your mind is made up

「あの時…、現場に駆け付けた時…すぐに分かりました。誰が名無し主任を殺したのか」

ベッドの淵に座りながら、背中を丸めて項垂れるように語りだした赤葦の言葉に、私は静かに耳を傾けた。その横顔を見つめると、瞳は現実逃避をするように固く閉じられていて、彼も彼で、あの5年前の事件に深く心を痛めているようだった。隣に腰かけると、静かに沈むベッド。二人、丸まった背中を並べて、あの当時の事を思い出す。ずきりと痛むコメカミを押さえながら、私と赤葦は過去に記憶を馳せた。

「あの日、白布が名無し主任を呼び出した事は、俺も知っていました。だから、最初知らせを聞いた時、まさか白布がと慌てたんです。だから、急いで現場に駆けつけました」

扉を開けた時、玄関で放心状態で座りこむ私を見つめて、赤葦は早口で言った。警察です、現場を拝見します、と。革靴を乱雑に脱ぎ捨てて、家の中へ入っていく。そのスーツは、雨で濡れて色が変わっていた。

「リビングに入った瞬間、血塗れの名無し主任の遺体を目の当たりにして、息を呑みました。さっきまで、第1班の主任になりました、なんて言ってた人が、肉の塊になってるんですよ…」
「…………」

震える声で、前髪をぐしゃりと握る赤葦。…彼の言う通りだ。人間なんて、死ぬ時は呆気ない。ほんの一瞬で、確かに生きていたその人は、ただの肉の塊になる。人間の食の為に死ぬ、牛や豚と同じように。命なんて、簡単に消えてしまうのだ。あの時、赤葦の目の前にあった姉の遺体は、牛と同じ、ただの肉の塊。さっきまで生きていた亡骸。そのショックは、どれだけ刑事を続けていても慣れるものではない。それが、見知った人物であれば尚更だ。

「リビングに、微かに匂いがしました」
「匂い…?」
「俺が今吸っている煙草の匂いです」

苦くて、大人な香り。重い有名な銘柄の煙草。その匂いが、リビングには充満していた。私を暴行している時、男から漂ってきた香りは、その犯人がかなりのヘビースモーカーであることを裏付けている。纏っている衣服に染み付いたその匂いは、そう簡単には取れない。

「俺は、その匂いをよく知っていました。…憧れていた、匂いでしたから」
「…殉職された、主任の人の煙草の匂い、ね」
「はい。その煙草の匂いを感じた時、頭が真っ白になって。あの人がやったんだ、って…直感的に思ったんです」

私の姉に殺された筈のその人は、生きていて、そして姉を殺した。そんな事、絶対に有り得ないのに。確かに赤葦たちは、目の前でその人が撃たれたところを目撃していて、遺体の確認もした。だけど、生きている。生きて、過去に犯罪を犯した人たちを、今も断罪し続けている。そこには、一体どんなカラクリが隠されているのか、今はまだ見えないけれど。それを、私たちはこれから追及していかなければならない。

「周りに、あの人に繋がるような証拠が残っていないか、必死に探しました」
「憧れの人を、庇う為に?」
「……庇う為…、だと、思っていました。だけど、違うんです」



俺自身が、受け入れられなかったんです。彼は隣で、そう弱々しく呟いた。

正義感溢れる憧れの上司が、人殺しなんて。そんな事、絶対に無い。有り得ない。そう思ったが故の、赤葦の行動だった。憧れの人の存在を消すかのように、現場に工作をして。傘立てに見覚えのある傘があるのを見つけると、咄嗟に自分のものだと言い張った。慌てて持ち去って、後からやってきた黒尾と合流する。



『…主任が、生きているかもしれない』
『そんな馬鹿な話、』
『ある訳ないって、俺も思いたいです…。だけど…、』
『………』
『……何ででしょうね。生きていたなら、嬉しい筈なのに』
『赤葦…』
『………今すごく虚しいんですよ。あの人の正義は…、間違ってしまったのかもしれない』



都合の悪い事実を消して、のうのうと生きている人たち。
まだ未成年だからと、罪を犯しても数年で牢から出てくる人。
精神疾患とか何とかで、人を殺したのに無罪で世に放たれる人。
好奇の目に晒され続ける被害者。
心に一生癒えることのない傷を負う被害者。
残された悲しみを背負う遺族。



刑事になってから、ままならない事ばかりだ。そういった不義を正す為に、刑事になったというのに。実際私たちが歩んできた道は、どれほど正義だったのだろう。逆らえない上層部の圧力に押しつぶされそうになりながら、敷かれたレールの上を歩いて、ただ目の前で起こっている事件を解決して…。真っ暗な闇の中を走っていた赤葦や黒尾たちの中で、唯一の光、正義だった、憧れの上司。その人すら、闇に飲み込まれて。遂にその手を血に染めてしまったのだ。そうするしかないから。悪を裁くのは悪。まるで、そう告げているかのように。


