concealed damage

パアン、と響き渡る、銃声音。数年前。刑事ドラマではお馴染みの港の倉庫で、俺たちは犯人と対峙していた。でかい山を任された俺の班は、当時主任だった憧れの先輩を筆頭に、麻薬取引をする暴力団を追っていたのだ。まだ刑事になって、捜査一課に配属されたばかりの俺は、先輩たちの背中に食らいつくのに必死で。置いてかれまいと張り切っていたのが懐かしい。相手が暴力団なだけあって危ない山ではあったが、その分やり甲斐もあったし、絶対に捕まえてやるという闘志もある。何より、この班で絶対に掴みたい。尊敬する先輩と、仲のいい同僚と、今までずっと時間を惜しみ、体を削って追いかけてきたのだ。今日という日こそ、決着をつけてやる。

「いいか、お前ら。相手は銃を持ってる。決して無理はするな。深追いすれば殺される。連中は容赦なく発砲するぞ」

山積みにされたコンテナや荷物の影に体を潜めながら、固まって動く。相手は何人いるのか、どこに潜んでいるのか、何も分からない状態で、俺たちは正直不利な状況に追い詰められていた。言ってしまえば、ここは相手の本拠地。敵のアジトに乗り込んできた俺たちよりも、向こうの方が地の利もあって圧倒的に有利であることは明白。それでも俺たちは、もう後には引けない。向こうも切羽詰まっている筈。ここで追い詰めなければ、きっと逃がしてしまう。それこそ、永遠に捕まえることが出来ないような気がして、気持ちが焦っていた。

ぱん、ぱん、と繰り返される発砲音。木霊するその音に、情けなくも汗が噴き出て体が震えた。まさか、本当にこんなドラマみたいな経験をすることになるなんて。懐に忍ばせていた拳銃を握りしめ、その無機質な黒い物体を見下ろした。迷ってはいけない。少しでも迷ったら、殺される。自分が死ぬ前に、この引き金を引くしかない。

「黒尾。迷うなよ」
「……はい」
「最悪の場合は、それを引け。いいな」
「…了解です」

新人の俺に、主任はそう言った。酷な話だ。まだ刑事になったばかりだというのに、いきなりこんな責任を負わせようだなんて。勿論、刑事になった時にそういった覚悟もしてきたつもりだった。けど、実際その場面に立ったら、やっぱり怖くもなる。どんなに相手が凶悪な犯罪者だとしても、一人の人間。その人間の命を、最悪の場合は撃てと、そう言うのだ。そしてもしその時がきた時、俺は引き金を引くだろう。その人の命を奪うつもりで、自分の命を守る為に。その時俺は、一体どうなるのだろう。これからずっと、その人の命を奪ったという罪意識に悩まされて生きていくのだろうか。

「いた!あそこだ!」

響き渡った声に弾かれて、俺は顔を上げた。コンテナの影からワラワラと現れる、暴力団の組員たち。その内の何人かの手には銃が握られている。気付いた時には俺たちは囲まれていて、絶体絶命という言葉が相応しい、そんな状況の中に置かれていた。

「まずい、伏せろ!」

俺たちを庇うようにして立ち上がった主任は、一人でそこから飛び出して行った。引き止める俺たちの声も振り払って、銃を構えながら、走っていく。その背中は、まるでスローモーションのようにゆっくりと流れて、俺の頭は真っ白になった。ここからは俺も記憶が曖昧で、あまり鮮明には覚えていないが、カーッと血が上って全身が熱くなったことは僅かに覚えている。「主任!待って、待ってください!」そう口々に叫ぶ班員たちの中で、俺もその背中を追ってコンテナの影から飛び出そうとする。このままじゃ、主任が蜂の巣だ。そうしたら、俺は、俺は…っ、

「ダメ!黒尾!出ちゃ駄目!」

前へ行こうとする俺の体を必死に抑えた、女の先輩。その人は、俺を制しながら、懐から拳銃を取り出した。飛び交う銃声、撒き散る赤い血。目の前で何が起こっているのか、俺にはさっぱり理解できない。気付いた時には、前で倒れている主任と、その更に向こうで同じように倒れている暴力団の男たち。俺の傍らでは、流れ弾を喰らって肩や足を押さえている同僚や先輩。…地獄。地獄のような光景が、目の前に広がっていた。






