はあ、はあ、と繰り返される荒い呼吸は、私のものではない。私を背負う、オビトのもの。只でさえ、仮面を付けていて息苦しい筈の彼は、山頂に近付くにつれてより顕著に体の変化を見せるようになった。オビトだけではない。カカシさんも、ヨツユも、そして私自身も、その表情には疲れの色を滲ませている。
高山病、という病を、聞いたことがある。山の標高が高ければ高い程、上に登れば登る程、その病は体を蝕む。山頂付近は酸素が少ない為、体は普段の倍以上もの疲労感を感じ、上手く足を動かせなくなる。それだけではない。状態が酷くなっていけば、幻覚や嘔吐といった症状も出る。これらが出てくると、いよいよ生命の維持すら難しくなってくる。山頂付近での行動時間には制限があり、その間に私たちは目的を果たし、一刻も早く下山しなければならなかった。
「少し休憩しましょう……」
少し歩いては休憩し、歩いては休憩しを繰り返す私たち一向は、ヨツユの一声に返事すら返さず、その場に座り込んだ。休憩の頻度がどんどん上がっている。休憩時間はどんどん伸びているのに、進むペースは落ちていく一方。私たちの足取りは、すっかり停滞してしまっていた。
「トビ、私自分で歩くから…」
「いい。余計なことを考えるな」
呼吸の合間合間に紡ぎ出された声からは、流石の彼からも疲労が感じられた。私を背負ったまま山頂へ向かうなんて、無謀すぎる。そう何度も打診しているのに、オビトは絶対に譲らない。私も私で納得できぬまま食い下がっていると、隣で聞いていたヨツユも私を制した。
「ななし。自分で歩くのはダメ」
「で、でも…」
「…薬が無くなったの。今度効き目が切れたら、もう飲ませる薬が無い。それ以降は貴女もずっと苦しさと戦うことになる。その時の為に、今は体力を温存しておきなさい」
「……ごめんね…」
「ごめんね、じゃなくて、ありがとう、でしょ」
「…、ありがとう…みんな」
こんな状況でも、ヨツユは明るくて強くて頼もしい。彼女だって疲れている筈なのに、いつだって私のことを最優先に考えてくれている。ヨツユのそんな笑顔に救われながら小さくお礼を言うと、彼女の視線はそのままトビに向けられて。
「トビも、この先は意地張ってる場合じゃないわよ。ななしのことは、カカシと交代で負ぶっていきましょう」
「なら、休憩後は俺がななしを運ぼう」
会話を聞いていたカカシさんが、少量の水を口に含んだ後にそう言った。ここまでオビトは、ずっと私のことを背負ってきた。顔には納得いっていない様子が出ていたが、ヨツユの言い分には何も言い返せなかったのか、押し黙ったままそれを了承していた。そして私は、少しばかりの休憩を挟んだ後、カカシさんの背中に乗って、再びその足を進めることとなる。上を見上げると、ぼんやりと見える山頂。もうだいぶ近い所まで登ってきた。ゴールはもうすぐだ。後もうひと踏ん張り。目に見える目的地を視界に映して自分たちを奮い立たせながら、鉛のように重い足を必死に動かしたのだった。
ーーーー・・・・
「着いた…。これが、仙人様の祠……」
最後の休憩から、2時間後のこと。ついに私たちは山頂に達し、見事この霊峰の登山を達成させた。中央の岩場にある、小さな祠。そこには注連縄と榊立てが置かれていて、お供え用の猪口も見受けられる。ヨツユは、自分の荷物から瓶に入った日本酒を取り出すと、それを猪口の中へと注いだ。注ぎ終えた後は、ヨツユの村に代々伝わる印を結んで、手を合わせて目を閉じる。仙人様へのお供えの儀式。この山の付近に住む者は、これを幼い頃に叩き込まれるのだ。一連の流れを後ろで見ていたカカシさんとオビト、そして、懐かしいその儀式にぼんやりとした意識を向ける私。やがて、猪口に入ったお酒はヨツユの印に反応するように光輝き、ヨツユはそれを合図に猪口を手に取ると、光っているお酒を仙人様の遺骨の上へと掛けた。
