cigarette smoke

「今回の被害者は、このワンルームマンションに一人で暮らす、20代の女性です。遺体の形跡を見る限りでは、どうやら強姦された後に殺害されたようですね」
「…むごい事するわね」

とあるマンションの一室。朝、連絡を受けて家からそのまま直行すると、ちょうど外に立っていた黒尾が、覆われていたブルーシートを捲り上げてくれた。形式上、懐から警察手帳を見せて、白いグローブと靴カバーを着用し中に入る。室内は特に荒らされた形跡はなく、被害者が犯人ともみ合いになった時に落ちたと思われる物が、所々散乱しているのみ。一人暮らし用のワンルームだからそこまで中は広くなく、遺体が置かれているのはキッチンを潜り抜けた先にあるリビングだった。

遺体に掛けられたシートを捲り、簡単に説明をしてくれた赤葦の話に、私は眉を顰めた。強姦。その単語を聞くと、今でも少し心がざわつく。コメカミの辺りを抑えて、痛む頭を必死に落ち着けた。過去の自分を思い出している場合ではない。今はこの事件の真相を追わなければならないのだ。女性の遺体は、強姦されたまま置かれていて、裸の状態だった。私は目を閉じてゆっくり深呼吸すると、シートを捲っていた赤葦を手で制し、遺体の傍から立ち上がった。赤葦はそんな私を心配するように、顔を覗き込んでくる。

「…大丈夫ですか」
「うん。平気。それより、他に何か手がかりはないの?」
「犯人に関する痕跡は残ってないみたいです。捜査も手こずりそうですね」

強姦されたとするならば、被害者の体内に犯人のものと思われるDNAか何かが残っていそうだが、それも警察側にデータがある人物でなければ、採取したところで何の手掛かりにもならない。証拠を残さない辺り、カッとなって殺した、というよりは、この女性の殺害を計画して、初めから殺すつもりで接触したのかもしれない。今はまだ情報が足りなさ過ぎて、全て憶測にしか過ぎないが、赤葦の言う通り、この事件は簡単に解決とはいかなさそうだ。

「白布は?」
「一旦署に戻るって言ってました。被害者のことを調べると」
「他の人は」
「黒尾さんと瀬見さんはこれから聞き込みに行くところです。今日の班長の相棒は俺が」
「さすがみんな。指示が無くても動けるところ本当に優秀だわ」
「そう思うなら、もっと給料上げてくれてもいいんですけどね」
「私みたいなただの主任にそこまでの権限はないから。直接上に掛け合って」

うえ、と顔を顰める赤葦の横で、私のスマホが鳴る。ぶーぶーと振動を鳴らすそれを手に取って、ディスプレイを確認すると、早速白布という名前が表示されていた。恐らく何か重要な情報を掴んだに違いない。嵌めていた手袋を外して通話ボタンをタップする。もしもし、と返事をすると、「白布です」と仕事モードの彼の声が聞こえてきた。

「どうしたの」
『被害者のことを調べていて、気になるデータがありました』
「仕事が早い。気になるデータって?」
『被害者の女性…、数年前に詐欺の容疑で起訴されていたみたいです』
「詐欺?」
『所謂結婚詐欺ですね。かなり年上の男性と交際していて、婚約もしていたらしいんですが、ある日一方的に縁を切られたと。男性側は相当な金を彼女に使っていたみたいですから』
「なるほど。で、彼女はどうなったの?」
『不起訴処分になって、無罪放免になったみたいです。男性側の方は納得いかなくて、その後も相当揉めたみたいですが』
「ってことは…、彼女に対して恨みを抱いている人物がいた、と」
『そういうことになります。俺は今から、その男性を訪ねてみようと思います』
「了解。夕方辺りに聞き込みしてる二人も集めるから、一度みんなで署に集まろう」
『了解です』

通話が切れたことを確認して、スマホを鞄に投げ入れる。部下たちの仕事が早すぎて、最早私の仕事なんてないんじゃないだろうか。隣で待機していた赤葦が、私を見つめて指示を待つ。