「………、……お、」








「黒尾!!」
「……っ!」

名前を呼ばれて、はっと目を覚ました時、俺の体は汗でびっしょりと濡れていた。心配そうに顔を覗き込んでくる女…、名無しは、俺と同じ裸なまま、隣に横たえていた体を起こしている。ホテルの一室にて、先程まで体を交えていた俺たちは、何度かの情事の後、疲れ果てて眠っていた、筈だった。気怠い体を起こすと、途端に重い疲労感が体に伸し掛かり、寝る前よりも疲れ切っていた。

「すごい魘されてたから起こしちゃったけど…、大丈夫?」
「…ああ…。昔の夢を見てた」

備え付けられた小さな冷蔵庫に手を伸ばして、水の入ったボトルを取る。キャップを引っ掴んでごくごくと喉を鳴らすと、少しだけ気持ちが落ち着いた。子供じゃあるまいし、たかが夢で魘されて取り乱すなんて、恰好付かないにも程がある。しかも、好きな女の前でこんな醜態を晒すなんて。項垂れるようにベッドに腰かけていた俺の背中を、そっと撫でる優しい手。俺は、コイツのこの優しい手が好きだ。

「昔の夢って、もしかして…、」
「…俺が昔いた班の主任が、殉職する夢」

今でもトラウマの様に俺の奥底に眠る、忌々しい記憶。俺が昔尊敬し、慕っていた主任は、麻薬密売組織を追う途中で殉職した。港の倉庫で銃撃戦にまで発展したあの事件。囲まれて絶体絶命だった俺たちを庇う為、主任は文字通り壁となって、自らの命をもって俺たちを守ったのだ。

あの後、駆け付けた警察の応援によって暴力団は逮捕され、事件自体は解決となった。しかし、失ったものも大きかった。運ばれた主任の遺体と対面した時、あまりの状態に吐き気を催したことは、今でも鮮明に記憶に残っている。体中、弾丸が貫かれ穴が開いたその遺体は、まさに蜂の巣状態。きっと痛かっただろうに。苦しかっただろうに。俺たちを守る為に、最後まで必死に力を振り絞って、その足で立っていたのだ。

「…忘れられねえ。あの時のこと。目の前で、尊敬する人が撃たれてんのに、俺は何も出来なかった」
「黒尾……」
「もっと他に、何か出来ることがあったんじゃねえかって。あの人が死ぬ必要なかったんじゃねえかって、そればかり考えて…。今でもずっと後悔してる」

主任の命を奪ったのは、無数の弾丸の内の1つ。心臓を貫いた弾丸が、トドメとなった。殉職した主任は、二階級特進の制度で出世し、その名誉を讃えられた。飾られた遺影の前で、みんなが拍手をする光景を、俺はただぼーっと眺めて。こんな意味のない出世、なんにもならない。こんなことをしたって、主任はもう帰ってはこない。家族もいるのに。息子の小学校の入学式が楽しみだと言っていたのに。もっと頑張って働いて、息子の大学費用を今からでも貯めないとって、笑いながら煙草を吸っていたのに。

テーブルに無造作に置かれた、赤いパッケージのラーク。過去の記憶を蘇らせながら、俺はそれを手に取ってタバコに火を付けた。あの日から、主任と同じ銘柄に変えた煙草。深く息を吸って、煙を肺に取り込む。「うわ、不味いですよこれ。この銘柄が好きなんですか?」「お前みたいなヒヨッコには、まだこの味の良さが分かんねえよ」そんな会話をしたあの日を思い出す。俺は、この煙草の味が、分かるようになったのだろうか。

「…黒尾、泣いてるの?」
「…泣いてねえよ。見りゃ分かんだろ」
「でも、心が泣いてる」
「……なんだそれ。意味分かんね」

精一杯の強がり。男の意地。好きな女の前で弱い所は見せたくないという、くだらないプライド。でもこの女は……、今の俺の主任は、平気で俺の心の中に踏み込んでくる。自分の心は固く閉ざしている癖に、人の弱みには鋭いのだ。後ろから回されたその細い腕に手を添えて、俺は目を伏せた。涙は流れていない。だけど、名無しは仕切りに言った。泣いているのか、と。

