get wet with rain

「お前、あれ本気で言ってんのか」

会議が終わって、会議室からぞろぞろと人が出払っていく。その中で、私たちもそれに倣って部下たちを引き連れ、そこから出ようとした時の事だ。背後から岩泉が私に声を掛けてきて、ゆっくりと足を止めた。振り返ってその双眸を睨むと、岩泉も険しい顔でこちらを見ている。また何か文句でも言ってくるつもりか、と後ろにいた部下たちが前に出ようとするが、私がそれを手で制した。

「あれ、とはどの事ですか?」
「この山の犯人が、警察関係者だってヤツだ」
「あんな面白くない冗談を言う人がどこにいるんですか」

売り言葉に買い言葉と言った様子で、私が溜息混じりにそう告げた。あんな事、決して冗談で言った訳じゃない。私だって、それなりの覚悟であの時発言したんだ。自分の人生、刑事という立場、全てを賭けて。もしこれで、犯人が警察関係者じゃなかったら、きっと私の立場は危うくなるだろう。それを分かった上で私は言っているのだ。今さら岩泉に、本気なのかと聞かれる筋合いはない。

「被害者と犯人の距離感が明らかに他人でない事は、岩泉主任も気付いていますよね?このご時世、他人を家に上げたり、無防備な背中を向けたりしますか?」
「それだけじゃ、警察関係者に繋がる根拠にはならない」
「じゃあ岩泉主任は、あの被害者たちに共通の友人がいたとでも?」
「そうは言っていない」
「なら何だと思うんですか?」

私の質問に押し黙り、ただ静かにこちらを見据える岩泉は、小さく溜息を付いた。私は彼のことを誤解していたようだ。同じ捜査一課、班は違えど、岩泉の能力は素直に評価していた。私のように勘に頼る捜査では無いけれど、確実で、1つ1つ丁寧で、彼を尊敬する部下や後輩も多い。山を取り合うライバルとしていつも睨み合ってはいるけれど、私は確かに岩泉のことを買っていた。この人は、警察の闇に屈するような人ではないと。己の正義を信じ、どんな真実も暴こうとする熱意があると、思っていた。

「…がっかりです、岩泉主任」
「は?」
「貴方なら、薄々頭には浮かんでいたでしょう。もしかしたら、警察関係者の犯行かもしれないと。だけど、それを一言も口にしなかった。保身に走った。…そうでしょう?」
「………俺は、確たる証拠がない限り、憶測で物を語るのは嫌いだ。…お前のように」

再び睨み合う視線。私の推理は、根拠がない只の妄想だと、彼はそう言いたいのだろう。そして、そんな妄想で自分のことを危険に晒すなと、余計な世話を働かせているのだ。警察を敵に回すということは、刑事である自分にとってとても危険な行為だ。今までの努力が全て水の泡になるかもしれない。だが何度も言うように、私だって半端な覚悟でここに立っている訳ではない。確たる証拠とやらを掴むために、いつまでもウジウジ考え込むような推理は、私の性には合わない。私は今までだって、このスタイルで色んな事件を解決してきた。真実を掴み取ってきた。今さら私のやり方に、文句を言われる筋合いだってないのだ。

「私も、岩泉主任のように重箱の隅をねちねち突くような推理は大嫌いです」
「…そうか。お互い気が合わないな」
「そうですね」

机に置いてあった、ブランド物のバッグを引っ掴み、部下を押し分けて歩き出す。その足取りは乱暴で、カツカツと鳴るヒールからは怒りが滲み出ていた。一部始終を黙って見ていた部下たちが、岩泉に対して一礼し私の後を追おうとすると、再び私を呼び止める岩泉の声が響く。

「名無し」
「……なんですか」
「お前、早死にするぞ」
「…………失礼します」

それならそれで、いい。早死にするのなら、それが私の運命。元々長生きしたいなんて願望はない。私の願望はただ一つ。真実を突き止めて、姉を殺した犯人を殺す。それ以外に望むものはない。

怒り心頭といった様子で会議室を出て行った私の後ろで、岩泉が赤葦の肩を掴んだ。振り向く名無し班の部下たちの視線を受けながら、彼は言った。

「アイツのこと、頼むぞ」
「岩泉主任…」
「無鉄砲で、頑固で、気が強くて、意地っ張りな奴だけど」
「………」
「でも、本当は撃たれ弱いんだ」

その目は、好敵手としての目ではなく、同僚としての優しさに溢れた目だった。岩泉だって、名無しの推理力と能力を買っている。鋭い直感、女性ならではの視点、行動力、正義感。彼女は、この警察の闇を変える可能性を秘めた、重要な逸材であると、そう感じていた。だからこそ感じる、彼女の危うさ。無鉄砲に突っ込んでいく名無しの身を案じている。ずっと彼女をライバルとして見てきたからこそ、分かる事だ。

