ものや思ふと

オビトの事件の翌日。オレはいつもと変わらぬ1日を過ごしていた。心地よい晴れ空が広がる、気持ちの良い日だ。少し外れた森で教え子達に修行を付けた後、里の方へと戻る最中。オレは偶然にも、見慣れた背中を見つけたのだった。

(名無し…)

誰かと談笑しているのか、ここまで会話は聞こえてこないが、彼女は明るい笑顔を零しながら楽しそうにしていた。今や名無しも、里のみんなに慕われる医療忍者の端くれ。こんなオレとオビトに育てられたというのに、随分立派に成長してくれたものだ。そりゃあ、楽な事ばかりでは無かったし、沢山悩み、沢山ぶつかった。しかし、終わり良ければ全て善しという言葉があるように、今名無しが元気に過ごしてくれているのなら、それで十分だ。

「おーい名無し、」

姿を見かけて、何も声を掛けないのもなと考えたオレは、間延びした声で右手を挙げようとした、瞬間だった。今いた位置からは、建物の陰に隠れて見えなかった名無しの話し相手が、そこへ近付くにつれて姿を現したのだ。

(……木の葉丸……)

そこにいたのは、昔はよくお色気の術でみんなを困らせていた、あの木の葉丸の姿だった。ヘラヘラと笑いながら後頭部を掻く彼も、今はすっかり上忍として、未来の忍者の卵たちの面倒を見ている。あれがあの木の葉丸なのかと疑う位には、彼も立派に成長し、そしてなかなかの良い男に進化を遂げた。そんな木の葉丸が今、名無しと楽しそうに会話をしているのだ。

「…………………」

挙げ掛けた右手を、そっと下ろす。別に何も隠れるような事はしていないが、さりげなく物陰に潜んで2人の姿を見つめた。何をしているんだオレは。別に放っておけばいいじゃないか。相手は木の葉丸。悪さするような奴じゃないし、オレが見張る必要はない。…なら何故、オレはこうして、コソコソとあの二人を盗み見ているのだろう。

名無しは、子供から大人に近付くにつれて、みるみる美しくなった。里の人たちが、「綺麗になったわねぇ」「別嬪さんだ」と微笑む位には、彼女は綺麗に成長していた。まあ中身はお転婆娘のまま、全く変わってはいないのだが。そのお陰で、名無しは昔から変な男に絡まれる傾向にあったのだ。本人の鈍感さも相まって、何度危険な目に遭いかけたか。その度にオレやオビトは血相を変えて、その場に駆け付ける。そうやってオレたちは、アイツをずっと守ってきた。まあ偶にサクラには、「そんなんだから名無しに良い人が出来ないんですよ!」なんて怒られたこともあったが。

「……ちっ」

自然と漏れた舌打ちに、自分自身が驚く。オレは何に対して苛立っている?別にこうして見ていても、名無しと木の葉丸の間に不穏な雰囲気は掴み取れない。木の葉丸が彼女に危害を加える事は、百パーセント無いと断言できる。それなのに。オレはこの場から動こうとしなければ、木の葉丸に対してよく分からない怒りすら感じていた。

アイツと歳の近い木の葉丸は、名無しの隣に立つと、まるで恋人のよう。仲睦まじく笑う姿がより手伝って、まるで理想の夫婦のようだ。カカシは、ふと視線を落としながら、自分が彼女の隣に立っている時の事を想像した。……兄と妹。きっと、周りの奴らにはそんな風に見えているだろう。いや、実際にオレと名無しはそういう関係なのだ。血の繋がりこそないが、まるで本物の兄妹のように。そうやってずっと共に生きてきた。兄妹のように見えるのなら、それ程嬉しいことは無いではないか。……なのに。

(…何なんだ一体………)

心の中に渦巻く、よく分からない黒い感情。兄妹として見られることが、歯痒い。木の葉丸の隣に立つアイツが女に見えて仕方がない。



「わっ、」
「名無しさん、大丈夫ですか」


突然、ぶわりと突風が吹いた。思わず髪を抑えて声を上げた名無しを、木の葉丸は心配そうに覗き込んでいる。びっくりしちゃった、と笑う名無しの姿を見つめながら、オレはそこからゆっくりと足を踏み出し、2人に近付いていった。その距離はどんどん縮まっていくが、お互いに夢中になっている彼女らは、全くこちらの存在に気付いていない。




「名無しさん、頭に葉っぱが」
「え、どこ?」
「ここ、」



今の突風で飛んできたであろう、小さな木の葉。それを取ろうとして、名無しの髪に手を伸ばした木の葉丸よりも前に、隣から現れたオレがその葉を取った。突然現れたオレの存在に、2人は目を大きくして驚いている。オレは努めて笑顔を浮かべながら、「付いてたよ」と名無しに葉っぱを差し出した。

「カカシ…!ありがとう」
「どういたしまして」

ぽんぽん、と優しく頭を撫でてやると、木の葉丸は何だか複雑そうな顔でオレの手を見つめていた。その表情を横目に見ながら、オレは心の中で鼻で笑った。木の葉丸が、名無しに対してどんな感情を抱いているのかなんて、その顔を見れば一目瞭然だ。やっぱり中に割って入って良かった。そう安堵して胸を撫で下ろした後に、ふと我に返る。




何に対しての、良かったなんだ?




