「よし、今日はここで野営にしましょう」
「オレはまだ行ける」
「駄目よ。山はあっという間に暗くなる。早めに野営の準備をしないと危険だわ。それに、ななしの体も心配だしね」
「…だ、そうだ。どうしても登りたいなら、ななしを置いて一人で行ってくるんだな」
ヨツユとカカシに窘められたトビは、ちっ、と小さく舌打ちをしながら、背中で眠るななしを背負い直した。この霊峰の登山を始めてから、3時間は優に超えている。ずっとななしの体を背負い、険しい山の登り道を歩いてきたのだ。正直トビの体にも、大きな負担が掛かっていた。途中、見かねたカカシが「代わる」と提案するも、意地でも渡したくないのか、フンと顔を背けて前を素通りしていってしまう。そんな様子のトビに対して、カカシもヨツユもほとほと困り果てていた。
この山に入る前ヨツユが持ってきた野営道具を、右目から全て吐き出した。突然現れたそれらにカカシは驚いていたが、テキパキと準備を始める彼女に引っ張られて、呆気にとられながらも荷物に手を伸ばす。ななしのことも、この神威空間で吸いこんで運べばいいのでは、とヨツユには言われたが、トビはその方法を取らなかった。背中に、この重みを感じていたい。コイツが今生きているということを、背中で感じていたかった。それは、ただのトビの我儘だったが、ヨツユはそんなトビの想いを知ってか知らずか、それ以上は何も言うことはなかった。
敷いた布の上に、ななしの体を寝かせる。上から更にもう1枚布団を掛けて、体が冷えないように包んでやった。そのすぐ傍では、カカシが焚き木に火を灯し、ヨツユが晩御飯の支度を始めている。トビはななしの寝顔を一瞥すると、そのまま立ち上がって颯爽と姿を消した。ななしを救う為、やむを得ずカカシたちと行動を共にしているが、どうやら流石に共に眠る気はないらしい。そもそもトビは、睡眠も食事もいらない体。下手にカカシたちと共にいて、不審がられて正体を探られても困る。
「あれ、トビは?」
「さあ。きっと日が昇ったら戻ってくるでしょうよ」
出来上がったスープを片手に辺りを見回すヨツユに、カカシが声を掛ける。わざわざ探すこともないだろう。カカシも1つそのスープを受け取ると、ふーと息を吹きかけて熱を冷ましながら、ゆっくりと胃の中に流し込んだ。ずっと何も食べてなかったせいか、余計に胃に染みて体がじわじわと温かくなっていく。やはり食事というのは偉大だ。こうして食べるだけで、温かさと休息を得ることが出来るのだから。
「本当はななしにも食べて欲しいところだけど…」
「とても食べられる状態じゃないな」
結局あの後、トビの背中で『よろしくね』と笑った以降は、ずっと眠ったきりだった。今もはあはあと苦し気な呼吸が繰り返されていて、時折魘されるように寝返りを打ったりしている。その苦しみを代わってやりたい、と何もできない自分が悔しい。少し離れたところで眠り続けるななしの姿を心配そうに見つめるカカシの横で、ヨツユは何かを思い出したかのように唐突に自分の荷物を漁り始めた。がさがさと慌ただしくあれじゃないこれじゃないと色々なものを散らかしていく。一体何事だとその行動を見つめていると、やがてお目当てのものを見つけたのか、小さな包み紙をカカシに向かって差し出した。
「これ」
「…なに、これ」
「薬。私が薬草を煎じて作ったものなの」
受け取ると、包み紙の中でさらさらと粉が揺れる音がしている。そういえばななしも、薬草を採る為にこの山に入ったと言っていたことを思い出す。しかし一体これを渡して、どうしろというのか。キョトンとするカカシの顔に、ヨツユは小さく微笑みながら言った。
「一時的に熱を下げるものだから、結局気休めにしかならないけど…。少しでも苦しいのが和らぐならそれに越したことはないし。ななしに飲ませてくれる?」
「え、オレが?」
「私は使った調理器具とか洗ってくるから。その間にお願い」
飲料水はそこにあるわ、と指差す先には、先程火にかけて沸騰させていた水がボトルに移されている。山の水は、どんな細菌が潜んでいるか分からない為、こうして持参した水か、ちゃんと濾過させて沸騰させた水しか口にしてはいけないのだそうだ。特に沢を見つけても、付近に野生の動物の生息が窺えた場合は絶対に飲んではならない。野生の動物は、その体にいくつもの菌を飼っている。動物には無害でも、免疫のない人間がそれを体内に取り入れたら大変なことになる。そして、そんな動物が飲んでいる沢の水を飲んでしまったら、体の中は菌だらけになってしまうという訳だ。
