わが恋は

近頃アイツの様子が変だ、とカカシに相談を持ち掛けたのは、ある日の任務帰りの時であった。は?と気の抜けた返事をして、こちらを見るカカシの目を見つめ返す。アイツとは、言わずもがな、俺とカカシが手塩にかけて面倒を見てきた名無しの事である。名無しの様子が何だかおかしいと感じ始めたのは、今から数日前の事だった。

「何がおかしいんだよ」
「いや…、何がと言われると上手く説明ができない」
「はあ?」

慌ててカカシに打ち明けたと思いきや、上手く説明できないなんて言われれば、カカシだって困惑するだけだ。現に今のコイツの顔は、『何を言ってるんだ』と言わんばかりの表情を浮かべている。だが名無しの様子がおかしいというのは本当のことで、俺も俺でどうしたらいいのか分からないでいるのだ。この男に頼るのは癪だが、一応これまでカカシと二人三脚で名無しの面倒を見てきた。俺以外で、アイツのことを理解してやれるのは恐らくこのはたけカカシであろう。

「お前がおかしいと思ったきっかけは何なんだよ」
「俺を避けるようになった」
「反抗期でしょ」
「アイツももういい歳だぞ」
「女性にいい歳なんて言うと、ぶん殴られるよオビト」

カカシに思わぬ指摘を受けて、フンと鼻を鳴らした。俺のデリカシーの無さは今はどうでもいいのだ。そんなことを相談しに来た訳ではない。問題は、名無しがここ最近、あからさまに俺を避けだしたということ。今もうちはの屋敷で共に暮らしている名無しとは、俺が任務で長らく家を空けない限りは必ず毎日顔を合わせる。今までは、自分で言うのもなんだが、俺とカカシにべったりだったアイツが、最近になって会話も無ければ目すら合わせない。おい、と呼びかければ何故か慌てた様子で逃げていく。一体俺が何をしたというのか。

「カカシのところへは来てるのか」
「んー…、そう言われてみると最近俺の所へも来てないかも」
「また何か良からぬ事を考えてなければいいんだが」
「オビトの考えすぎでしょ。アイツももう子供じゃないんだから」

呆れた様に息を吐くカカシに対し、やはり俺が過保護すぎるのだろうかと眉間に皺を寄せる。名無しは昔からトラブルメーカーで、何度も危ない目に遭っては、俺やカカシが危険因子を追い払ってきた。今回の様子のおかしさも、その予兆で無ければいいのだが。心配には心配だが、確かにカカシの言う通り、名無しももうすっかり大きく成長した。いつまでも世話を焼いている訳にはいかないのだろう。

「それもそう、だな…」
「お前もいい加減子離れしないと、うざーいとか言われるようになるぞ」
「そんな事を言った暁には、家から締め出す」
「とか言って、一回も締め出した事無い癖に」

カカシと共に、帰路に着く中で、俺はずっと考えていた。名無しを育ててきた、今までの思い出と、これからアイツが辿って行くであろう未来を。今日この日まで、俺とカカシはずっと名無しを傍で見続けてきた。時には守り、時には叱り。生き抜く為に、アイツには俺の豪火球も叩き込んだし、カカシの雷切も扱えるようになった。ずっと一緒に、三人で歩んできたと言っても過言ではない。

最初こそ、只の罪滅ぼしだった。俺が起こした戦争のせいで名無しは両親を失ったのだ。まだ幼かった彼女の面倒を見ながら、いつも自分の中の罪悪感を慰める。毎日それの繰り返し。だが名無しは、戦争を起こした張本人である俺に、いつも屈託無く笑う。物心がついて、俺がお前の両親を殺したんだと打ち明けても、名無しの態度は「で?」なんて言いながらあっけらかんとしていて、俺こそ彼女のその明るさに救われていたのだろう。気付けば大切な存在になっていた、名無し。血の繋がりは無くとも、家族同等、いやそれ以上に、俺たちは繋がっている。

しかし、これから先、いつまでも今のようにとは行かないことも、分かっていた。これから名無しは忍びとしての実力も付け、里を担う立派な医療忍者として歩んで行く。その道中で、きっと色んな出会いを果たすだろう。そしていつか、そこで出会った男と結婚し、子供を持ち、今度はアイツが親になる。そして名無しは俺の手から離れ、巣立っていくのだろう。

(子離れ、か)

ふ、と自嘲気味に笑いを零す。カカシの言う通りかもしれない。名無しが俺たちにべったりなようで、本当は俺が名無しから離れられないでいたのか。寂しくないと言えば嘘になる。だが、アイツの成長を願う立場にある者からすれば、嬉しいという気持ちがある事も事実だ。出会った頃は、あんなに小さかったのに。今ではもうすっかり大人になった。めでたい事ではないか。

