ignorance is bliss

昨日から、私は赤葦と一言も口を利いていなかった。別に赤葦が悪い訳ではない。彼も尊敬する主任を失って、その主任の命を奪ったのが私の姉の放った弾丸だと言うのなら、あそこまで熱くなるのも無理はないだろう。背後から撃たれた弾丸が留めになってしまったことは事実であり真実。姉が命を奪ったという点に関しては、言い逃れできない本当の事なのだから。だけど、それを意図的に放ったのかどうかという点では、あれは赤葦の憶測に過ぎない。今はもう亡き姉の事。本人に真実を問いただすことはできないが、私は信じている。姉は決して、人の命を簡単に奪えるような人ではないと。生きるか死ぬかの銃撃戦で、姉も必死だったのだと、そう思っている。

昨日の赤葦とのやり取りを頭に思い出しながら、寝不足の体を引きずって、ヒールを鳴らしながら署内を歩く。今日も1班のメンバーは、例の連続殺人事件を調べる為外へ出払っている。私は一人ここに残り、書類や証拠品を漁って調査を進めていた。その調査の中で、昨日知った姉の真実と、5年前の事件の出来事。私の足は、証拠品を保管する倉庫へと向かっていて、頭の中には5年前のあの日の夜のことでいっぱいになっていた。

(あの時姉は、携帯電話を見ながら慌てて家を出て行った…。きっと携帯に何か記録が…)

歩く足は自然と早まって、小走りで廊下を駆けていく。その道中で差し掛かった、今回の連続殺人事件捜査本部の会議室。少しだけ開かれた扉から、何やら小さな声が聞こえる。誰かが中で会話しているようだ。なんとなく気になって、私はその隙間をそっと覗き込んだ。別に他意はない、ただ何となく、気になったのだ。

「これじゃあ同じじゃないか、名無しの事件と」

そこで聞こえてきた、私の苗字にドキリと心臓が跳ねる。何故私の名前が出てきたのか。同じとは、一体どういう意味なのか。ちょっとした興味本位で覗き込んだ筈なのに、とんだ爆弾を投げつけられたような気分で、私はそこに釘付けになった。昨日の赤葦といい、今のこの会話といい、本当に今さらになってぽんぽんと5年前の事件のことが表に出てくる。あれだけ追い続けて、証拠も何もなくて停滞していた5年前の事件が、今急速に動き出している。次々と真実が明るみになっていく。私は確かにあの事件を追っていて、犯人を探っていた筈なのに…何故か今は、その犯人を知るのが少しだけ怖いと思い始めていた。姉の真実を知るのが怖い。私の中の憧れだった姉が、どんどん壊されていく。それが堪らなく怖い。もし姉が何か重大なことを隠していたとしたら、私は、姉のその真実を、受け入れることが出来るのだろうか。

「被害者全員、上層部がもみ消した事件の犯人たちだ…。きっと、当時の被害者たちの呪いなんだ」
「呪いなんて…、馬鹿馬鹿しい、ただの偶然だろう。それに、俺たちにとっても好都合じゃないか。言いふらされたら困るような過去を持っていた人たちが、次々と消されていってるんだ。口封じには一番いい」
「それは…、そうだが……。もしかしたら俺も、いつか殺されるんじゃないかって思うと…」
「大丈夫だろう。俺たちは別に、誰かを殺した訳でも、直接手を汚した訳でもない。ただ上の命令に従って、事件をもみ消しただけだ」

連続殺人事件の被害者たちの共通点。全員前科持ちで、その罪を逃れてきた人たち。その人たちが、どうやって罪を逃れてきたのか疑問には思っていたが、やはり警察の黒い力が働いていたなんて。そして、まるでその罪を、警察に代わって断罪するかのように殺人事件が繰り返されている。今回の事件の犯人は、一体どこでそんな情報を仕入れているのだろう。前科持ちの人を調べるにしたって、ただの一般人には難しい話だ。そうだ、今回の犯人は、詳しすぎるのだ。まるで、……、そう、まるで、

「盗み聞きなんて、感心せんなあ、班長」
「……っ!」

びくりと大袈裟な程に跳ね上がった肩。振り返ると、そこにはにっこりと笑った侑が立っていて、「何してんねんこんな所で」と私を見下ろしている。聞き込みに行っていた筈だったが、もう戻って来たのだろうか。そんな疑問が顔にも出ていたのか。侑は、「まだ途中やねんけど、近くまで戻って来たから荷物取りに来てん」と答えてくれた。そうなんだ、と気の抜けた返事をする私に、侑はいよいよ眉を顰めて、顔を覗き込んできた。