ヨツユは、カカシに言うだけ言うと、そそくさと空になった調理器具と水を持って、離れたところへと入っていってしまった。ぽつんと残されたカカシの手には、小さな紙包みが一つ。そして、少し離れたところで、苦しそうにしているななし。その歪められた表情を見て、迷っている場合ではないと自分に喝を入れ、ゆっくりと腰を上げる。
「ななし、起きれるか。ヨツユから薬を貰った。飲めば少し楽になれる」
眉を寄せたまま目を閉じる彼女に声を掛ける。しかし当然、返事が返ってくることはない。飲ませてくれ、と言われたって、眠り続けている相手にどうやって薬を飲ませればいいのか。はー、と小さく息を吐いて、額に手を置く。分かっている。本当は、どうやって飲ませるべきかなんて、頭ではとっくに理解している。いや、しかし今はそんなことを気にしている場合ではない、か。昨日会ったばかりの男に薬を飲まされるなんて、ななしが知ったらショックを受けるだろうか。見た目からしたら、まだまだ若い女性だ。
(いや…、そんな事を言っている場合じゃない)
ゆっくりと、口を覆っている布に手を掛ける。ずらして現れた唇に、サラサラと包み紙にある粉薬を流し込んだ。舌の上に置いたまま、傍らに控えてあった水を含む。そしてそのまま背中を丸めて、眠るななしに顔を近付けると、彼女の唇をうっすらと開かせてそこに口付けた。気道を確保して、水が流れやすいように若干顎を上げてやる。ぬるりと差し込んだ舌と共に、口に含んでいた水がななしの口内へと移って行った。こくん、とその白い喉が上下するのを見届けて、ゆっくりと唇を離す。零れた水を腕で乱暴に拭いながら、下にいるななしに視線を映して、ぎょっとした。
「え…、ななし…!?」
「か、かかしさ…、い、いま、なにを、」
先程までずっと眠り続けていたななしが、目を見開き、ぷるぷると肩を震わせながらこちらを見つめているのだ。まるでさっきまでの苦し気な吐息が嘘のように、ななしの容態は比較的安定していて、ゆっくりと体を起こしている。濡れる口元をそっと指で拭いながら、恥ずかしそうに真っ赤に染めた頬を両手で押さえる彼女を見て、カカシは呆然としていた。
「具合は大丈夫なのか」
「薬…、飲ませてくれたんでしょう…?ヨツユの薬、本当にすごいんです」
即効性に関しては抜群の効き目を誇るヨツユの漢方薬だが、決してななしの体が完治した訳ではないことは、忘れてはいけない。嘘のように軽くなった自分の体を見下ろすとつい勘違いしそうになるが、この薬の効果が切れれば、あの苦しさが戻ってくる。決して無理をしてはならないことは、ななしも十分理解していた。驚くカカシに微笑みつつも、辺りを見回して仲間の彼の姿を探す。
「…トビは?」
「どこか別の場所で休んでるんだろう。お前をここに置いた途端消えた」
「そう…。私をずっと背負ってくれてたのは、トビ?」
「ああ。途中で代わると何度も言ったんだが、譲らなかった」
意識が無い中でも、何となく感じていた。ゆらゆらと揺れる、背中のぬくもり。なるべく私に負担をかけないようにと慎重に歩いていてくれていたことも。私の体を背負うその逞しい背中は、オビトの、安心する優しい背中…。それに、おぼろげではあるが、カカシさんの優しさだってちゃんと覚えている。途中何回か挟んだ休憩の中で、私に声を掛けて励ましたり、気遣ってくれたり、その人柄が滲み出ていた。本当は私だって、トビと同じ暁の人間。カカシさんからしたら敵対する人物である筈なのに。
「…私のこと、聞いたでしょう?」
「暁のことか」
「うん。…ずっと、騙してたのカカシさんのこと。…ごめんなさい」
俯いて、カカシさんへの謝罪を口にする私の背中は、寂しそうに丸まっている。本当なら、私は彼に命を狙われる立場にある人間。なのにカカシさんは、今こうして、私を救うために共に旅をしてくれている。その優しさが、より私の罪悪感を掻き立てるのだ。
「ななし」
俯いていた頭上から、優しい声音が降ってくる。名前を呼ばれてそっと顔を上げると、今はすっかり口元をいつものように布で隠したカカシさんが、私を見つめている。その視線に吸い込まれるように、釘付けになった。
「俺もお前を騙していた」
「え…?」
「俺がこの山にいた理由は、ある情報を聞き付けたからなんだ」
「情報…?」
「暁の一人が、この山の近辺にいる、ってな」
どくん、と胸がざわついた。それはまさに、私のことだろう。数日前から暁のアジトを飛び出して、ヨツユの家にお世話になっていた私を、誰かが見つけて木の葉の里に報告したのかもしれない。現にカカシさんは、その噂を聞いてここまでやってきた。…私を、殺す為に。
「まさかそれが、女性だったなんてね。ビンゴブックには載ってなかった筈だけど」