別に木の葉丸は、名無しに危害を加えようとしていた訳ではない。名無しも楽しそうに話をしていたし、同じ里に住む男女、仲良く交流を深めていただけだ。それをわざわざ邪魔するように間に入って、見せつけるような事をして、オレは何をしているんだろう。自分自身の行動に動揺が広がっていく。まさか、そんな馬鹿な。とマスクの下で薄ら笑いを浮かべながら、突き刺さる木の葉丸の視線に気付かないフリをした。



オレだって、馬鹿じゃない。妻もいなければ、恋人と呼べるような存在もいないが、それでも、この感情が何なのかくらいは分かる。愛読書のイチャイチャタクティクスでも、何度も学ばせて貰ったものだ。しかしオレには、この気持ちを認める勇気がなかった。頭に浮かぶのは、まさか、とか、そんな筈は、とか、否定の言葉ばかり。自分で意地でも認めたくないという事が分かる。…いや、認めたくない、のではない。認めてはいけない、のだ。認めて自覚した瞬間、オレは我慢できなくなる。お前の一番近しい存在ではいられなくなる。


兄と妹という関係が壊れ、男と女になる。




「カカシ?」
「……!」
「どうしたの?黙り込んで」
「…いや……」

覗き込む無垢な瞳に、オレはぎこちなく視線を逸らした。昨日、オビトに『アイツの様子がおかしい』と相談され、確かに名無しに避けられている実感もあったものの、あの風呂場での一件以来、彼女も何か吹っ切れたのか、今日には通常運転に戻っている。言い淀むオレに訝しげな目を投げる名無しは、その隣に立っていた木の葉丸に肩を掴まれて。

「あの、名無しさん」
「え?」
「あの、良かったら今度、」

木の葉丸も木の葉丸で、オレの突然の登場に焦っているのだろうか。どこか切羽詰まった様な顔をして、振り向く名無しの顔を見つめていた。切り出された、良かったら今度、の言葉の続きは、恐らく逢瀬の誘い。そんなもの、同じ男ならすぐに分かる。分かっていないのは、多分目の前で首を捻っている名無しだけ。コイツの良き出会いになるかもしれない今この瞬間を、邪魔しちゃならないと思った数分前なんてすぐに吹き飛んで、オレは強引に名無しの腕を掴んだ。

「……行くよ、名無し」
「えっ、ちょっと…カカシ?」
「……6代目」

戸惑う名無しを連れてその場を去ろうとすると、背後からオレを呼び止める声が響いた。横目でちらりと視線を移すと、こちらを睨むようにして立つ木の葉丸。俺と木の葉丸の間に流れる微妙な空気に、名無しはただ狼狽えた表情を浮かべるだけで、彼女は一人だけ、この状況から置いてけぼりを喰らっていた。

「…貴方のそれは、家族としての心配なのですか」
「…………」
「それとも、違う理由ですか」

遠慮という言葉を知らないこの男は、ストレートに痛いところを突いてくる。だが、オレと木の葉丸の顔を交互に見つめる名無しの前で、下手なことは言えない。それに、自分自身まだ答えが見つかっていない段階でもあるのだ。曖昧な気持ちのまま返事をして、未だ訳が分かっていないコイツを混乱させたくない。オレは無言を貫き通し、再び名無しの腕を半ば引っ張るようにして歩き出した。離れていく木の葉丸の姿に、名無しが困惑した瞳を向けている。

「ねえ、カカシ。木の葉丸のこと、いいの?」
「…いいの」
「でも…、」
「いい」

何かを言い掛ける名無しの言葉を塞いで。オレは足早に自分の家へと向かっていく。名無しも来慣れた、昔から変わらない我が家。そこへ引っ張るようにコイツを連れ込んで、玄関を閉めるなり早々、突っ立っていた名無しの体をトンと軽く壁に押さえつけた。零れ落ちそうな程に丸く見開かれた瞳には、オレの顔が映し出されている。その瞳越しに自分の顔を確認した時、オレは確信した。今のオレは、名無しの保護者の顔ではない。家族の顔でもない。ただの…、嫉妬に駆られた男の顔をしていた。

