思ひつつ

キュッと蛇口をひねると、シャワーから出ていたお湯が止まって、ぽたぽたと髪から水滴が滴り落ちた。静まり返る浴室で、私は深く息を吸う。ここに来た時から心臓はずっと昂ったままで、頬が熱いのはきっと、お風呂の熱気のせいではない。何となく静かに開けた扉から顔を覗かせて、脱衣所を見渡して誰もいない事を確認してから、傍に用意してあったバスタオルを引っ掴んだ。

(わ…、私…オビトと……)

男を知りたい、という軽い気持ちでやってきた、歓楽街。そこで私は悪い男たちに引っかかり、一歩間違えれば無理矢理強姦される所であった。そこに偶然居合わせたのが、私を育てた親代わりの存在でもある、うちはオビト。彼も彼で、仕事の同僚たちに付き合ってお酒を飲んでいたらしく、絡まれている私を助けてくれたのだった。オビトの怒りは凄まじく、その場で人の目も気にせずに色々なことを言われた。危機感が足りないだとか、男を分かっていないだとか、こんなところに来るなとか、お前はまだ子供だとか。どれも、自分自身が一番分かっている。私はまだ子供で、幼稚で、どうしようもない女なのだろう。オビトの中で、私はいつまでもその枠から抜け出せない。これからどれだけ歳を取ろうと、どれだけ私が大人になろうと、オビトは永遠に、私を『女』としては見てくれないのだろう。

そう思うと、私の中にも途端に虚しさと怒りが込み上げてきて。完全なる八つ当たり。そんなことは分かっている。だから私は子供なんだと。でも、自分の気持ちを抑えられなかった。私の好きな人が、オビトじゃなかったらどんなに良かっただろう。彼を好きにならなければ、こんな思いをしなくても済んだのに。彼に子供扱いされても虚しさなんて感じなかったし、彼の前で無理をして背伸びをしようとも思わなかった筈だ。目の前で怒りを露わにするオビトに、私は勢いのままに思いの丈をぶちまけた。終いには、止まらなくなってオビトに対して「父親じゃない」なんて言葉もぶつけて。最低だ、と自己嫌悪に陥る私を、このラブホテルなる建物に連れ込んだのは、オビト自身。私を『父親』の目線で叱り付けた張本人。正直今も、この状況に頭の整理が追いついていない。

エレベーターに押し込められて、言われたあの言葉。


『俺とお前は只の男と女だ』
『お……びと……』
『なら、俺とお前がこんな場所で何をしてようと、何も問題は無いだろう?』



押さえ付けられた手は、とても熱くて、そして力強かった。ぐっと抵抗するべく私が力を込めても、全くびくともしない。…圧倒的な男の力を感じて、不覚にも私の胸が騒ぎだす。やっぱり、オビトも男なんだ。あの時目の前にいたオビトは、父親でも兄でもない。男として、私の前に立っていたのだ。そんなことは初めてで、結局私は抵抗することも忘れ、彼にこの部屋に引きずり込まれた。緊張して固まる私を他所に、オビトはどこか慣れた様子で中に入っていく。入り口で突っ立っている私に向かって、背中を向けたままぶっきらぼうに「風呂に入って来い」と告げると、部屋の奥から出してきたパジャマを私に差し出したのだ。

(私……このままオビトと……)

自分でそう心の中でつぶやいて、かああ、と頬を赤くする。さっきのあの見知らぬ男たちに連れ込まれそうになった時は、あれだけ嫌悪感を抱いていたのに、今は違う。オビトが向こうの部屋で待っていると思うと、思考がオーバーヒートしそうで、全身が熱くなるのだ。備え付けられた洗面台の前に立って、鏡に自分を映す。なんとなく体のチェックをして、よし、と頷いたところで、自分がこれからの事を期待してしまっている事に再び頭を抱える。だって、こんな所に連れ込んで、やる事なんて一つだよね…?オビトはきっと、こういう事を誰にでもやるような人じゃない。私ならいい、と思って、連れてきてくれたんだよね?期待して、いいんだよね?

込み上げてくる不安と疑問を、本人にぶつける勇気はまだない。こんな所に来る予定なんてなかったから、先程脱いだ下着をもう一度付け直して、オビトに渡されたパジャマを纏う。ラブホテルのパジャマなんて、どれだけスケベなものが用意されているのだろう、と緊張していたが、案外普通のパジャマだった。完全に偏見だが、来たことが無いのだから仕方がない。そうして、なかなかの長風呂を済ませた私は、そっと脱衣所の扉を開けたのである。


「……お、オビト……」


控え目な声で、彼の名を呼ぶと、こちらに背を向けてベッドに座っていたオビトが、びくりと肩を震わせた、ように見えた。あれ、さっきまで慣れているような雰囲気だったのに、気のせいだろうか。オビトはしばらく無言のままそこに座っていたが、やがて弾かれた様に立ち上がって、私の横を通り過ぎていった。「…入ってくる」とすれ違い様にそれだけ言い残して、私が先程までいた脱衣所へと姿を消す。私も緊張していてあまり顔は見られなかったが、オビトは今一体どんな気持ちで私のことを待っていたのだろう。パタンと閉められた脱衣所の扉をぼーっと見つめながら、私は再び、オビトに想いを馳せたのだった。

