鬼家活計

「しのぶ!!」

勢い良く開けた扉の向こうでは、今日も変わらず穏やかな笑みを称える可憐な女性がいた。蟲柱、胡蝶しのぶ、その人である。朝早くから突然やってきた私を、しのぶはあらあらと出迎える。

「どうしたんですか?そんなに慌てて。名無しが昨晩採った血は、先程錆兎さんから受け取りましたよ」

彼女の手の平の中で、細い容器に入った赤い液体が揺れている。昨晩、錆兎に採血してもらった時のものだ。彼はちゃんとそれをしのぶに届けてくれたらしい。良かった、これで薬が出来る…と安堵したのも束の間。私がここを訪れたのは、その事を確認する為ではない。

「しのぶ、」
「とてもいい色をしてますね。きっと良質な薬が作れます。昨晩の錆兎さんとの採血は、随分と捗ったのでしょうね」
「え!?」
「まあ肝心の錆兎さんは、それはもう不機嫌そうな顔でこの血を持ってきましたけれど」

錆兎も結局は了承してくれたものの、この行為を全面的に肯定してくれている訳ではないのだ。しのぶに私の血を渡す時の錆兎の顔が、手に取るように分かって苦笑しつつも、漸く本題に入る。

「それよりしのぶ。聞きたいことがあるの」
「何でしょう?」
「私の薬を使った隊士が、稽古を疎かにして薬に依存してるというのは本当なの?」
「あら………。随分とお口が軽いようですね、錆兎さんは」

その反応からして、どうやら本当の様だった。危機的状況を逆転する為、そして少しでも隊士の命を救い、人々を守る為…。この薬を作り始めたのは、そういう目的の為だ。しかし、隊士がこの薬に依存してしまう事は、決して良いことではない。薬は常に配れる訳ではないし、そんなに多用していいものでもない。

「貴女が気にする必要はありませんよ。私の人選が悪かったのです」
「でも………」
「前にも言った様に、この薬はかなり強力な反面、大きな危険も伴います。薬を使って鬼の頸を取っても、無茶が祟って後遺症が残り、結果的に鬼殺隊を去ることにもなりかねません。これは、人間の限界を無理矢理超える薬…。言い換えれば……、そうですね、」



一時的に鬼になれる薬、とでも言いましょうか。



遠くを見つめながら言うしのぶの横顔を、私はただ無言で見つめていた。人間のまま、鬼のような力を得る薬。そう言い換えると、何だかこの薬が、とても恐ろしいもののような気がしてきた。


「配給対象の隊士をより厳選することにします。精神的に自立し、明確な志を持った隊士にのみ、薬を支給することにしましょう。そういった者にしか、これは使いこなせないと思います。悪い影響が出ているのは、単にその隊士がまだ未熟だからですよ」
「そう……なのかな…」
「そうなんです。だから貴女も、矢鱈と隊士に血を与えてはなりませんよ。それは優しさではありません」
「……錆兎から聞いたの?」
「はい。隊士に襲われそうになったのに、強い抵抗も見せず血を分けようとしていたと」
「口が軽いわね錆兎………」

思い詰めた表情を浮かべる私に、しのぶは何かを言おうとして、やめた。鬼殺隊の為にと始めた事が裏目に出れば、誰だって落ち込むだろう。気の利いた言葉1つでも掛けてやれればいいのだが、しのぶにはその言葉が思い当たらなかった。もう薬を作るのはやめましょう、と言えたら良かったのに。この薬が画期的なもので、もしかしたら鬼を消し去るのに大きな役割を果たすかもしれないと思うと…。その可能性を潰すのは、鬼殺隊にとって大きな損失になる。友人として、仲間としてならば、1番に「もうやめよう」と言えるし、言いたいのに。こんな時でも、鬼のこと、これから続く戦いのこと、そしてしのぶ自身が成し遂げたい復讐の事を考えてしまう。それに、今更やめようと言われたって、誰よりも私自身が納得する筈がない。


