寝ればや人の

「家に居づらい?」

オレの問い掛けに、目の前で小さくなりながら座る名無しは、こくんと静かに頷いた。家に泊めて、なんて、昔はよくそうやって押しかけられたものだが、最近はほぼ無くなっていた。名無しも精神的に大人になって、オビトと大喧嘩して家を飛び出してくるなんて事も、すっかり無くなったからだ。大きなバックに詰め込んだお泊りセットを抱えながら、机の向こうで正座する彼女を、頬杖をつきながら見守る。泊めるのは一向に構わないが、一体何があったのだろうか。

「何、オビトと喧嘩でもしたの」
「………ううん」

小さく、消え入りそうな声で否定した名無しの顔は、真っ赤に染まっている。オレの家に来る理由なんて、それしか無いと思っていたのだが、だとしたら何なのだろうか。益々分からない。何か言いにくそうに、ごもごもと口籠る彼女の顔を、ただジッと見つめる。何かを説明しようとしているのは伝わってくる。ただそれを、上手く言葉に乗せられないようだ。名無し自身、頭が混乱しているのかもしれない。オレは急かすことなく、ただジッと待ち続けた。名無しのタイミングで話してくれる事を、のんびりと待っていた。

「…………したの」
「ん?」
「………キス、したの」
「え?」
「キスしたの!」

待ち続けた後、聞かされたその単語は、予想を遥かに上回る言葉だった。キス?キスって、あのキス?魚の方じゃなくて、口と口をくっつけ合う、あの?目を白黒させながらそんな事を言う俺に、名無しは半ばヤケクソになりながら、「チューのことだよ!」と叫んでいた。そうか、そうか遂に…遂にこの子にも、そういう相手が出来たのか。いつかは来るかもしれないと分かってはいたが、でもやはりこうして報告されると、ズキズキと心が痛んだ。これは、自分の元から離れていく事に寂しいと感じているのか。それとも、もっと別の…。

「なに、彼氏ができたの」
「か…かれし、では…ないと思う……まだ……」
「え、彼氏じゃないのにチューしたの」
「う、うん……。私は、好きだけど向こうがどう思ってるのか…結局よく分からないままで…」

俺からしたら、恋人でない人とキスができるという心境が理解できなかった。共感してあげられないのは、俺に碌な恋愛経験が無いからなのか、それともおじさんだからなのか。最近の若い子はかなりませているし、昔よりもずっとずっと大人びている子が多い。恋人という関係でなくとも、そういう事が出来るのは最早当たり前なのかもしれない。しかし、俺にはどうも納得できなかった。それは、目の前で今俺に相談を持ちかけているこの子が、幼い頃からずっと面倒を見続けてきた、大切な人だからだ。変な男に引っかかってしまったというなら、全力で取り戻さなければならない。余計なお節介だと怒られたとしても、俺はそう簡単に、そこら辺の男に名無しを渡す事は出来ない。頭の中にふと浮かんだ、先日の木の葉丸の姿をかき消した。名無しは自覚が無いかもしれないが、明るくて人当たりのいい彼女は、色んな人から好かれている。その好きがどんな形であれ、彼女はすっかり木の葉の人気者として成長したのだ。

「相手は誰」
「………………」
「俺には言えない人?」
「そ、それは………」
「悪いけど、俺やオビトに紹介出来ない様な奴なら、賛成はできないよ」
「………………オビト」
「オビト?オビトがどうしたの」
「だから、オビト」
「え?」
「オビトとキスしたの!」

再び訪れる静寂。頭を鈍器で殴られたような感覚に、俺は何も言えなくなった。は?という息の漏れる声しか出ない。…オビト?あの、オビト?俺と一緒に、コイツを育ててきたオビト?何度も確認するように、頭の中で名無しの言葉を反芻する。だがどれだけ考えても、俺が知るオビトは、あのうちはオビト以外思い当たらない。当然だ、オビトという名を持つ男は、アイツしかいない。動揺する自分をひた隠しながら、俺はやっとの思いで口を開く。喉が異様に乾いて、指先が震えているような気がした。

「…………それは、同意の元なの」
「う…うん……。私、ずっと側に居過ぎて気付かなかったけど…、オビトの事が……」
「………そうか」

まだ、見知らぬ男の方が良かった。その方が、そう簡単には納得できないとは思うが、それでも自分の中で整理を付ける事ができた筈だ。まさか…、まさかあの、オビトに掻っ攫われるなんて。しかも、名無しにとっては親同然の存在では無かったのか。オビトがそうなれたのなら、俺にだって可能性は…。

「カカシ」

状況について行けず、柄にも無く狼狽えて黙り込む俺を、名無しが呼んだ。ゆっくりと顔を上げて彼女を見ると、何故か熱に浮かされたような顔でこちらを見ている。その顔に視線を奪われる俺は、今どんな表情を浮かべているのだろう。いい歳したおっさんだっていうのに、こんな小娘1人に狼狽えて、振り回されて。こんな俺を教え子たちが見たものなら、きっと一生ネタにされて馬鹿にされるのではないだろうか。

