塚原。それが、赤葦たちが尊敬していたかつての主任の名前。私の記憶と、白布、赤葦の真実を知って、ついに私は、この事件の裏に潜む彼の存在を掴んだ。彼が今、どこで何をしているのか。それを突き止めて、次に出る被害者を守らなければならない。それが、刑事としての私たちの役目だ。
「過去の事件の調書を全部当たるわよ。塚原が担当した事件を全てピックアップして。そこから更に、刑期や懲罰が軽い人たちを拾い上げてく」
「はい!」
第1班の机の上に、次々と積み上げられていく調書。これを全て調べるのは、どれくらいの時間がかかるのだろう。書庫からバタバタと慌ただしく書類を持ってくる私たちを、隣にデスクを構える岩泉班が訝し気に見つめている。しかし私たちは、そんな視線など気にも止めずに、目の前に広がる紙切れに夢中で目を通した。この資料の山に、必ずヒントが隠されている。塚原が今どこで何をしていて、そして次に何をしようとしているのかが、必ずここに記されている筈だ。カチカチと過ぎ去っていく時間の中で、食い入るようにページを捲る。
「…大方こんなもんやな」
やがて、日もすっかり沈み、時刻は夜の21時。やっと全ての調書に目を通した私たちの目の前には、塚原という名の判子が押された調書を山積みにしていた。さすがはベテランの警部補だった彼だ。担当していた事件はかなりの数である。ここから更に、何らかの事情で刑を免れた者や、短い刑期で済んだ者を選別していかなければならない。本当ならば、ここからまたぶっ続けでこの資料の選別に取り掛かりたいところだったが、部下たちを見渡すと、流石に疲労の色が見て取れた。これ以上の調査は、集中力を欠くだけで、とても効率の良い作業が出来るとは思えなかった。
「よし、続きは明日にしよう」
「班長、俺たちならまだ、」
「休むことも仕事の内。しっかり寝て、明日また頑張ってもらうから」
やる気だけはギラギラと昂っている部下たちを、静かに諭す。目前に迫る真実に、彼らも気が焦っているようだ。気持ちは分からなくもないが、これでは犯人を捕まえる前に体が壊れてしまう。さっさと机の整理をして、帰り支度を始めた私に釣られるように、彼らも渋々といった様子で片付けを始めた。既にこのフロアの私たち以外の刑事は全員帰宅していて、私たちのデスクを照らす蛍光灯だけが付けられている。
「じゃあ私、タクシー拾うから。先に帰る」
「お疲れさまです」
「赤葦、戸締りお願い」
「了解です」
「あ、黒尾。明日及川のところへ行って、貰ってきてほしいものがあるんだけど」
「何」
「銃弾」
「は?」
「及川に言えば分かるから。宜しく!」
それだけ言い残して、バタバタと去っていく上司をぽかんと見つめる部下たち。彼女はいつの間に、知らないところでどんどん捜査を進めていたようだ。我に返って再び自分のデスクの片付けに戻る仲間の中で、黒尾は小さくため息を付いて。
「ほんと、敵わねえ女…」
「どこまで?」
「目黒区まで」
バタンと閉められる、タクシーの扉。ゆっくりと動き出した車は、私の家に向かって走っていく。流れる景色を窓から眺めながら、今にも振りだしそうな雨雲を見上げた。明日は雨かなあ、なんて。頭の片隅に、折りたたみ傘のことを考えつつ、帰路についたのだった。
ーーーー・・・・
喫煙所に上がる、2本の白い煙。それがゆらゆらと揺れては消えた。今日の仕事を終え、上司の帰りを見送った赤葦と黒尾は、二人で一服を満喫していた。別にどちらかが誘った訳でも無く、自然にその足がここへ出向いたのだ。無言で煙草に火をつけて、ゆっくりと息を吸い込む。黒尾は、赤葦の喫煙姿を見つめて、その目を細めた。
「懐かしいな、その煙草」
「……塚原主任と同じものですから」
塚原主任は、煙草が大好きだった。仕事中も、暇さえあれば煙草を吸いたいなんて言って、喫煙所に寄る始末。何度か煙草を買いに行かされたこともあった。家では奥さんが煩いから吸えないんだって、笑いながら言って。指で挟んだ細い紙煙草を吸う仕草に、どれだけ憧れたことか。
「…班長は、塚原主任を、殺すんでしょうか」
「………」
赤葦がぽつりと呟いたその言葉は、煙草の煙のようにうっすらと立ち上って消えた。黒尾も何も答えない代わりに俯いて、自分の足元を見つめる。名無しを抱いた時、何度か交わした会話を思い浮かべながら、二人はただ黙って煙草を咥えていた。
『私は、姉を殺した犯人を殺す』