「…なんて、お前らならとっくに分かってるよな」
「……ありがとうございます、岩泉主任」

深々と頭を下げる赤葦が、何か決意を固めたような表情を浮かべて、頭を深々と下げた。

「…置いてかれないように、喰らいつくのに必死です」
「出来る上司を持つと大変だな」
「全くです」





ーーーー・・・・





微睡む意識の彼方で、微かに水の流れる音が聞こえた。その音に起こされて、重い瞼をうっすらと開く。隣にあった筈の温もりはもぬけの殻になっていて、シャワールームの方から明かりが漏れていた。赤葦がシャワーを浴びている様だ。彼が纏っていたスーツは、傍にあるソファーに乱雑に放り投げられていて、ベッドの周りには私のスーツと下着も散らばっている。ホテルに着くなり私たちはまた、体を何度も重ねたのだった。

(私…、寝ちゃってたんだ…)

気怠い体を起こして、周囲を見渡す。ベッドサイドに置かれた、常温のミネラルウォーターを掴んで喉を潤した。裸のままでは流石に寒いので、ベッドから降りて下着を掴み、ふらふらとそれを身に付ける。皺になったワイシャツにも袖を通して、パンツスーツに足を通す。服を着ながら部屋の中を歩き回って、スマホを探し出した。映し出された時刻は夜中の2時。これから私もシャワーを浴びて、二度寝して、朝7時にはこのホテルを出なければ。頭の中で計画を立てながら、何となくテーブルの上を見つめた。

灰皿の中に捨てられた、数本の煙草。赤葦が吸ったものが、そこに突っ込まれている。私の部下たちは煙草を嗜む人が多い。彼らと交わすキスは、煙草の苦い味がする。煙草なんて、どこが美味しいのだろう、そう訝し気に吸殻を見つめて。赤葦が吸う煙草は、有名な銘柄で重たいものだった。

(フィルターに歯型がついてる…)

口に挟んで吸う部分、フィルターに、くっきりと残された歯型。吸い口を噛む癖がある人は、ストレスが溜まっているのだとどこかで聞いたことがある。赤葦も、何かストレスが溜まっているのだろうか。それが、この噛み痕なのだろうか。ただ何となしにぼんやりと見つめていると、急にずきずきとコメカミが痛み始める。

「噛んだ…、痕…。煙草……、吸殻……」





一人目の被害者の女性が握りしめていた、煙草の吸殻。




『これ……、煙草の吸殻?』
『そう。被害者の女性が握りしめてたのは、これだったよ』
『どういうこと…。被害者って喫煙者なの?』
『違う違う。これ、多分犯人が吸ってたやつ』
『犯人が吸ってたって…、人を殺しながら煙草吸ってたってこと…?』
『まあ、状況的にはそうなるね』




私にその吸殻を渡してきた、及川の言葉。




手渡された、ビニールに入った吸殻には、くっきりと歯型が残されていて……、








(頭が痛い……)

何か古い記憶が呼び覚まされる時に起こる予兆。私は頭を押さえながらベッドに座り、ぎゅっと目を閉じた。

蘇るのは、勿論あの忌まわしき事件の風景だ。私は赤葦の煙草に、何を思い出したのだろう。思い浮かんだ景色の霞みが徐々に晴れて、そこには鮮明にあの時の出来事が映し出される。私の上に伸し掛かり、乱暴をする男から漂う苦い香り。…この香り、私知ってる。苦くて、大人な、香り。

過去を思い出す傍らで、私はうっすらと開いた目で灰皿を見つめた。…同じ、香り。その灰皿から漂う香りと同じ。赤葦とキスをする時に感じる香りと、同じ。一気に背筋が冷えて、頭が冴えていく。上がっていく心拍数と呼吸は、私をどんどん蝕んで。



どうして…。

赤葦、私は…、

貴方を、知ってる。

貴方の上司になる前から、私は、貴方を、










『警視庁捜査一課の赤葦です。通報を受けてやってきました、どうされました?』
『姉が…!姉が…!』
『現場を拝見します』
『あ、あかあしさん…、』

通報してから数分後。一番最初にやってきた刑事は、今の私の部下…、赤葦京治だった。何故私は、そんな事すらずっと忘れていたのだろう。動揺する私を押しのけて、彼は中へ入っていく。擦れ違い様に、赤葦のスーツの、肩の部分が酷く濡れているのが見えて、そこで初めて雨が降っていることを知ったのだった。傘立てに置かれているのは、見覚えのない黒い傘。赤葦がここに来る時に持ってきたのだろうか。

