be choked with tears

私の中の、奥の奥の、そのまた奥に、ずっと眠ったままだった記憶。それが5年経った今、少しずつ解かれていく。その記憶は、私の目の前にいる、右腕とすら思っていた一番の部下に突き刺さった。覚えのある煙草の香り。一人目の被害者が握っていた、噛んだ痕のある吸殻。現場から持ち去られた黒い傘。ここぞとばかりに不自然が寄せ集められて、それが全て赤葦に繋がっている。彼は一体何を知っているのだろう。何を隠しているのだろう。

「あの黒い傘、誰の?」
「…俺のです。あの日、雨が降っていましたから。現場に駆け付ける時に使ったものです」

そうだ。赤葦はあの時も、同じことを言っていた。検察が『この傘は誰のですか』と問いかけた時、一番に手を挙げたのが赤葦。俺のです、と告げて、颯爽と持ち去って行ったその姿を、しっかり覚えている。だけど私には、どうしても理解できない部分があった。

「赤葦が現場に駆け付けた時…、スーツがかなり濡れてたわよね」
「………」
「まるで、傘も差さずに外を走ってきたみたいに…」

あの黒い傘が、本当に赤葦の物だったのなら。どうしてあの時、彼は濡れていたのか。傘を差していたなら、あそこまで濡れる事なんてなかった筈なのに。

「それだけじゃない。あの傘の石突の部分」
「石突?」
「酷く削れていた。きっと、普段あの傘を持つ時、地面に付いて歩くのでしょうね。こう、コツコツと」

身振り手振りを交えて、私は赤葦に自分の推理を説明する。あの時、赤葦が奪い取った黒い傘の石突は、削れて損傷していた。あの傷は、きっと傘を杖のように地面に突きながら歩く時に出来たものだ。だけどあの時。赤葦が黒尾に傘を手渡した時、彼は傘の胴の部分をしっかり握りしめて歩いていた。癖というのは、意識せずとも自然に出てしまうもの。赤葦の傘であったなら、石突にあんな傷が出来る筈がない。

「あの傘は、犯人のものだったんでしょう?」
「…………」

赤葦は、恐らく全てを知っている。姉を殺した犯人が誰なのかを知っている。そして彼は、その犯人を庇っている。まだその証拠はない。全ては私の憶測だ。だけど自分の推理に自信があった。

持ち去られた、現場の黒い傘。犯人は姉を殺した後、慌てて出て行ったことを覚えているので、きっと傘のことを忘れていたのだろう。そして、現場に一番に辿り付いた赤葦は、その傘を見た。それを目にした時、彼はすぐに分かった筈だ。犯人が誰なのか。この傘の持ち主が誰なのか。だから咄嗟に、自分のものだと言い張った。考えてみればおかしな話だ。もう刑事として何年も働いている赤葦が、現場に自分の私物を持ち込むなんて有り得ない。そんな初歩的なミス、新人の日向すらしないだろう。

そして、一人目の被害者が握っていた、煙草。あれも、きっと赤葦の事後工作。事件を聞き付けて、誰よりも早く現場にやってきた赤葦は、咄嗟に自分の吸殻を遺体に持たせた。まるで自分に疑いが向く様に。本当の犯人から、意識を逸らす為に。そもそもあの煙草もおかしな話で、普通現場に煙草なんて致命的な証拠を残すだろうか。煙草に付着した唾液、吸っている銘柄、指紋…。それを残すだなんて、『どうぞ捕まえてください』と言っているようなものである。仮に喫煙しながら犯行に及んだとしても、もみ合いになって吸殻が無くなれば犯人も気付くだろう。それをわざわざ現場に残すのは…、

「わざととしか、思えない」
「…俺が、現場に工作をしたと?」
「それしかない。…そうでしょう?赤葦」

真っ直ぐ見つめる視線を、赤葦は決して逸らさなかった。しばらく無言を貫いていた彼は、やがてふと口元を歪めて息を吐く。くっくと喉を鳴らして笑う彼の笑みに、私は一層眉間の皺を濃くした。赤葦は、自分が置かれている状況を理解していないのか、それとも余裕なのか。この場に不釣り合いの笑みを残しながら、私に一歩近づいた。

「貴女は本当に不思議な人ですね。普通、現場から俺のものと思われる煙草の吸殻が出て来たら、真っ先に俺を犯人だと疑う筈なのに」
「…そう、かもね。でも、なんでだろう。赤葦が全ての犯人だと考えると、何だか腑に落ちないの。…私の直感」
「またその直感、ですか。それでいくつも事件を解決してきたんですから、本当に尊敬しますよ」