「俺たちはどうしますか」
「私たちも一旦署に戻ろうか。被害者の女性のこと、もう少し詳しく調べたいし。遺体の解剖結果も待ちたいしね」
「了解。車回してきます」

警察の社用車のキーを片手に、部屋を出ていく赤葦を見送った後、私はそっと遺体を振り返った。シートが掛けられているその膨らみを数秒見つめた後、遺体の傍らにしゃがみこんでそっと捲り上げる。露わになる、女性の遺体。彼女はこれから警察署の方へ運ばれて、科捜研の手によって解剖されるだろう。ご遺体は被害者のダイイングメッセージ、と言われるように、遺体に残された証拠が事件を解決に導くことだってある。私は、そこで静かに眠る女性にそっと手を合わせて、この事件の犯人を見つけ出すことを心に固く誓った。姉を失った時と、状況が似ているからだろうか。沸々と込み上げてくる、犯人に対しての怒り。もうあの時のように決して逃がしたりはしない。必ず追い詰めて捕まえてみせる。

そうして、赤葦が来るのを待ちながら遺体を物色していたのだが、ふとそこで、気になるものが私の視界に映りこんだ。遺体の女性が、まるで何かを握りしめているかのように、ぎゅっと拳を固めているのだ。そっとその手に指を這わせて解こうとしたが、死後硬直が進んでいて指が開かない。遺体解剖に任せるしかなさそうだが、気になる点としてメモを残しておこうと、警察手帳を取り出す。死んでも尚離さなかったものだ。きっと犯人に繋がる何かかもしれない。

「班長、車持ってきました」
「うん、今行く」

走り書きで残したメモを懐にしまい込んで、私は立ち上がった。この日起こった、残忍な殺人事件。この事件が、後に大きく報道される連続殺人事件の1番目の被害者になろうとは、思ってもいなかった。犯人を必ず捕まえる、という私の想いとは裏腹に、事件の捜査は難航を極め、迷宮入りの一歩を踏み出していたのである。





ーーーー・・・・




「そっちは何か有益な情報あった?」
「いや何も。今日の聞き込みはハズレだったな」

夕暮れ。赤い夕日が差し込むデスクで、私たち名無し班は集合し、顔を揃えていた。結局あの後、私と赤葦も被害者の女性のことを調べていたが、白布が掴んでくれた『起訴された過去がある』という情報以外には、これといって事件に関係していそうなことは得られなかった。どうやら聞き込みに回っていた黒尾と瀬見もあまり手応えは無かったようで、疲労感を顔に出しながら溜息を付いている。

「白布はどうだったの?」
「俺も同じです。例の男性を訪ねましたが、もうあの一件以来一切関わってないと。警察に対しても不信感があるのか、随分と鬱陶しそうに追い払われましたよ」
「うーん…。そう簡単にはいかないか…」

難しい顔をして唸りを上げる面々を見渡し、小さく息を吐く。悩んでいても仕方がない。まだ明日もある。少しずつ事件の事を調べていくしかなさそうだ。

「よし、今日は私の驕りで呑みに行こう」
「いいのかよ。給料日前でピンチとか言ってなかったっけ」
「この山掴んだらどかーんと入ってくる訳だし。みんなには力蓄えて貰って、ばりばり働いてもらうからね」
「よっしゃ。じゃあいつもの店行きますか!」

黒尾が立ち上がると、みんなも釣られるようにして立ち上がる。荷物を纏めて、帰り支度をする中、捜査一課のフロアに顔を覗かせた一人の男が、私の姿を見るなり手招きをした。

「いたいた、お嬢!」
「……及川」

科捜研に所属する、及川徹。その整った顔立ちは、警視庁の中でもファンクラブが出来る程の人気っぷりだ。爽やかなルックスと、女性に優しい紳士的な性格の裏では、警視庁の女性をほぼ全員喰っているだとか、彼氏がいる女を奪っただとか、不倫してるだとか女をヤリ捨てただとか、色々と黒い噂も絶えない人物だ。しかし仕事っぷりはかなり優秀で、科捜研のエースとも呼ばれる彼には、今までの事件でも何回かお世話になっている。

「その呼び方やめてよ」
「えー、いいじゃん。なんかヤクザみたいでかっこよくない?」

にんまりと笑うその顔が小憎たらしい。女性には人気だが、男性からは反感を買いやすいようで、私の部下たちもじっとりと及川を睨んでいる。手招きする彼に誘われて、「ちょっと待ってて」と部下たちに一言残した私は、及川の元へと小走りで駆け寄る。