悩んだしのぶは、その末に突然ぱちんと手を叩いた。まるで空気を変える、この話を強制的に終了させるように、気味の良い音を響かせて。話題を別の方向へと転換させた。


「ところで名無し。柱の皆さんとの同衾は、いつもどの様に行っているのですか?」
「え!?な、何でそんな事聞くの!?」
「いえ、特に深い意味はありませんよ。ただ、翌日に貴女の血を持ってくる柱の皆さんが、どこかやつれた様な顔をしているんです。とても疲れているような、不完全燃焼で自分の力を持て余しているような…」
「………………」

……心当たりがあり過ぎる。私の採血担当になった柱が、どうしてそんな状態で血を持ってくるのか。言うなれば、彼らは「目の前に餌があるのに永遠に待てをさせられる犬」状態だからである。

これまでに、宇髄と煉獄、錆兎に血を採って貰った。しかし3人とも口付け止まりで、その先へは一切進んでいない。

彼らは、私が少しでも嫌だと言えば、決してその先の行為を進めようとはしなかった。男性は、そういった欲に抗うのはとても大変なことだと何かで聞いたことがある。でもみんなは、ただひたすらに我慢し、そして私を思いやってくれていた。勿論申し訳ないという気持ちはある。お礼になるのかは分からないが、私が相手になることで少しでも彼らがスッキリするのなら……と思うこともあるのだが、やはりそこから先に進むのは、まだ怖い。私にとっては未知の世界だから、どうなってしまうのか…。


「……その顔を見て確信しました。どうやら同衾はまだ一度もされてない様ですね」
「わ、わたし、今どんな顔してる?」

ぱか、と手鏡を私に向けたしのぶ。そこに映るのは、湯気が出そうな程に真っ赤になった私。ああ、今ならまた血が採れそうだ。昨日採ったばかりだから、今日はもう採血できないけれど。もじもじとしのぶの向かいの椅子に座って、指をつんつんと突き合わせる。


「あ、あのね、しのぶ…」
「はい」
「み、みんなと、その…接吻をしてから…」
「接吻までは済ませたのですね」
「顔を合わせると、どうしてもその時の事を思い出してしまって……」




ある日は、たまたま本部で煉獄と鉢合わせした時。曲がり角から突然現れた煉獄に、勢いよくぶつかってしまった時の事だ。相手は鍛えに鍛えた、逞しい体を持った柱。煉獄はビクともしなかったが、私の体は安定を失ってぐらりと後ろに傾いた。

倒れる、とその衝撃を覚悟して目を閉じていたが、咄嗟に背中に回った腕に支えられ、そのままグイと力強く引き寄せられた。驚いて見開いた眼前に広がるのは、真っ黒な隊服に包まれた胸板。恐る恐る顔を上げれば、私を見下ろす大きな目。

「すまない!俺の不注意だ!怪我はないか!」
「れ、れんごく………」


彼の周りに見える、キラキラ輝いてる何か。何だろう、これ。こうして傍にいるだけで、胸が高鳴り血が騒ぐ。ああ、あの唇…。私、この人に口付けされたんだ。あの時は任務中で切羽詰まっていたっていうのもあったけど、情熱的で荒々しくて、でもどこか優しい、そんな接吻が………、








「…………名無し」
「……」
「……随分と顔が近いのだが」
「あ………」




煉獄の気まずそうな咳払いによって、私はようやく意識を彼方から取り戻した。無意識のうちに、私は煉獄に吸い寄せられる様に顔を近づけて、まるで接吻の手前まで迫っていたのだ。

状況を理解した私は、真っ赤な顔のまま慌てて彼から離れた。ごめんなさいも碌に言う余裕がなく、そのまま嵐のように走り去っていく。余裕の無さそうな表情でぽつりと呟く煉獄を、一人残して。

「……………危なかった…」







またある時は、宇髄と出くわした時。初めて宇髄と同衾するとなったあの日から、私は彼を徹底的に避けていた。あの夜の事を意識し過ぎて、どう接していいか分からなくなったからだ。当然、宇髄も私に避けられている事には気が付いていた。何故避けられているかという理由までは分からないようだったが、面白く無さそうに私の事を追い掛けてくる。