「私の存在は、一応極秘ですから。戦う術がない私は、いつもみんなの背中に守ってもらっているんです」
「……、昨日聞かせてくれた、お前の大切な仲間の話。あれは、暁のこと?」
「……はい」
自分の体を再度見下ろすと、ブカブカでサイズの合っていない大きな暁の装束が眼に入った。微かに残っている、オビトの香り。カカシさんとの戦闘で所々ボロボロになってしまっているが、私の体が冷えないように、その機能を果たしてくれている。刻まれた赤い雲は紛れもなく暁の証拠であり、私は暁の一人だ。ぎゅっと大事そうに外套を握りしめて、オビトの匂いに身を委ねた。例えカカシさんに命を狙われたとしても、私がいるべき場所はここなんだ。
「カカシさんは、私のこと殺しますか?」
「まさか。そのつもりだったらとっくに殺してるよ。今は俺とななしの二人きりだ、いつだって殺せる」
「………なんで、殺さないんですか」
「……なんでだろうね」
質問を質問で返されて、私はじっと彼の瞳を見つめた。困ったように笑うカカシさんは、しばらく誤魔化すように頬を掻いていたが、やがて私の隣に腰を下ろして、夜空を見上げた。昨日共に夜を過ごした時のように、肩を寄せ合って、お互いの温もりでお互いを温めながら。
「…似てるから、かもしれないな」
「リンさんに、ですか?」
「ああ」
「あの…、どの辺りが似てるんですか?顔?」
「いや…、なんていうんだろうな。顔も性格もそんなに似てないのに、でもどこか似てるんだ」
「ええ?なんですかそれ…」
のはらリン、という女性。カカシとオビトの、かつての仲間。そして、オビトの想い人であり、今は亡き存在。恐らくオビトは、今でもリンさんの背中を追っている。一緒に過ごしている中で、オビトのリンさんに対する想いに触れた時が何度かあった。カカシさんもオビトも、私を見ては『リンに似ている』と口を揃えて言う。こちらからしたら、一体どこが似ているのか、リンさんという人がどんな人だったのか気になる一方である。だけどカカシさんもオビトも、いつもそれ以上ははっきりと口にしないのだ。
「リンさんに似てるから、殺さないんですか?」
「……いや。それだけじゃない」
「え…」
「守りたいと、思ったから」
「私、を…?」
「ああ」
「出会ったばかりなのに?」
「それを言ったらななしだってそうだろ」
カカシさんに言われて蘇る、オビトに左胸を貫かれた時のこと。あの時は頭に血が上って、咄嗟に後先考えず行動してしまっていたが、今考えると自分でもだいぶ無茶をしたなと感じる。だけど、私がああしていなかったら、今頃カカシさんはどうなっていたか。結果オーライではあるが、カカシさんもオビトもお互いを傷付けずに済んで良かった。カカシさんは、トビの正体がまさかオビトであるなんて、気付いていないようだけど。
「だって、守りたかったんです」
「ほら、同じ」
「…ほんとだ、同じだ」
一緒に顔を合わせて笑い合う。額を合わせて微笑みあったところで、ふと気づく、二人の距離。まるでまた唇が重なってしまいそうな至近距離に、お互い息を呑んで無言になった。そうだ、今ここにいるのは、私とカカシさんだけ。見ているのは、山の空に浮かぶ月だけ。カカシさんの目が、じっと私を射抜いていて、私はその目から視線を逸らせなくなった。あれ…なんだろう、この雰囲気。カカシさん、どうしてさっきから何も喋らないんだろう。動揺する私の手に、彼の大きな手が重なる。
「お前が暁じゃなかったら良かったのに」
「かかしさ…、」
「何故だろうな、お前に興味が沸いて仕方がない」
ナルトに似てるのかな、なんて口調ではお道化ているけど、目は真剣そのもので。完全に雰囲気に飲み込まれている私は、何も返せないまま、近付くカカシさんの瞳を見続けていた。固まる私に、カカシさんは1つ口付けを落とす。布越しの、一瞬だけの、口付け。気のせいなのか気のせいじゃないのか、本当に分からないくらい一瞬で、でも確かに唇には布が当たった感触があって、布の向こうには、カカシさんの唇があった。
ぽかんとしたまま動かない私から手を離したカカシさんは、ぱっといつもの笑顔を浮かべながら立ち上がった。
「なんちゃって。驚いた?」
「カカシさん…、じょ、冗談…?」
「そ、大人の冗談。からかってごめんね」
「も…、もう…!本当に、びっくりして…、」
「……、ごめんごめん。今ヨツユ呼んでくるから」
逃げるように私の元から去っていく背中を、ぼんやりと見つめて。うるさく跳ねあがる心臓に手を添えながら、私はまた一つ、彼の心の本音に触れたのだ。
「何やってんだ俺は……」
離れたところでぽつりとつぶやくカカシの言葉は、そのまま静かな山の中へと消えた。