「で、なに。私もう帰るんだけど」
「ほら、鑑識の結果。持ってきてあげんたんだよ、この及川さんがわざわざお嬢様の為に」
「もしかして、私が個人的に依頼してたアレ!?」
「そう、そのアレ」

ずっと違和感を感じていた、被害女性の遺体の右手。何かを掴んでいるかのように握りしめられていた拳の中身を、調べて欲しいと及川に個人的に頼んでいたのだ。その結果を持ってきてくれたらしい及川は、勿体ぶってなかなか私にその結果を教えてくれない。さっきからごそごそと白衣のポケットを漁りながら、「欲しい?どうしよっかなあ。タダであげるのもなあ」なんてお道化ている。どうやらこの依頼に対しての見返りを求めているらしい。相変わらず呆れた男だと、深いため息をついて彼を見上げた。

「……なに、何が欲しいの。ご飯くらいなら驕るよ」
「えー、そんなのいらないよ」
「じゃあなにがいいの」

及川は、その言葉を待ってましたと言わんばかりに口の端を釣り上げて、私にそっと耳打ちをした。

「今度ヤらせて」
「……、やっぱり及川のあの黒い噂って本当だったんだ」
「ええ!?何黒い噂って!及川さんそんなんじゃないから!」
「だって、見返りに体求めてくるなんて」
「別にいいでしょ。名無しちゃん、彼氏いる訳でもないんだし」

それに、と一旦区切ってから、及川はちらりと私の背後を見た。

「…部下に手を出してるそっちよりは、俺なんて可愛いものだと思うけど?」
「悪かったわね、アバズレで」
「そんなこと言ってないでしょ。ね、どう?いい条件だと思うんだけどなあ」

どう?と聞かれたって、分かった、と答えなければコイツは本気で調査結果を渡さないつもりだ。何度目か分からない溜息を付きながら、「分かったよ」と答えると、及川はあっさりとポケットからそれを取りだして、私の手の上に乗せた。透明なジップロックのような袋に入ったそれに、私は目を奪われて。

「これ……、煙草の吸殻?」
「そう。被害者の女性が握りしめてたのは、これだったよ」
「どういうこと…。被害者って喫煙者なの?」
「違う違う。これ、多分犯人が吸ってたやつ」
「犯人が吸ってたって…、人を殺しながら煙草吸ってたってこと…?」
「まあ、状況的にはそうなるね」

とんだ異常者だ、と私は絶句した。人を殺そうとしている時に、この犯人は呑気に煙草を吸っていたのか。被害者の女性が、最後の力を振り絞って掴み取ったならそういうことになるが、垣間見えた犯人の異常性には身の毛がよだつ。私が興味深くその袋に入れられた吸殻を見つめていると、何故かコメカミの辺りがまた痛みだした。顔を歪めて、痛む部分をぐりぐりと抑える。なんだろう、この吸殻。何か引っかかる。



痛む頭痛。蘇る記憶。ショックが大きくて失いかけていた昔の記憶が呼び起こされた。……煙草。そうだ、煙草。



5年前のあの時…。私は、突然家に入ってきた男に無理矢理襲われながら、感じていた。

煙草の、匂い。まるでさっきまで吸っていたくらいの強烈な匂い。





「…名無しちゃん?」
「……!」
「どうしたの、ぼーっとして」
「…い、いや、なんでもない」

及川の呼びかけで意識を取り戻した私は、ありがとうとお礼を言いながら、その吸殻をジャケットのポケットに仕舞いこんだ。様子が変わった私を訝し気に見ていた及川だったが、待ちくたびれた私の部下が、ワラワラと後ろから集まってきたことによって、それ以上の追及はされずに済んだのだった。

「いつまで待たせる気だよ、班長」
「ごめんごめん。今終わったところだから」
「ちょっと何なのお前たち。せっかく口説いてた所だったのに、邪魔しないでくれる」
「今晩の相手を探してるなら、他所を当たってくれ。コイツの予約は一杯なんで」
「へえ。相変わらず部下から人気があるね、お嬢」

その呼び方やめてよ、と睨み付けると、及川は相変わらずへらへらと笑いながら踵を返し、手を振りながらその場を去って行った。その後、いつもの飲み屋に直行し、5人の男たちの呑み代を驕って無事金欠になった私は、その足でこっそりと及川と落ち合い、約束通り体で調査結果の報酬を払ったのだ。