『刑事という職業は、利用しているに過ぎない』
『私は、狂っているから』
『復讐が、今の私の原動力なの』
ベッドの中で、裸で、そう迷いなく言っていた女の姿を思い出しては、肺一杯に吸い込んだ息を吐きだす。果たして、どうなのだろうか。5年前の事件、そして今回の連続殺人を犯した犯人と、もうすぐ対面する時が近づいているのは、赤葦と黒尾も感じ取っていて。その時が来たら、名無しは本当に、自分の復讐を果たすのだろうか。そして、実際にその状況に置かれた時、赤葦も黒尾も、一体どうするのだろうか。
「俺は、班長を止めるんでしょうか。それとも…」
「…どうだろうな。まあ、普通の感覚で行けば、止めるのが正しいんだろうけど」
「分かってます。でも…、俺は、あの人の気持ちを尊重してあげたい」
強い意思を宿した目で、前を見据える赤葦の横顔を、黒尾は静かに観察していた。
「……それは、あの人の部下として、か?」
「………」
黒尾に投げかけられた言葉を、ゆっくり頭の中で考えて。そして、赤葦は答える。
「…いえ。男として」
「……」
「惚れた女性の望みは、叶えてあげたいじゃないですか」
「…随分と紳士的だな」
「黒尾さんも同じでしょう?」
「…さあ、どうだろうな」
悪戯げに笑うその横顔に、赤葦もつられて笑みを零す。もう少し、もう少しだ。赤葦にとっても忌々しい、五年前から始まった時間にケリを付けることが出来る。吸い終わった一本を灰皿に押し付けながら、そういえば名無し主任が殺された時、犯人の物と思われる傘を押し付けた相手も黒尾だったな、と思い出して。
「…黒い傘、覚えてますか」
「お前が現場から強引に持ち出してきた黒い傘だろ。あの時は流石にビビったわ」
「あの傘…1つだけ腑に落ちない事があるんです」
黒尾もすっかり短くなった煙草を消す為に、椅子からゆっくり立ち上がった。頭の中では、お互いにあの時の黒い傘を思い浮かべつつ、「腑に落ちない事?」と黒尾が眉を顰めている。当時は赤葦も色々なことに必死で、ちょっとした違和感としか感じていなかった事だが、今こうして改めて考えてみると、見逃してはならない不自然な事なのではないかと思い立ったのだ。
「あの日は、かなり激しい雨が降っていました。だから、あの犯行現場に犯人が傘を持ち込んだ事は頷けるんです」
「まあ、雨が降ってたら傘持ってくだろうな、普通」
「はい。ですが、犯人が名無し主任の留守を狙って家に忍び込んだ時はまだ、雨は降ってなかった筈なんです。それは白布が確認しています」
あの日のあの激しい雨は、最初から降っていたものではなく、途中から降り出したものだった。名無し主任を呼び出した白布は、公園で会話をして、途中降り出した雨によってその密談を中断している。名無し主任が留守の間、犯人は留守番をしていた名無し班長に暴行を加えていたのだから、犯人がやって来た時、まだ外は雨が降っていなかった事になるだろう。なのに、犯人は傘を持ち込んでいた。
「これから雨が降ることを見越して、持ってきてたって事だろ?予報でも夜から雨だって言ってたしな」
「だとして、犯人は帰りに、持ってきた傘を忘れてるんですよ?随分間抜けだと思いませんか」
「人を殺した後だったんだ。班長の証言じゃ、犯人は動揺しながら慌てて出て行ったらしいし。そういうこともあるんじゃねぇの?人殺したことないからあくまでも憶測だけどな」
黒尾の言葉も確かに一理ある。犯人は、家から逃亡する時、相当慌てていた筈だ。人を殺した後なのだ。実際に殺したことのない人間がどれだけ考えても、その時の心境や状態は皆目見当も付かないが、きっとかなり動揺していた筈。その中でなら、傘を忘れるという致命的なミスを犯しても、おかしくはないのかもしれない。だけど、
(…どうも納得いかない…)
激しい雨の中を、傘も無く走って去って行った、犯人。あんな中を傘も差さずに走っていたら、逆に目立つものなのではないだろうか。ずぶ濡れになりながら逃げていく怪しい人物を、あの日あの周辺の人たちは誰も目撃していないという。夜だったという時間帯的な問題もあるのだろうか、それでも東京の街中だ。一人くらい見ていたって不思議ではない。それに、もう1つ、犯人が塚原元主任であるとするならば、決定的な矛盾が残っている。
「…犯人は…、塚原主任は、現場からどうやって逃亡したんでしょうか」
「どういう意味だ」
「例えば、あの雨の中でも傘を忘れて去っていく理由として、こうは考えられないでしょうか」