「……ごめん、ちょっとビックリしちゃって。そっか、オビトとね。まあ、親子みたいな関係ではあったけど、血が繋がってる訳じゃないし、いいんじゃない?オビトなら安心して任せられるよ」
「カカシ」
「何だ、それでオビトと気まずくなって、俺のところに逃げてきた訳ね。全く…、巻き込まれる俺の気持ちにもなって欲しいもんだな。お互い子供じゃあるまいし、」
「カカシってば!」

まるで現実逃避をするかの様に、一方的に言葉を並べる俺を、名無しは再び呼び止めた。ぐっと黙り込んだ俺を、名無しは真っ直ぐ見つめている。…やめろ、見るな、見ないでくれ。今の俺は、きっと情けない顔をしているから。大事な人の幸せを、素直に喜べないなんて、最低すぎる。必死にいい大人であろうと、コイツの良き理解者であろうとする俺の、心の奥底に眠っているその感情を、見透かすようなその目が、とても耐えられない。

「…ねぇ、カカシ」
「……………」
「……私ね、オビトとカカシのこと、ずっとずっと大好きだった」

そんなの、言われなくてもちゃんと伝わってる。コイツが、こんな俺たちのことを、親代わりとして、兄貴分として、ずっと慕ってくれていたことは分かっている。けど、厳密に言えば、俺に対する『好き』と、オビトに対する『好き』は違った訳だ。……違ったのだと、思っていた。名無しの言葉を聞くまでは。

「私、カカシの事も、好きなの」
「………それは、恋愛的な意味じゃないだろ。お前が好きなのは、」
「オビトも、確かに好きで…。でも、分からないの」
「分からない…?」
「どっちの好きが、その好きなのか…。まだ、分からないの」

跳ねる心臓。上がる呼吸。それ以上言われたら、俺はきっと、戻れなくなる。名無しは、自分で今何を言っているのか、しっかり理解した上で言葉を口にしているのだろうか。期待しそうになる自分自身を抑え込んで、でも早く、早くとその言葉の続きを待ち侘びる。もし、まだ可能性があるのなら。俺にも、チャンスがあるのなら。

「オビトのことも好きだけど、カカシのことも、好き…」
「……それは、俺ともキスできるってこと?」
「わ……、分かんない……。だから、カカシ………」




確かめて。




震える声音は、今までずっと保ち続けてきた理性を呆気なく奪っていった。机を挟んで向かいに座っていた体を、少しだけ起こして身を乗り出す。たったそれだけでも、名無しは緊張するようにびくりと肩を震わせていた。真っ赤になった顔を見下ろして、俺はその髪に触れる。今まで何度も触ったことがある、柔らかな髪。だけど、今までとは思いも手つきも違う。目が離せない妹のような認識で触れているのではない。1人の女として、俺は今、名無しに触れている。

「………いいの」
「う……ん…………」
「もう戻れないよ」
「………同じだ」
「え?」
「オビトと同じこと言ってる、カカシ」

その瞬間、俺は自分の口元を覆う布をずらして、名無しの腕を掴んだ。ぐいと引っ張ると、彼女の体は呆気なく机の上に乗り上げる。確認はした。最後の逃げ道も与えた。それでもコイツは、俺を受け入れた。ならばもう遠慮はしない。それほど俺も出来た大人じゃない。何もせぬままオビトに奪われるくらいなら。素直にこの気持ちを認めて、大人失格になろう。

「…今は俺の前でオビトの話をしないで」
「か…かし………、」
「腹が立つ」

掴んだままの腕を引っ張って、寝室に連れ込む。ベッドに投げた名無しの体が、マットのスプリングによって跳ねた。その上に覆い被さった後、何かを言われる前に再び唇を塞いで。今だけは、彼女の口から他の男の名前を聞きたくない。例えそれがオビトであっても。どうしてもっと早く、素直にこの気持ちを認めなかったんだろう。オビトよりも先に、この関係を壊す勇気を出せなかったんだろう。次々と浮かび上がる後悔を打ち消すように、夢中で名無しの唇を貪る。大人の余裕なんて知るものか。今はただ、目の前の一人の女を、自分のものにしたかった。

「…オビトとはどんなキスしたの」
「……さっきはオビトの話するなって言った癖に」
「そうだった」

首に回る腕は、俺を拒んではいない。それをいいことに、何度も何度も確かめるように唇を重ねて。生々しく音をたてて交わる唾液は、何故か甘い味がする。息をする暇もない程に深く、他の事なんて考えられない程に激しく。俺より先にコイツに口付けた、オビトの感触をかき消すかのように。それは最早、嫉妬以外の何物でもない。