広々とした部屋に置かれた、大きなダブルベッド。先程オビトが座っていたそこに、そっと腰を下ろす。家にある小さな古いベッドとは違って、軋んだりしない。フカフカのマットレスが私の体重を受けて静かに沈んで、気持ちがいい。今寝転がったら、一瞬で寝られそうだ。ちょっとだけ…大丈夫寝ないから…、なんて呟きながら試しに体を横にしてみると、案の定、寝心地の良い柔らかさが全身を包み込んでくる。夢の世界へと誘われて、私は髪を乾かすことも忘れてウトウトとし始めていた。ダメ、寝ちゃ駄目…、そう考えれば考える程、瞼は重くなっていく。相手がお風呂に入っている間に寝落ちするなんて、一番やってはいけないことだ。

しかし。そんな私の必死の抵抗も虚しく。私は気付かぬ内に、ぐっすりと眠りに就いてしまっていたのだ。夢の中で、オビトと一緒に手を繋いで、綺麗な花畑を散歩する夢を見ながら。果たしてその夢の中の私は、家族としてオビトの隣に立っているのか。それとも……、









「ん………、」

目が覚めた時、私はしっかりと掛け布団に包まれて、枕に頭を乗せていた。見えるのは、見慣れない天井。ほんのりと付けられた照明が、薄暗く部屋を照らしている。しばらく寝惚け眼で辺りを見渡していたが、ようやく自分が置かれている状況を思い出して飛び起きた。…やってしまった。試しに、なんて言って体を横にした後、私はすっかり爆睡をかましてしまっていたのだ。オビトは、オビトはどこ、と急いで辺りを見回すと、彼はすぐ傍でベッドに腰かけて、手にある本に目を落としていた。ベッドが揺れて私が起きたことに気付いたのだろう。そっと振り返りながら、「起きたか」と低く掠れる声で問いかけてきた。

「お、オビト…!」
「ぐっすりだったな」
「ご、ごめん!私……」
「何を謝る必要がある。疲れているなら眠ればいい」

そっと撫でられた頭。そこで気付く。濡れたままだった筈の私の髪は丁寧に乾かされていて、きっとオビトがお風呂から上がった後、私の髪を乾かしてくれたのだろう。幼い頃、彼にそうしてもらった様に。

慌てて謝る私とは対照的に、オビトは柔らかい笑顔を浮かべていた。さっきここに私を連れてきたオビトとは違う。いつもの、優しくて面倒見のいいオビトに戻っている。その優しさを受けながら、私は顔に影を落とした。…まただ。結局私は、いつも肝心なところで大人になりきれない。すっかりそんな雰囲気など消えてしまって、これじゃあ家にいる時と同じである。手のかかる娘の面倒を見る父親。そんな構図が、すっかり復活してしまっていて。

…嫌だ。私は、オビトのことが大好きで、今まで育ててきてくれた事には感謝しているけれど。私は、オビトの娘になりたい訳じゃないし、妹になりたい訳でもない。優しく頭を撫でてくれるその手で、さっきみたいに強引に押し倒されたい。男を、知りたい。女と認識されたい。男として、オビトにはそこに居てほしい。だってここは、そういう事をする場所なんでしょう?家族で来たりするような場所ではないのでしょう?

「名無し?」

黙ったまま俯いてしまった私を、オビトが心配そうに覗き込んだ。その瞬間、私は、頭の上に乗る彼の手を掴んで、するすると自分の胸元へと導いた。ぎょっとするオビトの顔を、ゆっくりと見つめる。私に引っ張られるがままに、オビトの手が私の左胸を掴む。どくどくと高鳴っている心臓が、きっと彼にも伝わっている筈だ。もう後戻りはできない。いや、するつもりはない。ここまで連れてきたのは、オビトだ。今更逃げるだなんてそんな事、させない。私を期待させた責任は、しっかりと取って貰わなくてはならない。

「お、おい、」
「オビト。…しよ?」
「は…、」
「だってここは、そういうところなんでしょう…?」

自分から誘っている癖に、声が震える。きっと私の今の顔は、情けない事に泣きそうに歪められているのだろう。恥ずかしくない訳がない。女の私から誘うことは、どれだけ勇気のいることか。でも、きっと私が殻を破らなければ、この関係は打開できない。きっと、ずっとこのまま…。そんなの嫌だ。だって、私は、オビトのことが好きなのだから。家族としての愛ではない。男性として…、愛してしまったのだから。

「名無し、落ち着け、オレは…」
「今さら逃げるなんて卑怯だよオビト。ここに連れてきた時のオビトは、そういうことを考えてた筈でしょう?私だってそこまで子供じゃないよ…」
「…………」
「親子で、こんなところ…来たりしないでしょ…。オビトだってさっき言ってたじゃない…。オビトと私は、男と女…。こういうところに来たって別に何も変じゃないって…」

