Love bite!A

「侑、治、おはよう」

遂にやってきた、春休み合宿、1日目。朝から学校に集合した俺たちは、普段顔を合わせている部活のメンバーとの挨拶もそこそこに、部室で早速着替えを始めていた。その少し後、続いてやってきたマネージャーであるななしが、並んで準備を進める俺たちにいつもと変わらぬ挨拶をしてくる。「はよ」と返事をする治とは対照的に、俺は黙り込んだままじっとななしの顔を見つめた。

「……なに」
「…いや」

俺のその様子に眉を顰めたななしが、じっとりと不審がるような目線を向けてきた。この日まで、ずっとイメージトレーニングをしてきたななしの本物の唇が、今目の前にある。想像よりも更にぷっくりつやつやと輝くその唇は、何だか官能的で美味しそうで、俺を強烈に誘惑してくる。だが、俺だってもう今までの俺ではない。この合宿中に、ななしとの初めてのキスを済ませる。そう決意したんだ。

「負けへんで、ななし」
「は?」
「俺は絶対に成し遂げてみせる!」
「…何の事?」
「ほっといてええよ、くだらん事やから」

首を捻るななしの肩に手を置く治。そんな二人の傍らで、メラメラと闘志を燃やす俺。「いつになくやる気やな侑。ええことや」と感心して頷く北さん。そんなこんなで、待ちに待った合宿は遂に始まりを告げ、俺のキスチャレンジの火蓋が切って落とされたのだ。



ーーーー・・・・



「15分休憩や、各自水分をしっかり摂るように」

顧問からの指示を受けた北さんが、俺たち部員に告げる。朝からずっと練習漬けだった俺たちに、ようやく15分だけの休憩が許可された。ふと緊張の糸が切れて、コート外へと歩いて行く部員に、マネージャーのななしは忙しなくボトルやタオルを配っている。みんなに人の良い笑顔を浮かべながらボトルを手渡ししている彼女の姿に、俺は何となくムッとして眉を寄せた。アイツ、色んな男にへらへらしおって…。ついいつものように喧嘩口調で文句が出そうになるが、ななしが俺を見つけて笑顔で駆け寄ってくるものだから、ぐっとその愚痴を喉の奥に押し込んで。

「侑!お疲れさま!はい、ボトル」
「ああ…」

ボトルを受け取る時に、意図せずななしの指に触れてしまい、動揺してボトルを落としてしまった。「あ…、ご、ごめん…!」と謝るななしの顔も、ほんのりと赤く染まっていて、俺が触れた部分を照れくさそうに握りしめている。さっきまでの不機嫌は一気にどこかに吹き飛んで、目の前の恋人にどくどくと心臓を高鳴らせながら、一気に甘いムードが漂い始めた。周りで休憩していた部員たちも、「おお、遂に」「いい雰囲気になっとるで」「チューしろチュー!」なんて言いながら、野次馬がぞろぞろと集まっていたが、当の俺たちは完全に二人の世界に入っている為周りの光景が一切目に入っていない状態である。

(も、もしかして…今が、その時なんか…!?)

拾ったボトルを再びこちらに差し出してくれるななし。恥ずかしそうに赤い顔を俯かせて、視線を彷徨わせている。何だか、いつもよりも更に可愛く見えて、心臓はオーバーヒートしそうだ。決意した俺は、ボトルを持つななしの手をがしっと勢いよく掴んだ。「え?」と驚いてこちらを見る彼女の目を、俺も真っ直ぐ見つめ返す。今だ、今しかない。まさかこんなにも早くチャンスが巡ってくるなんて思ってもいなかった。

「ななし………」
「あ、あつむ……?」

じっと真剣な顔で見下ろしていると、戸惑いの色を浮かべていたななしの顔も、どんどんうっとりと蕩けていった。俺の気持ちが伝わったのか、こちらをじっと見つめたまま大人しくしている。今だ、行け、一度決めた事だ。俺はやり遂げてみせる。

掴んだ手にぐっと力を込めて、俺はそっと顔を近付けた。驚いたように目を丸くしたななしだったが、これから俺がしようとしている事を察して、徐々にその目を伏せていく。拒んでくる様子はない。大丈夫、このままいけば、俺は合宿初日にして、ななしと…。

目を閉じた彼女が、俺からのキスを待っている。何度も想像の中で見た光景。その柔らかい唇に、俺の唇を重ねて…。そうして徐々に二人の距離が近付いて、周りも緊張した面持ちで見守っている。あと数センチで、待ちわびた瞬間がやってくる。そう思っていた時だった。

「マネ、次練習試合するから、ビブス用意しといてくれんか」

部室から戻って来た北さんが、状況を理解せぬままななしに声を掛けた。ぴたりと止まった俺の動き。ななしは突然名前を呼ばれたことによる驚きで肩を跳ね上げ、真っ赤な顔のまま「はい!!」と大きな声で返事をした。同時に俺の体は彼女に突き飛ばされて、後もう少しだったキスは実現せぬまま終わってしまった。周りで見ていた部員も、北さんの空気の読めなさにはじっとりとした視線を向けていて、「何やお前ら。何してたんや」と不思議そうにする北さんに、ななしが駆け寄っていく。

「くっそおおおおおおお後少しやったのにいいい!!」
「ってか体育館のど真ん中でやろうとすんなや」

床にうずくまって頭を抱える俺に、ごもっともな意見を降らせてくる治。場所とかそんなん知らん!俺が出来ると思ったらやるんや!そう心の中で反論しながら、遠くに行ってしまったななしの背中をじっと睨み付ける。北さんと部活の話をしているのだろうか。会話は聞こえてこないが、彼女の頬はまだうっすらと朱色に染まっていた。

まだ大丈夫、合宿は始まったばかり。この後だっていくらでもチャンスは巡ってくる。今度こそ、今度こそ俺はそのチャンスを掴んで、自分の野望を実現させる。ななしとキスしてやるんや。

(…にしても……)

頭の中に浮かぶ、先程の光景。背の高い俺を見上げながら、目を閉じて唇を差し出す、キスを待つ時のななしの顔。こうして思い出すだけで、俺の心臓は喧しくなっていく。まだキスできていないのにこんな風に緊張するなんて、実際にキスしたら死んでしまうんじゃないだろうか。

(…可愛かったな……)

ぽつりと呟いた心の声を秘めつつ。あっという間に15分の休憩は過ぎ去り、練習が再開されるのであった。