犯人は、傘を差さずとも、濡れることが無かった。…つまりは、車で逃亡した、という事だ。車に乗り込んでしまえば、雨に濡れることはない。傘だって、忘れてしまっていても車内で濡れる事がないのだから、気付けない。加えて、塚原主任は、直属の部下だった赤葦たちだからこそ知っている、ある特徴があった。
「そもそも、足の悪い塚原主任が、走って逃亡するなんて考えにくい。あの人は良く、傘を杖代わりにして、片足を引きずりながら歩く癖がありましたから」
塚原主任の傘の、石突の部分が激しく損傷している理由はそれだ。彼は右足が悪く、よく引きずるようにして歩いていたのを思い出す。雨で傘を持ってきている時は、傘を杖にしてコツコツと地面を叩きながら歩くのだ。まあ、日常生活に支障を来す程度ではないが、走って現場から逃走するのは難しいのではないだろうか。
「だとすると、あの時現場付近に塚原の車が停まってたのか?聞き込みをした時は、不審な車を見たなんて証言は出てこなかったぞ」
「おかしい…。車が無い筈がない…。多分塚原は車を使ってる…。どこかに車を隠してたのか…?」
道筋は合っている筈。なのに、何故現場からその証拠が出てきていないのか。煙草の匂いが充満するその部屋で、赤葦はどんどん冴えていく頭を押さえた。何か、嫌な胸騒ぎがする。この胸騒ぎの正体が一体なんなのか。頭の中でロジックが組み立てられて、徐々に答えに導いていく。
『じゃあ私、タクシー拾うから。先に帰る』
先程の、班長の言葉が蘇る。俺はなんでこのタイミングで、班長の言葉を…。とそこまで考えて、赤葦はハッと顔を上げた。タクシー。そうだ、タクシー。例え車が現場近くに停めてあったとしても、それが不審車でなければ、誰の印象にも残らない。もしあの時現場にあったのが、そこに停められていても誰からも怪しまれない車両…タクシーだったとしたら。それを見たところで、「どこかの誰かがタクシーを呼んだのだろうか」としか思わない筈だ。
「…タクシー……」
ぼそりと呟いた赤葦の言葉を、黒尾が隣で目を細めながら聞いている。呆然とする赤葦の脳裏には、昨晩の名無しとの会話が蘇っていて、それが彼の脳内に警鐘を鳴らしていた。
『その人が今どこにいるのか、赤葦は知らないのよね』
『俺もずっと独自で調べていたのですが…、今も分かっていません。ただ、連続殺人事件の犯行が続く限り、この周辺に潜んでいる事は確実です』
死んだものとして扱われた塚原元主任は、警察の闇の力にねじ伏せられ、名前も家族も今までの人生も全て奪い取られた。違う名前で、全くの別人として世に放り出された彼が、今どこで何をしているか。名無しも首を捻っていた謎が、今徐々に紐解かれ、そして赤葦を突き動かしていく。
「黒尾さん、今すぐ車を回してください!」
「なんだよいきなり、そんな慌てて、」
「おい黒尾、赤葦。今から飲みでも、」
黒尾の胸倉を掴むようにして詰め寄る赤葦を前に、喫煙所に顔を覗かせた侑、白布、瀬見が驚いたような顔をしているのが見えた。何や喧嘩か?なんてきょとんとしている先頭の侑に、赤葦は黒尾の時同様に詰め寄って、必死な剣幕で仲間たちに訴えかける。
「今すぐ名無し班長に連絡を…、早く!」
「な、何なんいきなり。んな怖い顔しおって…」
「名無しが……」
赤葦の様子に圧されて、第1班のメンバーたちの表情がみるみる強張っていく。赤葦の言葉の続きを待って、静寂が訪れる喫煙所に、静かな声が響いた。
「犯人の次の狙いは、名無しだ…!」
「あの、目黒区ってこっちの方じゃ…」
疲れに身を預けて、ぼーっと窓の景色を眺めていた私が、ようやくタクシーの異変に気付いた時には、既に家から随分離れたところへ来ていた。タクシー運転手が道に迷うことなんてあるのだろうかと、困惑した様子で運転席の方に声を掛ける。料金メーターはその間にもぐんぐん上がっていって、これでぼったくり価格を搾り取られたら納得いかないと思いつつ、後部座席から身を乗り出した瞬間。
「え…」
突きつけられたのは、無機質な冷たい鉄。銃口が、運転席の男から真っ直ぐにこちらに向けられていて、私は体をフリーズさせた。男は相変わらず無言のまま、前を見つめている。赤信号が青信号に変わり、ゆっくりと動き出す車は、一体どこへ向かうのか。静かな車内の中で、私はただその銃口を睨むように見つめて問いかけた。
「…あなた、誰?」