「赤葦、その主任の遺体はしっかり確認したの?」
「今思うと、顔は見せて貰ってないんです。布で覆われた状態で確認しただけで。あの時は俺も黒尾さんも、精神的にかなり疲弊していましたから」
「ってことは…、その遺体は、ダミーだった可能性もあるってことよね」
「…そう、ですね…」

警察の上層部は、暴力団である瀬戸組と裏で繋がっていて、情報のやり取りを金で交わしていた。そして、その事実が明るみに出ることを恐れて、姉にある依頼をした。『お前の上司を撃て』と。姉は、それを実行した。麻薬取引を追う最中で起こった、銃撃戦の中で。上層部の目論見通り、あの時事件を追っていた赤葦たちの上司は、命を落とした、と思われた。…でもそれがもし、死んでいなかったとしたら。上層部が、本当は生きているのに死んだものと処理していたとしたら。

「偽名で生活している可能性は大いにあり得る…」
「…やはり、生きているんですか」
「死んだものとして処理された以上、戸籍も消されているだろうけど…。偽名を使って、家を持たずに転々としながら生活することは、出来なくはないと思う」
「上層部が、一枚噛んでいるということですよね」
「恐らく、当時の上層部の連中が手を回したんでしょうね。戸籍を奪い、彼の人生を奪い、名前を奪って…。アイツらの事だから、”金をやるから”なんて言って無理矢理納得させて」

想像は容易い。表向き、死んだことにされれば、もうその人はその名前では生きて行けなくなる。家族からも離れ、偽物の名前を使って、ホームレスのような生活をして…。世間から存在を隠しながら、こそこそと生きていかなければならない。彼はただ、真実を追っていただけだというのに。そのせいで、全てを失った。権力という、抗うことのできない力に押しつぶされて。

「これは、その主任の復讐なのかもしれない」
「復讐……」
「自分の人生を奪った者たちへの、復讐」

警察が闇に葬ってきた事件を掘り起こす為に、過去の犯罪者たちを殺していく。それが、彼なりの復讐なのかもしれない。全てを狂わせた者たちへ、天罰を。恨みは、熱い正義感をどんどんと歪ませていったのだ。

「その人が今どこにいるのか、赤葦は知らないのよね」
「俺もずっと独自で調べていたのですが…、今も分かっていません。ただ、連続殺人事件の犯行が続く限り、この周辺に潜んでいる事は確実です」
「…次のターゲット…。次に狙われる人が分かれば、待ち伏せが出来るかもしれない…」
「過去の事件をもう一度洗ってみたほうがいいかもしれませんね」
「そうね……」

一先ず、今日朝を迎えて出社したら、一番にやるべき事は決まった。静寂が訪れたホテルの一室で、私も赤葦も、ただ一点を見つめる。



「…班長、俺は、」
「私は何も聞かなかった」
「え…」



何かを言いかけた赤葦の言葉を、私は遮った。



「思い出したの、私。確か犯人に暴行された時、煙草の匂いがした。だから、例の主任だった人が、もしかしたら生きているんじゃないかって考え着いた。ただそれだけ」
「班長、それは、」
「それだけ!……それだけだから」


私は、赤葦の罪に目を閉じた。そして赤葦も、納得いかなさそうな顔だったが、それ以上は何も言わなかった。痛い。心が痛くて堪らない。まるで刃物で刺されたかのように。何度も何度も傷ついて。5年前の出来事が、今も尚、私たちを苦しめ続けている。私たちは、後何回殺されればいいのだろう。後何回苦しめばいいのだろう。

忌まわしき過去に振り回されて、周囲の人がどんどん闇に落ちていく。私はもう、そんな光景を見たくはない。



「…赤葦」
「………はい」
「明日から、忙しくなるわよ」
「…はい」
「…必ず、見つけ出そう」
「………」
「絶対に、終わらせよう」




この事件を、絶対に、終わらせるんだ。そしてその時は、私が終わる時だ。


「…ついて行きます、班長」

立ち上がった赤葦の目は、私の背筋に注がれていた。もうすぐ夜が明ける。刑事に戻る時間だ。カツカツと鳴り響くヒールの音を耳に挟みながら、私と赤葦は共に本庁の廊下を風を切って歩いて行く。

「班長」
「ん?」
「俺たちが貴女のことを、主任ではなく班長と呼ぶ理由、分かりますか」
「なにそれ」
「班長は、別だからです」
「え?」

思わず立ち止まって振り向いた、その綺麗な顔を、赤葦はじっと見下ろした。

貴女は違う。闇に落ちて、殺人に手を染めた憧れの主任や、警察の圧力に負けて主任を撃った貴女の姉とは違う。そういう意味を込めて、彼らは班長と呼んでいた。この人に着いて行けば、きっと真実を掴める。警察の力にも屈しない、凛とした背中を追いかけていきたい。そんな想いを込めて。



「…行くわよ赤葦」
「…はい!」


右手に下げられた、ブランド物のバッグが光っていた。