「か、かかし…?」
「お前は昔から何も分かってないね」
「え…?」
「例えどんなに気の知れた男でも、油断しちゃいけないって何度も教えなかったっけ」

名無しが一時期夜遊びを覚えた頃、オレとオビトは毎日頭を悩ませ、何度も同じ説教をしていた事を思い出す。変な男に騙されて、そのまま悪い道に引きずり込まれないかと心配していたオレたちは、『どんな男にも気を許すな』と口を酸っぱくして言い聞かせてきたのだ。その台詞を、久々にコイツに聞かせていた。何を木の葉丸を相手に、オレはここまでムキになっているのかと思われるだろうか。別れ際、彼に『貴方のそれは保護者としての心配ですか』と問われたことが癪に障ったのか何なのか。自分でも気持ちの整理ができない。

「カカシ……」
「よく言うでしょ。男は狼だって。お前の隙を窺ってるのかもしれない」

もっと動揺しているのは、きっと今目の前でオレに押さえつけられている名無しだろう。別に彼女はただ、真昼間に偶然出会った木の葉丸と、世間話に花を咲かせていたに過ぎない。なのに、急に現れたオレに引っ張られ、男に油断するななどと言われて、名無しからしたら一体何を言っているんだと思うに違いない。昨日オレ自身がオビトに言った様に、名無しももう子供ではなくなった。男関係の事まで口を挟んでくるなんて、鬱陶しいと思われるかもしれない。コイツからしたら、オレはただの保護者代わりで、兄のような存在で、家族としか見ていないのだから。…それが、余計にオレを苛つかせる。




「カカシ、それは、」

目の前にある、女の震える唇が言葉を紡ぐ。





「それは、カカシにも言えること、じゃないの…?」
「え、」



うっすらと赤く染まった頬が、こちらに向けられている。じっとオレを見つめる瞳は揺らいでいて、目の前にいる名無しは、確実に女の顔をしていた。木の葉丸の時には見せていなかった、オレだけに向けられているその表情。吸い込まれそうな顔に見惚れながら、自惚れそうになる自分を落ち着かせて。至近距離にあるオレの視線から逃げるように、名無しは顔を逸らしていた。

(…なに…、なんで、そんな顔してんの)

オレは、お前にとって只の保護者じゃないのか。兄のような存在ではないのか。そう問い掛けたくなるような態度を見せる名無しに、今度はオレが翻弄されるばかりである。途端に、名無しの腕を掴んでいる手とか、密着するお互いの胸とか、コイツの股を割って入るオレの膝とか、とにかく名無しに触れている部分全てが熱くなっていく。認めたくないと押し込めていた気持ちが、ぶわりと浮かび上がって、マスクの下で熱い吐息が漏れた。

「…名無し」
「……っ」

背けられた顔のお陰で露わになる、目の前の可愛らしい耳にそっと問いかけてみる。優しく名前を呼んだだけで、このか細い体はびくりと大袈裟な程に震えていて、それすら愛おしく感じた。恐る恐るといった様子でこちらを向く名無しに顔を近付けていく。オレも、コイツも、子供じゃない。何をしようとしているのかなんて、わざわざ言葉にしなくても伝わっている。その証拠に、名無しは特に抵抗する様子も無く、ゆっくりと瞼を閉じてオレを待っていた。うっすらと開かれた唇には、化粧か何かが施されているのだろうか。美味しそうな色がより官能的にオレを誘う。

もう、いい。抗うのはやめた。全てが面倒臭い。認めて楽になってしまえばいい。

そう心の中で諦めて。オレは欲望のままに、名無しに手を出そうとしていた。幼い頃から、ずっと大切に育て、面倒を見てきたコイツに、オレは…、










「おい」






突然割って入ってきたのは、ここにはいない筈の声。そして、今までに嫌というほど聞いてきた、覚えのある声だった。


「……オビト」
「…………」

オビトが、そこに立っていて、オレと名無しをただじっと静かに見つめていた。すっかり目の前のことに夢中になっていて、オビトの気配に気付かなかった。男女が体を密着させているその光景は、端から見れば恋人同士がするそれにしか見えず、名無しは羞恥心からか慌ててオレの体を押し返した。初めて名無しが抵抗を見せた瞬間だった。


「お、オビト…!」
「帰るぞ名無し」

オビトは、特に何か深く聞いてくることもせず、ただ淡々とそう告げてこちらに背を向けた。戸惑う名無しがぎこちなく返事をした後、そのうちはのマークの背中を小走りで追いかける。隣に並ぶ二つの背中をぼんやりと見送るオレに、オビトはちらりと振り返って。



『…このロリコン』



口パクではあったが、確かに彼の唇はそう告げた。昨日オレが投げた言葉を、逆に投げ返されたのだ。否定する言葉も無くて、オレはただガシガシと後頭部を掻いた。はー、と深いため息の後、式台にどかっと腰を下ろして額に手を当てる。いい歳して、何をやっているんだオレは。


(…それにしても……、)


徐々に冷静になっていく頭で、先程の名無しの表情を思い浮かべていた。女の顔をしたアイツのことが、頭から離れない。そして、改めて実感した。自分の中に芽生えた、その想いに。




…もう、戻れない。