだよ!!」

真太郎くんは「もう知らないのだよ!!」と可愛らしく怒りながら楽譜を小脇に抱えて椅子を飛び降り、ホールの奥にある扉に向かっていってしまう。「ごめんってば、怒らないで?」とあとを追いかけてはみたが、その表情は不満で満ち溢れていた。

「別に怒ってない」
「怒ってるよ」
「怒っていないといったら怒っていない!しつこいのだよ!」
「しつこ…っ…、………そっかぁ…じゃあやっぱり発表会見に行かないほうがいいかな…?」
「う…っ」

ピアノの発表会に私を招待してくれたのは真太郎くんのほうだった。「僕の練習を一番聞いているお前が来ないほうがおかしいのだよ」なんて素っ気ない言い方なのは、彼なりの照れ隠しだと言うことは理解している。

「それとこれとは別の話で…」
「でもしつこいって言うから」
「う………」

真太郎くんは眉を八の字にすると、ゆっくりと唇を動かした。その緑の瞳には謝罪の色と力強い決意が見える。

「それは……謝るのだよ…、だから、発表会には絶対こい」

まさか、「絶対こい」なんて言われるとは思っていなかった。また不意打ちだ。そんなに淀みもなく告げられると自分の大人気なさが際立って急激に恥ずかしくなるじゃないか。
多分私は一生かけても真太郎くんに勝てない。

「もちろん!」

精一杯大人ぶった返事をしてみたら、余計自分が子供っぽく見えて、なんだかおかしくて笑えた。


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