「俺の事をド派手に避けるとは、いい度胸してるじゃねぇか」
「な、な、なんの事」
「とぼけんなコラ!」


早足で逃げる私と、それを追いかける宇髄。しかしそんな鬼ごっこも、痺れを切らした宇髄によって早々に決着が付く。彼の手が私の腕を捕らえ、あっという間に壁に押さえつけられたのだ。背中から伝わる冷たい無機質、前には目を合わす事すら出来ない音柱。逃げ道は完全に失った。私のそんな気持ちなど知らずに、音柱は怒りをぶつけてくる。

「さて、聞かせてもらおうか」
「う…………」
「俺をあからさまに避けやがって…。一体どういうつも、り……だ………」

怒りに染まっていた宇髄の表情は、みるみる驚きへと変わっていき、その語気にも威勢が無くなった。壁との間に閉じ込めた私が、真っ赤な顔のままストンと腰を抜かしたからだ。ああ、もう嫌だ。こんな近くで声を聞いたら、嫌でもあの夜の事を思い出してしまう。無意識に、震える指先が己の唇をなぞった。……欲しい、あの時の熱が。体が疼く。

「お前………」
「あっ……、み、みないで」

流石の宇髄も、もう全てを察した様だった。心なしか、彼が吐く息にも熱が篭っているように感じる。

床に座り込む私と、目線を合わせるように屈んだ宇髄は、壁に肘を付けてより私に顔を近付けた。あ…、口吸い……するつもりだ。彼の綺麗な目は妖艶に伏せられて、二人の間に漂う空気も怪しいものになる。このままじゃ、我慢できなくなる。あの時の熱い接吻を……、もう一度…………、








「だ、だめー!!!!」
「ぶっ!」


ばちーん、と響く乾いた音。人を打つなんて初めての経験だったけど、綺麗に宇髄の左頬に入った。手の平がジンジンと熱を持っているが、今はそんな事も関係ないくらい頭が混乱していて。宇髄が隙を見せた内に、私は一目散に逃げた。とにかく逃げた。走って走って、自分の屋敷の前に辿り着いた時、ようやく後ろを振り返ってみる。……いない。追い掛けてきてはいないようだ。やっと一息ついて、五月蝿い心臓に手を当てた。

一瞬でも、心の中で彼との接吻を求めてしまった自分が恥ずかしい。厭らしくて、はしたなくて…。相手は奥さんだっているのに……。

「宇髄には悪いけど、もうしばらくは顔も見れそうにないな……」

誰に話すでもなく、一人ぽつりと呟いた言葉に、私自身が深い溜息を吐いていた。








またある時は、冨岡と錆兎の二人と話している時。昔からの馴染みという事もあって、普段からよく二人の屋敷に出向いては、共に稽古をしたりご飯をご馳走になったりしていたのだが、冨岡と錆兎と口付けを交わしたあの日以来、どうにも私は彼らの事も意識してしまっていた。

会話を交わしていても、気が付けば私は上の空状態で、動く二人の口元ばかりを見てしまう。その日も、3人で夕飯を食べ終わり、縁側で月見をしている最中。会話をする冨岡と錆兎の口元をぼんやりと眺めていた。あの綺麗な唇が、あんなにも熱く私の唇を奪っただなんて。もしかしたら夢だったんじゃないかと思う程だ。


「……名無し?」



そんな私の様子に気付いた錆兎が、心配そうに私の顔を覗き込んできた。至近距離のその顔に、私は大袈裟な程肩を震わす。今近付かれたら、またおかしくなってしまいそうだ。慌てて手を左右に振って、空元気を振り撒いた。

「あ、ご、ごめん!ちょっと考え事してて!」
「最近やたらぼーっとしてないか?顔も赤い気がする」
「そ、そう!?ちょっと暑いからかなあ!?」

わはは、と下手な笑いを貼り付けて誤魔化す私を、冨岡も錆兎も怪しむように睨んでいた。何か隠してるんじゃないかと疑われている様だ。とにかく何とかやり過ごさなければ、と必死になる私の頬に、錆兎はその手を伸ばしてきた。


「お前、体調悪いのに無理してるんじゃ、」
「あっ………!」


錆兎の手が、頬に触れた瞬間。本当に無意識だった。無意識に、口からなんか変な声が漏れてしまって、錆兎も冨岡も、その目を丸くして固まっている。最悪だ。頭の中でずっと変なことばかり考えて勝手に意識してたから、体が敏感に反応してしまったようだ。