リビングの方へと消えた彼の背中を見送って、私は玄関に座り込んだ。刑事でありながら、姉の遺体を見る勇気がない。恐らく死んでいるということは、今まで何度かご遺体を目の当たりにした事があるから分かった。足に力が入らなくて、頭はどんどん真っ白になっていって。

「…もしもし。黒尾さんですか。今すぐ名無し主任の家に来れますか。…はい。殺人事件です。…被害者は、名無し主任…。殺されてるんです」

向こうから、赤葦が電話越しに会話をしているのが聞こえる。続いて、玄関から次々と警察関係者の人たちがやってきて。私の家は、あっという間に殺人現場へと化していった。覆われる、見慣れたブルーシート。検察、刑事が、私と姉の家を荒らしていく。放心状態でそれを見つめていると、私の肩を抱いて外へと連れ出す男。

「大丈夫か」
「…し、らぶさん…」

確か名前は、そんな感じだったような、と記憶を辿って弱々しく紡ぐ。警察車両へと連れ出される中で、聞こえてきたのは赤葦と検察との会話だった。

「この傘は?」
「俺のです。ここへ来る時に使ったものです」
「現場に私物を持ち込まないようにしてください。捜査が混乱しますから」
「すいません」

注意をされて、家の傘立てから抜き取った黒い傘は、石突の部分が随分と削れていて、かなり使い古されたものであることが窺える。それを片手に、私と白布を追い抜いて行った赤葦は、丁度良く到着した警察車両に片手をあげた。運転席の窓から顔を覗かせたその人物に、黒い傘を手渡して。

「黒尾さん、これ置いといてください」
「傘?」
「俺の私物です。現場に持ち込むなと怒られました」
「当たり前だろ。お前何年刑事やってんだよ」

何の疑いもなくそれを受け取って、黒尾は黒い傘を助手席に置く。…そうだ。あの黒い傘。




「あの黒い傘、どこへ行ったの…?」
「…傘?」


ぽつりと呟いた言葉は、背後に立っていた人物に拾われた。びくりと肩を震わせて振り向くと、ぽたぽたと髪から滴を滴らせ、肩にタオルをかけた赤葦が、冷たい表情で私を見下ろしている。彼がシャワーを終えて出てきていることなど、全く気づかなかった。突然のご本人登場に、私は息を呑んで固まる。私を見下ろすその目は、先程まで体を重ねていた時とは違う。私の姉を、殺人者呼ばわりした、あの時と同じ…、冷たくて、何を考えているのか分からない目。その瞳に射抜かれると、私はまるで心臓を鷲掴みにされているような気分になる。

「赤葦…、気付かなかった。いきなり声かけないでよ」
「傘ってなに」

私の言葉など全くの無視で、傘というワードに異様に食い付く彼。まるで、傘に関して何か後ろめたいことでもあるかのように。

「赤葦、覚えてる?」
「………」
「私の姉が殺された時、一番に現場に駆けつけてくれたのが、赤葦だったよね」
「…班長がそのことを覚えていたことに驚いています」

それもそうだろう。私だって、今思い出したばかりなのだから。トラウマになっているあの時の記憶を、私は無意識のうちに封印し続け、現実から目を逸らし続けていた。今その蓋を、少しずつ開き始めているところなのだ。開いた箱からは、次々と私に真実を告げてくれる。姉が、殺される直前に白布と会っていたことも。そして、今。目の前にいる赤葦が、あの事件当日、どんな行動をしていたかも。全て、包み隠さず私に伝えてくれている。

「赤葦がいつも吸ってる煙草。重たいよね、これ」

机に無造作に置かれていた、赤葦の煙草の箱を掴んだ。彼に見せつけるように差し出すものの、赤葦の視線は一切私から逸れることなく、真っ直ぐこちらを睨んでいる。

「前に話してくれたよね。この煙草、赤葦が尊敬してた前の主任が、吸ってた奴なんでしょ?」
「……何が言いたいんですか」
「尊敬の意味も込めて、その主任の人と同じ銘柄に変えたんだよね」
「勿体ぶらずに早く言ってください」
「私、この匂い知ってるの」

レイプされた時感じた匂いは、この煙草の匂いだった。くっきりと刻まれた記憶が呼び覚まされていく。赤葦と体を重ねている時、異様に懐かしさを覚えるのは、彼に姉の面影を重ねているからではない。暴行された時、犯人である男が全く同じ匂いを漂わせていたからだったのだ。赤葦の表情は、より険しく私を睨んだ。

「たまたま同じだっただけでは?この煙草を吸っているのは、俺だけではないでしょう」
「それもそうね。じゃあもう1つ、気になることを聞かせて」
「何ですか」
「あの時…、黒い傘があったわよね、私の家に」
「………」








「…あれ、誰の?」