「私の班にいる人は、みんな重たい過去を持っている人が多いから」
「…確かにそうだな」
「職業柄、人の死に立ち会うことも多いし、自然とそういう人たちが集まるのかもしれないけど」

お前も、姉の死を目の前で見てるんだもんな。その記憶は、コイツの奥底にまで刻まれて、名無しの生き方をすっかり変えてしまった。俺は、コイツが刑事だった姉の後を追って、刑事になったことを知っている。新人だった頃の名無しは、今では信じられないくらい真っ直ぐで、熱い正義に燃える、まるで瀬見のような女だった筈だ。人殺しはダメです!とか言っちゃう感じの、優等生タイプ。

「なあ」
「ん?」
「俺、あの時のことあんま覚えてねえんだけどさ」

ぽつぽつと語りだした俺の言葉を、名無しは静かに聞いてくれている。姉を失っているコイツになら、俺の気持ちを理解してもらえるかも、と、何となくそう感じたんだ。

「確か俺…、あの時、飛び出してった主任の後を追おうとしたんだよ」
「うん」
「でもそんな俺を、必死に引き止めてくれた人がいたんだ」
「うん」
「…それが、お前の姉さんだ」




振り返ると、目を大きく見開いた名無しの姿が目に入る。そうだ。あの時、あの班にいた女刑事の先輩。それが、コイツの…、死んだ名無しの姉さんだった。姉御肌で面倒見のいい先輩は、あの時俺を止めてくれた。もし止めてくれなかったら、俺も蜂の巣になって今この世にいなかったかもしれない。俺にとっては、命の恩人でもある存在だった。まさかその数年後、彼女まで殺されてしまうなんて、思ってもいなかったし、その人の妹の下で働く日がくるなんて、誰が想像していただろうか。運命とは残酷で、複雑で、不思議なものである。

「…私の姉が、黒尾の先輩だったの…?」
「ああ。聞いてなかったか」
「……知らなかった」
「俺の主任が殉職したあの時、お前の姉さんはあの場にいた」
「じゃあ、お姉ちゃんが主任になったのって、」
「あの時の主任が殉職したからだ」

後任として、名前を挙げられたのが、名無しの姉。そのまま主任に就いて、彼女は俺たちの上司となった。結局彼女も、その後事件に巻き込まれて亡くなってしまったから、その期間はとても短いものだったが。俺は彼女の後輩として、色々とお世話になったし馴染みの深い存在でもあった。だから、名無しの存在も一方的に知っていた。「妹も刑事になったんだ」と嬉しそうに先輩が話していたから。

予想していなかった新しい事実に、今度は名無しが言葉を失っている。てっきり知っていたものだと勝手に思い込んでいたが、先輩はあの時のことを妹には話していなかったのか。まあ先輩にとっても、尊敬する主任を失った事件となったのだ。あまり口にしたくない出来事だったのかもしれない。

あからさまに動揺する名無しの腕を引きよせて、俺はそっとその唇に自分の唇を押し当てる。変な夢を見たせいで、すっかり雰囲気を台無しにしてしまった。毎晩ふらふらと違う男の元へ行ってしまう彼女を、せっかく今晩手に入れたというのにこれでは最悪なまま終わってしまう。俺が唇を重ねると、名無しも受け入れて首に腕を回してきた。まだ夜が明けるには時間がある。お互い昔の記憶には蓋をして、もう一度シーツの波に溺れよう。今はそれが、一番の慰めだ。






黒尾に熱く抱かれながら、名無しは思い出していた。


『私、捜査一課第一班の主任…、班長になったの!』

嬉しそうに報告する姉と、祝福する私と母と父。知らなかった。姉が出世した裏で、そんな痛ましい出来事があっただなんて。姉は、その悲しみを私たちに打ち明けず、一人で抱え込んでいたのだろうか。黒尾から語られた真実を受けて、私はふと気づく。

私、お姉ちゃんのこと、あまり知らないんじゃないかって。