「はっ…、あ…!か、かし待っ……!」
「ん……、」

背中を掴む、小さな手にすら、気付かない振りをした。今になって分かる。好きな人は大切にしたいなんて、綺麗事なんだと。好きであればあるほど、欲しくて堪らない。強引に引き寄せたくなる。自分の想いが溢れて止められない。大切にするなんて余裕は、どこにもない。こんな俺を見て、名無しは幻滅するだろうか。いつでも余裕があって、大人で、優しい。お前の中にいる俺は、きっと今の俺と真逆だ。

「はっ、かかし…、いいよ……」

口を離した僅かな間を狙って、名無しは途切れ途切れに言葉を紡いだ。その言葉は、俺の心の中を見透かしているようだった。

「…全部受け止めるから、いいよ」
「名無し……」
「どんなカカシも、好きだから」



ああ、俺は、こんなにも名無しが好きだったんだ。俺が自覚するよりもずっと前から、俺は名無しのことを、一人の女として見ていたんだ。そして知らない間に、コイツはすっかり大人に成長していた。女になっていた。


俺と名無しは、ずっとベッドの上で重なっていた。お互いが飽きるまで、永遠に唇を重ね合わせた。感覚が無くなって、ドロドロに溶け合うまで。日が暮れて、部屋が真っ暗になるまで、ずっと、ずっと。






「…オビト、怒るかな」

どれくらいの時間、お互いに求めあっていただろうか。すっかり夜も更けた頃、俺と名無しは電気の付いたリビングで、お互いにカップラーメンを啜っていた。ぽつりと不安げに漏らした言葉は、俺の意識を夕ご飯からそっちへと向けさせる。名無しの気持ちは、まだ俺とオビトの間で揺れ動いている。いわば今は、どっちのことが好きなのかを見定めている期間だ。俺はそれを受け入れた上で、キスを交わした。名無しの気持ちは尊重するつもりだし、すぐに答えを出せとも言わない。だがオビト側は、それをどう受け止めるのだろうか。

「オビトは知らないの」
「うん、言ってない…。今日も適当なこと言って出てきちゃったし」
「…言ってもいい?」
「…う…、か、カカシが、言う?」
「名無しがいいなら。俺から言うよ」

オビトに黙っているのは、何だかフェアじゃないような気がして。でも確かに、言いにくいという名無しの気持ちも分かる。単純に、反応が怖いのもあるのだろう。『オビトも好きだけどカカシも好き』なんて言ったら、他の人だったら、『堂々と二股宣言か』と思うだろうし、そんな都合のいい話があるかと突っぱねられるのが普通だ。だけど、俺たちはそもそもスタートが違う。名無しにとっての男性は、幼い頃から俺とオビトしかいなくて、恋はおろか、男性という生き物が一体どういうものなのかすら、分かっているかどうか怪しい。親子のような、兄妹のような関係で何十年もやってきた俺たちは、言ってしまえば恋人よりも近い距離で、ずっと名無しのことを見続けてきた。今更『オビトもカカシも』なんて言われたところで、今までの生活の何かが変わる訳ではなかった。

「名無し自身の為にも、いつかは答えを出さなきゃいけないだろうけど、少なくとも俺は何とも思わないよ。ただこれからは、妹じゃなくて女として扱うだけだし」
「お…、おんな……」
「え、なに。嫌なの」
「い、嫌とかじゃないけど!カカシの口から、女って単語が出てくるの…聞き慣れ無くて」
「なにそれ。…名無しのこと、ちゃんと女として見てるよ」
「や、やめてよ!面白がってるでしょ!」

真っ赤な顔をしてカップラーメンを啜る目の前の彼女は、普段のあどけない彼女に戻っていた。先程まで熱を共にしていた名無しは、あんなに大人っぽくて妖艶だったのに。女性というのは、いくつもの顔を持っていて、いつだって男はそれに翻弄される。男性は弄ばれて、少し振り回されるくらいの方が丁度いいのだと、カカシはその顔を見つめながら表情を綻ばせていた。

「…名無し」
「んー?」
「好きだよ」
「ぶっ!!!」

口に入れたものを勢いよく噴き出した彼女に、クックッと喉を鳴らす。だってもう戻れないんだ。何も躊躇うことなど無くなったんだ。大人を本気にさせるとどれだけ怖いか、これから名無しには身をもって知ってもらわなくてはならない。男性を知らない無垢な彼女に、色々な事を教えていかなければならない。

「狡いなあ、カカシもオビトも…」
「狡いって、何が」
「急に男の人になるんだもん。狡いよ」
「そりゃ好きな子を目の前にしたら、誰だって男になるでしょうよ」
「ほら!そういうところ!」
「えー、なにが。どういうところ?」
「もー!」



2人のカップラーメンは、少し麺が伸びていた。