色んな思い出に懐かしさを感じながら、気付けば俺は、家の前までやって来ていて。任務の疲れによる程よい倦怠感を感じながら、戸を開けて靴を脱いだ。隅には名無しの靴もあって、既に帰ってきている事を悟る。前なら、おかえりなさいと熱烈なお出迎えを受け、油断しようものなら「ただいまのチュー」などとふざけた事を言いながら引っ付いてきていたというのに。ここ数日での豹変ぶりには着いていけない。秋の空と女心は何とやらと言うものだが、これがまさにそれなのか。娘を持つ父親の気苦労が、少しだけ分かるような気がする。

疲れた体を引きずって、俺はリビングの電気を付けた。しん、と静まり返っているその部屋には、名無しの姿などない。自分の部屋に篭っているのだろうかと、廊下の先に視線を配りつつも、俺は脱衣所へと足を向けた。汚れた体を洗い流して、ついでに任務の疲れも取ってしまおうではないか。乱雑に脱ぎ捨てた服を、洗濯機に放り込む。畳んで棚に置かれているタオルを引っ掴んで肩に掛け、風呂場の戸に手を掛けた。

「…………………」
「…………………」

がらり、と開けた扉の先には、自分と同じく真っ裸の女…名無しが立っている。お互いに何も身に纏わぬまま、ぽかんと突っ立って目を白黒させた。漂ってくる、ホカホカと立ち込めた湯気と、シャンプーの香り。しばらくの時間を放心状態で過ごした後、俺はようやく『名無しが風呂に入っていた』事を理解した。どうやら俺は、入浴中の彼女がいる浴室に、突入してしまったようだ。

よく考えてみれば、脱衣所も風呂場も電気が付いていたし、ちらりと横目で確認した棚には名無しの着替えが用意されている。どうして気が付かなかったのか。自分が思っている以上に、体が疲れていたのだろうか。やってしまったと額に手を置いて、小さく溜息をつく。

正直なところ、今更名無しの裸を見たところで、こちらは何も思わないし感じることもない。昔は一人で風呂に入れないと駄々を捏ねるコイツを風呂に入れてやってたし、娘、妹のように可愛がってきた存在だ。幾つになったって、その認識は変わらない。だから、俺としては特に何か感じる事はない。ただ、向こうはどう思うか分からない。遠い昔、俺がコイツの下着を干そうとしただけで恥ずかしがったくらいだ。きっと女は、そう簡単に済ませられるような事でもないのだろう。

「…悪い、気付かなかった」

お互いにずっと沈黙を貫いていたが、俺はようやくその口を開いて、謝罪を言葉にした。決してわざとではない。名無しだって分かってくれる筈。それに、10以上も歳の離れた男女。オレからしたらコイツはまだまだ餓鬼だし、名無しからしたらオレはおじさんの部類に入る年代だ。今更裸を見たところで、何かある訳でも、

……ない……、はず、だ…。





「……ご、ごめんね……」





オドオドと、そう口にした名無しの顔は、真っ赤に染まっていた。明らかに分かる。その頬の赤らみは、決して逆上せた訳ではなくて、羞恥心から来たものだと言う事は、手に取るように分かった。オレから体を隠そうと、小さなタオルを必死に手繰り寄せて体を覆い、横を向く。初々しい反応を見せる名無しが新鮮で、オレはまたそこで思考を停止させていた。予想していたリアクションと180度違う反応を見せた彼女に、こちらも動揺を隠せない。

だってコイツの反応は、まさに……、男に体を見られたときの、それだ。


「す、すぐに出て行く」


何故だろう。先程まで全くもって何も感じていなかったというのに、オレは今すぐにでもここを出なければという使命に駆られていた。持ってきた着替えを乱暴に掴んで、慌ただしくその場に背を向ける。脱衣所の扉に手を掛けて、そこから出ようとしたオレを止めたのは、細くて白い、華奢な腕。背後からオレの腹部に回されたその腕が引き留めていた。

「オビト」
「なにを、」
「私、もう子供じゃないよ」

背中にぴったりとくっ付けられた、2つの柔らかな何か。女性だけが持つそれであることは、見なくたって分かる。今まで一切意識してなかったが、ここまで態とらしく引っ付かれたら、嫌でも神経がそこに向く。一緒に風呂に入ってたあの頃よりも、随分と大人になった。心も、……体も。

「離せ、名無し」
「オビト…」
「一体どうした、お前らしくない」

込み上げる邪な感情に、気付かないフリをした。いつもの調子で、後ろにいる名無しに声を掛ける。腰に回る腕をやんわりと解くと、名無しは逃がさないと言わんばかりにオレの腕を掴んで。