「どうした?すごい顔してんで、班長」
「…………」
「ほんまどうしたん。赤葦も朝からなんか様子変やし。なんかあったんか」

何かあったのかと聞かれれば、大ありだ。昨日から色々なことが起こりすぎて、頭がついていかない。赤葦の昨日の言葉を受けて、まだ頭が混乱気味だというのに、更に追い打ちをかけるように、たった今新しい事実を知ってしまった。この会議室の向こうで交わされていた、「名無しの事件と同じ」という言葉は、一体どういう意味なのだろう。今回の事件と、私の姉が殺されたあの事件は同じ?それだとまるで、被害者だった姉が、罪を逃れた前科持ちのように聞こえてしまうではないか。…まさか、そんな。そう考えを振り払う私の脳裏に、蘇る赤葦の言葉。



『主任は、殺されたんじゃないかって』




違う、絶対に違う。頭の中に浮かんでは、否定して、振り払って。昨日からそんなことばかり繰り返している。黒尾は、私の姉のことをどう思っているのだろう。私が妹だから、彼は敢えて姉のことを言わなかったのか。知りたい。知りたくないけれど、知りたい。

「ねぇ、侑」
「ん」
「侑も、刑事になったの赤葦と同じ時期だよね」
「おん。班違ったけど、アイツは俺の同期やで」
「じゃあ…、私の姉のことも、知ってる?」

そう問いかけた瞬間、侑の雰囲気が変わった。一瞬だけ目を大きく見開いた後、すぐに表情を戻して冷静を装っていた。「どしたん、いきなりそんな事聞いて」なんて、質問の答えになってない言葉を返されて、私はつい焦ったくなる。教えて、と強めに詰め寄ると、侑はぐっと押し黙った後、観念したように息を漏らした。

「……聞いたんやろ、そこの会議室の会話」
「え…」
「殺されてる被害者は、全員罪を逃れた経験のある奴らばっかりや。しかも…どいつも警視庁トップの親戚やったり、子供やったり…、とにかく何らかの形で警察と関わりのある奴らばっかやねん」
「なるほど。それで、今回殺された人たちは、上の命令で罪を揉み消されたんだ。警察関係者の血縁者が犯罪者だなんて、カッコがつかないもんね」
「そういうことや。結局上の連中は、昔から変わらへんねん。自分らのことが可愛くてしゃーない。他の連中がどんなに苦しんでても、関係ない。自分が良ければ全て良し」

反吐がでるわ、と吐き捨てた侑。元々彼は、昔の経験から警視庁トップに対して不信感を募らせている。今回の事件で、こうして再び警察の闇に触れて、侑は余程苛立っているのだろう。その言葉の端々には棘を感じられた。

「…俺も班が違ったから、詳しいことは知らんけどな。当時、赤葦と黒尾さんの班が追ってた麻薬の事件も、黒い噂ぷんぷんやった」
「黒い噂?」
「暴力団の中に、警察関係者がおるっちゅー話や。何でも、警察の行動や作戦が全部筒抜けやったらしくてな。暴力団に情報を売ってる裏切り者がおるんやないかって、密かに騒がれててん」
「そ、そんな漫画みたいな話…」
「俺も最初はまさかって思っとった。流石にそんなことする奴おらんやろって」

でも、と続けた侑の言葉。

「俺聞いたんや。さっきのお前みたいに、すこーし開いた会議室の扉の隙間からな。警察のお偉いさんと……、お前のねーちゃんが話してるところ」
「え…………、」





『よくやった、#name1』
『はい、ありがとうございます』
『約束通り、お前には空いた主任の席を用意しておこう。それが今回の礼だ』
『……!はい…!』
『どうだ、お前も主任程度の席で、満足できるようなタマじゃないだろう』
『え……?』
『今晩、いかがかね。その気なら、ホテルの一番最上階を取っておくが』
『………、……い、行きます』
『良い心がけだ。お前のような逸材が上に上ってこれば、警察の未来は明るいな』
『あ…、ありがとうございます!』








どさ、と持っていた荷物が落ちた。何も返す言葉がない。呆然とする私を見て、侑は目を伏せた。「班長に言うとショックやろなと思って、言わんかった」そう付け足す彼の言葉に殴られて、頭が真っ白になる。ずっと否定し続けていた、姉の本当の姿。赤葦も、侑も、こんなつまらない冗談など言う男ではない。きっと、本当なんだ。姉が、上層部に体を売って出世したこと。何かの取引の報酬として、主任の席を勝ち取ったこと。そしてその取引は、恐らく。






パァン。



響き渡る、港の倉庫での銃声。当時捜査一課一班のメンバーだった名無しは、取り出した拳銃で、迷い無く撃ち抜いた。それは、犯人である暴力団の体ではない。彼女が構える銃口は、ただ真っ直ぐ。己の上司である主任の背中に向けられていたのだ。





私の姉は、人殺しだ。








「…侑」
「おん」
「私、思ったんだけど。今回の事件の犯人って、」

私の姉を殺した人と、同じなんじゃないのかな。

目を見開く侑を、私は冷静に見つめ返していた。