「あ、ち、違……、今のは……!」


焦った私は、とりあえず錆兎から距離を取ろうとその肩を押し返す。と、同時に、余りにも動揺していたのだろうか。錆兎を押し返した勢いのまま後ろに体を傾けてしまい、背後にいた冨岡に抱きとめられる。見上げた先には、私と同じように動揺している冨岡の姿。


「名無し、落ち着け」
「あ……、わ、わたし…………」
「名無し、本当にどうしたんだ。お前らしくない」
「ここ最近ずっと様子がおかしい気がする。何かあったのか」


私を抱きとめたまま、頭上で会話をする二人の声が聞こえる。こちらを覗き込むその顔を見ていると、なんだかグルグルと目が回ってきた。お風呂に浸かり過ぎて逆上せている時のような、そんな感じ。もう駄目だ、頭が爆発する。思考が上手く働かない。


「ふ…、二人を見てると、体が熱くなる…。うまく呼吸ができなくなるの……」
「はぁ?」
「……どういう意味だ」
「だから………っ」



口付けした時のこと……思い出しちゃうの……。




「「…………」」



分からず屋な二人にそう告げると、冨岡も錆兎も一瞬の間を開けた後、ぼん!と勢いよく顔を真っ赤にした。ようやく理解したらしい。

それは、その、そ、そうか、えっと、……とか何とか、ブツブツ何かを呟いて視線を彷徨わせる二人を前に、私は遂に意識を手放したのである。

「名無し!?」
「お、おい!しっかりしろ!」

慌てる男2人の懸命な介護により私が目を覚ましたのは、朝日がすっかり昇った翌日の事だったのである。




◇◆◇◆






「それはそれは。重症ですね」
「だよね………」



今までの出来事を全てしのぶに説明し終えると、流石のしのぶも呆れ顔だった。私が意識しまくって、彼らと会話すらままならない状態になってしまっているなんて、私自身想定していなかった。これで次また彼らに採血して貰う事になった時、私は一体どうなってしまうのだろう。死んでしまうのではないか。


「これだと日常生活や任務で一緒になった時に支障が出るし、採血もそれどころじゃ無くなるかもしれない…。どうしたらいいのしのぶ!」
「どうするも何も、名無しが早く男性に慣れるしかないでしょう」
「な、慣れるってどうやって!」

簡単な事ですよ、と笑って人差し指を立てるしのぶを、私は縋る思いで見つめた。頼れるのは彼女しかいない。


「場数を踏むのです。要は任務と同じですよ。誰だって、初めてはある。そこから成長する為には、とにかく何度も経験して慣れていくんです」
「な、なるほど……!!」
「今度の採血は、直近だと伊黒さんですね。とりあえず次の伊黒さんの時に、慣れることを意識して、」
「いや!駄目よしのぶ、そんなんじゃ!」
「え?」

私は闘志に燃えていた。そうだ、このままじゃ私は変われない。強くなる努力をするんだ。任務と同じというのなら、答えは簡単だ。採血自体は日の間隔を空けなければならないが、同衾についてはそんな制限はない。

全ては、鬼殺の為。人々を、隊士たちを守る為。私にしかできないことを一生懸命やる。こんな事も出来ないで、何が柱だ!












「ってことで、お願い!私のこと毎日抱いて欲しいの!!」

「「「「……………」」」」


私の呼び出しによって集められた、宇髄、煉獄、冨岡、錆兎はぽかんと口を開けていた。私の口から告げられた爆弾発言に、脳の処理が追いついていないようだ。未だに固まっている四人を置いてけぼりにして、私は暴走する。こうなった私はもう誰にも止められないのだとしのぶは言う。


「私が途中で嫌がっても、もう止めなくていいから!!無理矢理してくれていいから!私、強くなりたいの!!」
「は………」
「みんななら私より圧倒的に力も強いし!暴れても簡単に捩伏せられるでしょ!?」
「……………」




ね!よろしくね!そう息を巻く私が、四人の説教から解放されるのは、数刻も後のことになる。