ここまでしても、相変わらず踏ん切りのつかないオビトがじれったい。彼の首に腕を回して、私はぎゅう、と力の限りオビトの体に抱き付いた。同じシャンプーの匂い。逞しい彼の体が、私の体に密着する。ほら、こんなにも私たちは違う。紛れも無く、男と女。ここにいる私たちは、いつもの親子のような二人ではなく、一夜を共にする男と女なのだ。家にいるのとは違う。一緒に寝ていた、あの幼き頃とは違う。

「私、いいよ…。オビトなら…」
「…………」
「…オビトと、エッチしたい」

そう口にした瞬間、私の体は勢いよく後ろへ押し倒された。弾むマットに沈む体の上に、覆い被さる影。オビトが、私の上にいる。その表情は、先程の優しい顔じゃなくて、ここに私を連れ込んだ時の男の顔。覚悟を決めた、そんな表情をしていた。

「…お…びと……」
「本当にいいんだな」
「…うん……」
「もう戻れないぞ」
「うん…」



好き、オビト。そう告げると、オビトは荒々しく私の唇を塞いだ。重なる吐息、交わる熱。食らいつくような口付けを受けて、私がたどたどしく口を開くと、その瞬間を待ってましたと言わんばかりにオビトの舌が中に入ってくる。熱く絡まる舌は痺れる程甘くて、交わる唾液に蕩けそうになる。キスって、こんなに大人で甘くて心地よいものなんだ。漫画や小説で見るよりも、ずっときらきらしてて、甘くて、厭らしくて…。ぎゅう、としがみつくようにオビトの背中に手を回すと、より彼の接吻が深くなった。

「んっ……、ふ…ぅ…、んんっ…、」
「は…ぁ…、」

聞こえるのは、私とオビトの吐息だけ。まるで世界に二人だけしかいないよう。角度を変える度に、二人の足が絡み合ってシーツに皺を作る。握りしめたお互いの手が、枕の横で固く結ばれて、もう二度と離れられないように強く握りしめた。好き、好き、好き。重なれば重なる程、オビトへの想いが強くなっていく。全身が彼の大好きな匂いに包まれて、私の体はもっともっとと欲を張る。…止められない。まるで麻薬のようなこの行為に嵌りそうになっていく。

何度口付けを交わしたか分からない程にそれを繰り返した後、ようやくオビトの唇が私から離れた。唾液で濡れた唇を舌で舐める姿が目に毒だ。乱れた呼吸を繰り返したまま、ぼんやりと彼の顔を見上げると、私のその表情を見てオビトはぐっと口を噤んで何かを堪えているような表情を浮かべていた。心無しか、オビトの顔もうっすらと上気しているように見える。私に、興奮してくれているのかな。だとしたら、それ程嬉しいことはない。だってそれは、私のことを女として意識してくれているという証なのだから。その瞬間、私は改めて、オビトとキスを交わしたことを実感して、不意にもじわりと目に涙が浮かんだ。泣きそうになるのを隠すように、私が慌てて手で顔を覆うと、たちまちオビトはおどおどと狼狽しながら私を心配した。いい歳したおじさんが、小娘一人にたじろぐなど、何とも情けない話である。

「や、やっぱり嫌だったか、」
「違うの」
「なら一体、」
「…幸せ過ぎて」
「え…、」
「幸せ過ぎて、どうかなっちゃいそう…」

固まるオビトを前に、私は顔を覆っていた手をゆっくりと退ける。現れる、蕩けそうな顔をオビトに見せて、私は胸の内を正直に打ち明けた。みるみる目を見開くオビトは、ただ静かに、私のその言葉を聞き入れて。



「オビトのことが好き過ぎて、おかしくなっちゃいそう…」
「……………」





しばらくの間の後、ぽたり、と垂れた赤い血。私の顔にそれが落ちてきて、ぎょっとして彼を見上げた。オビトの鼻から、血が出ているのだ。このタイミングでなんで鼻血!?と慌てふためく私を他所に、オビトの体はぐらりと力無く傾いて、そのまま私の上に倒れ込んできた。オビト!?オビト!と何度も名前を呼んでも応答がない。何とか彼の下から抜け出して顔を覗き込んでみると、すっかり目を回した彼が、そこにバタンキューしてしまっていた。…有り得ない。ここまでして、お預けだなんて。あれだけ私を期待させておいて気絶するなんて許せない。必死に体を揺り動かして彼を起こそうと試みたものの、結局それ以降、オビトが目を覚ますことは無く。う〜ん…と熱に魘されるオビトを看病する羽目になり、翌朝私たちは、キス止まりでラブホテルを後にすることとなったのだ。


残念なような、でもちょっとホッとしたような。二人で歩く朝日が差す道は、いつもとは少しだけ違う。何も言わずに握りしめたオビトの手は、そっと私の手を握り返してくれた。ちらりと盗み見た彼の横顔。耳がほんのり赤くなっている。それだけでも、今は嬉しくて仕方がない。



ねえオビト。私のこと、女として見てくれる?