彼の言葉が、数刻前の岩泉の言葉と重なる。私の考え方を否定するような、私のやり方を馬鹿にするようなその物言い。思わず顔を上げて赤葦を睨むと、彼は思っていた以上に私の目の前まで距離を詰めていて、あっという間も無く私の体はベッドに投げ出された。弾むスプリング。慌てて体を起こそうとする私に伸し掛かる、男の体。

「…俺が全てやったんです」
「赤葦…っ、やめ、」
「信じられないなら、再現してあげましょうか。あの晩のこと」

さっき着たばかりの、皺だらけのワイシャツに赤葦の手が這う。ジワジワと腹部から上に上がってくるその掌は、やがて私の胸の膨らみに到達し、意味深にゆっくりとそこを包み込む。バクバクと嫌に高鳴る心臓と、噴き出る汗に頭はパニック寸前で。目の前にいるのは確かに赤葦なのに、何故かあの夜の…、レイプされたあの男の姿が被って見える。フラッシュバックする記憶に、私はどんどん息がし辛くなった。

「俺が貴女の姉を殺し、貴女をレイプし、過去に犯罪を犯した奴らを処罰した」
「やだっ、どいて…!赤葦!」
「日本の法では裁けなかった奴らを、俺が代わりに裁いた」

胸を撫でていた赤葦の手が、更に上へと上がってくる。そして遂に私の首をゆっくりと撫でた後、緩くそこへ掛けられた。彼が力を込めれば、私の首は締まり、呼吸すらままならなくなるだろう。まるで生と死が隣り合わせにある状況に置かれているようで、私の心拍数はどくどくと高鳴り、肝が冷えていく感覚がした。必死に赤葦の手首を掴んで抵抗してみせても、彼はびくともしない。あの時もそうだった。暴行されたあの夜も、どんなに抵抗しても全く響かなくて。

「俺が犯人を庇う?どうして俺がそんなことをする必要がある?」
「あ…かあ……、」
「俺が、何のために、誰を庇ってるって言うんですか?…班長」










教えてくださいよ、出来の悪い部下にも分かるように。






歪められた口元から香る、苦くて大人な香り。乱れていく呼吸、恐怖で取り乱していく。そこで漸く、赤葦の手が首から離れ、私は慌てて彼を突き飛ばして体を起こした。あのまま殺されるのかと思っていたが、そうではないらしい。急いでベッドサイドに放り投げられているスマホに手を伸ばす。頭に浮かぶのは、私の部下たちの顔。白布、侑、黒尾、瀬見…。誰か、誰かを呼ばなくては。このまま赤葦と一対一でいたら危ない。そんな私の体を、赤葦は再びベッドに押し付ける。いやだ、やめて、はなして、と暴れる私を笑いながら押さえつけて。




『早死にするぞ』




頭に浮かんだ岩泉の言葉を呪った。まさかあの言葉の数時間後に、こんな目に遭うなんて。

私のワイシャツのボタンを乱暴に外して、衣服を外していく彼を見上げる。赤葦の手付きは、いつも私を抱く時とは違って、乱暴で性急で、彼も彼で何かに焦っていることが窺えた。あの冷静な赤葦が、取り乱している。この私にも分かる程、動揺している。そんな彼を下から見上げている内に、私の頬にはぽたりぽたりと雨が降ってきて。…思考が一気に止まった。この滴、









「……赤葦、泣いてるの?」
「……………」





雨の正体は、紛れもない、私の上に跨る赤葦の目から零れ落ちてくる水。ぽたり、またぽたりと私の頬を濡らして、ベッドシーツに染み込んでいく。私の衣服を乱していたその手は止まり、彼は大きな背中を丸めて声を押し殺した。私の上に項垂れるように倒れ込んでくる体を、その重さを、静かに受け止める。やっぱり、そうだ。私の推理は、間違っていない。赤葦は誰かを庇っていて、その為に苦しんでいる。そして、赤葦がそこまでして庇おうとする人物なんて、一人しかいない。昼間、私が及川に問いかけた言葉を思い出しながら、真っ直ぐ天井を見つめた。



『ねえ、及川』
『なに?』
『死んだ人間が蘇る事って、あるのかな』
『は…?』
『どう思う?』
『絶対ないでしょ』



そうだ。絶対に有り得ない事が、起こっている。私の上で肩を震わせる赤葦の体を強く抱きしめながら。憶測は確信へと変わり、私の強い意思へと変わっていく。沢山の人を殺し、私の姉を殺し、私をも殺し。そして、私の大事な部下を傷付けて。……絶対に、許さない。


「赤葦、お願い」
「…………」
「知っていることを全て教えて」
「……班長、俺は…」
「お願い」

私の全てに決着をつけるときが、すぐそこまでやってきていた。



「…赤葦が憧れてた、殉職した前主任は、」


姉が殺した筈だった主任は、






「今も、生きてる」

生きて、殺し続けている。