「い、一緒に……」
「名無し、」
「一緒に、お風呂入ろ、オビト」

効果音を付けるとするならば、パーン、と何かが破裂するような音。頭の中で、色々なことが吹き飛んで、オレは文字通り、頭が真っ白になった。違う、コイツは、オレにとってはたった一人の家族のような存在で、決して、オレは、オレ…は…、

「名無し、オレは、」
「オビト……」

振り向いて、その細い肩を掴む。はらりと落ちる、名無しの体を隠していたタオル。惜し気もなく晒された彼女の体は、紛れもない女の体だった。それを視界の片隅で認識しながら、コイツの揺れる瞳をまっすぐ見下ろした。ごくり、と喉が鳴る。違う。何をしているんだオレは。早く、早くここから出なければ。オレからしたらまだガキ臭い女に、いい歳したオレが。

「……う。…がう」
「え?」
「…違う。…違う違う違う違う」
「お、おびと…?」

言動と行動が全く伴っていないオレを、名無しは訝し気に見上げている。違う、と否定しながらも、肩を掴む手にはどんどん力が篭って、ぐっと体を密着させた。縮まる二人の距離に名無しの顔もより赤らいで、その目をそっと細めた。オレの真剣な表情を見て、接吻の合図だとでも思ったのだろうか。彼女はゆっくりとその瞳を閉じ、唇を差し出した。ぷるりと艶めく柔らかそうなそこに、オレは再びごくりと生唾を飲み込んで。

ずっと、可愛がってきた。両親がいなくても、寂しいと感じさせないように。オレなりに必死に育ててきたつもりだ。オレにとっては、たった一人の家族。妹のような、娘のような、そんな存在だった名無し。もっと言えば、ついさっきまでは、その認識でいた。…もはや過去形だ。今は、違う。目の前にいる彼女は、紛れも無く女で、そんなコイツの前に立っている今のオレは、紛れも無く男で。

キスを待つその顔に、ゆっくりと顔を近付けていく。浴室から漏れる湯気が、脱衣所にも充満して、まるでオレたちを隠すように包み込んでくる。濡れた髪、蒸気する頬、見れば見る程惹き込まれていく。里の子供たちに、『オビトおじさん!』と呼ばれる年齢になってしまったこのオレが、こんな小娘如きにかき乱されて、みっともなくがっついて、何をしているんだろう。しかし、もう抑えなど効かない。抗う事をやめたオレは、その欲望のままに唇を近付けて、後少しで重なる、そんな距離まで間を縮めた時だった。



「オビトー。晩御飯作りすぎちゃったんだけど、よかったら名無しと三人で、」


がらり、と開かれた扉。そこから顔を覗かせたのは、作りすぎたおかずが乗った大皿を持つ、カカシの姿。先程別れたばかりの彼が、突然家にやって来たのだった。別に今さら、『今から家に行ってもいい?』なんてわざわざ聞くような間柄ではない事は事実だが、如何せん今はタイミングが悪すぎた。ぴしりと固まるオレと名無し、ガタンと皿を落としておかずを溢すカカシ。目の前で起こっている光景に、普段は眠そうに細められた目がこれでもかという程に見開かれていて、カカシが受けた衝撃の大きさを物語っている。

「オビト、お前……!」
「ち、違う。待て、誤解だ」

わなわなと震えながらこちらを指さすカカシに詰め寄り、オレはその背に名無しの体を隠した。名無しも名無しで、全身真っ赤にさせながら己の体を抱き、オレたちに背を向ける。小さな肩がか細く震え、何かをぐっと堪えているようにも見える。彼女のオーラが背後で一変している事に気付いたオレとカカシは、嫌な予感に顔を引き攣らせつつ、ゆっくりと振り返る。視線の先には、キッと目を鋭くさせた名無しが在ろうことか小さな戸棚を持ち上げている。

「お、おい、名無し、」
「ちょっと待って!名無し、」
「…早く出てって、この変態オヤジ!!!!」


がしゃーんと派手な音をたてて、宙を舞った戸棚は、見事にオレたちの頭上に降り注ぎ。その数分後、夜風吹く縁側にて、体中傷だらけになったオレとカカシが、胡坐をかいて納得いかなさそうに頬杖をついていた。


「…お前、ロリコンだったの」
「違う!」
「犯罪だよ」
「だから違うと言っているだろう!」
「そんなムキになるなよ、冗談だろ」
「笑えない冗談はよせ」
「…名無しも大人になったって事でしょ」
「…お前、何を思い浮かべながら言ってるんだそれ」

二人の頭の中には、いつまでもあの柔らかい膨らみが離れずにいた。




変わり始めた、二人の距離。