「これは……一体…、」
カカシさんがぼんやりと呟くのと同時に、お酒を掛けられた仙人の遺骨が輝き始める。カタカタと動きだした細い遺骨たちは、部位ごと定位置へと戻っていき、最後には、教材でよく見るような骸骨の標本の様に、人の形を模して静まり返った。驚くカカシさんとオビトを他所に、その亡骸…、仙人様は口を開いた。
「…辿り着いたか。名無し一族の娘よ」
「仙人様…!」
「…驚いたな。まさか話す事が出来るとは」
かたかたと己の骨を鳴らしながら話す姿に、流石のオビトも驚きの声を上げる。仙人の意識は、カカシさんの背中でぐったりと項垂れる私に注がれていて、その口ぶりからして、やはり何か事情を知っている様子であった。霞む視界の中で、何とか頭を起こして仙人を見つめた私は、必死な思いで震える言葉を声に乗せた。
「仙人様……、私の、体に何を…したのですか…」
「儂の術を施し、山に閉じ込めた。お前をここへ誘導する為に」
「一体何のために……」
そう言うや否や、突然下から、地面を突き破って無数の太い木の幹が現れた。ウネウネと唸るそれは、オビトとヨツユとカカシさんの体に巻き付き体の自由を奪う。突然の出来事に反応できなかったみんなはそのまま木の枝に絡まれて拘束され、カカシさんの背に乗っていた私は地面にお尻を叩き付けそのまま投げ出されてしまった。くらくらと回る視界で、何とかみんなの状況を把握する。みんな、何とかその拘束から逃れようと色々試しているようだが、どうやらそう簡単にはいかない様で、暴れれば暴れる程木の幹はより複雑に絡み付いて離れないのであった。
「みんな…!」
「ななし!そこから動くな!すぐに行く!」
オビトの声が響き渡る。この中で今自由の身にあるのは私だけ。早く助けてあげたい気持ちは山々なのに、体に施された仙人様の術が邪魔をして、最早まともに立ち上がることすらできなかった。頭が割れるのではないかと思う程の頭痛。額に浮かぶ汗が止まらない程の高熱。乱れる呼吸と、霞む視界。遠のきそうになる意識を手繰り寄せるので必死だ。地面に突っ伏したまま、ぜえぜえと呼吸を繰り返す私を、オビトもカカシさんも焦ったように見つめていた。祠の中で、一部始終をただ静かに見守っている仙人に、怒りの矛先が向かう。
「貴様…、何のつもりだ。すぐにこの術を解け」
「小僧ども。儂には全て見えているぞ。お前たちの心の迷い、そして…過去の因果もな」
「世迷言を…。未練があってあの世に逝けないのなら、俺たちが介錯してやろうか」
睨む二人の男の視線を受ける仙人は、後ろから一つの鏡を取り出した。神鏡。神具の一つであるそれを前に掲げ、オビトとカカシさんの二人を映し出す。最初は二人を映していた鏡だったが、やがてゆらゆらと鏡面が波打つように揺れ出し、二人の過去の映像を走馬灯のように目まぐるしく映し出し始めた。呆気にとられる二人へ、留めと言わんばかりにある人物の姿を映し出す。
「「…リン……!?」」
二人の声が重なって、私の視線は鏡へと釘付けになった。リン、という名に反応するように、重たい頭を起こしてゆっくりと鏡を見つめる。そこには、ある一人の少女が映し出されていた。肩にかかる程度の茶色い髪、頬に施された特徴的な化粧。あの人が…、オビトとカカシさんのかつての仲間。そして、今でもオビトの心を捕え続ける少女。初めて見たその姿は、確かに見た目だけで言えば私に似ているような似ていないような、それだけでは何とも言えない感じだ。オビトとカカシさんはすっかり鏡の中に釘付けになっていて、固まってしまっている。仙人はそんな彼らの様子を目細めて眺めながら、手の中にある鏡をゆっくりと私に向けてきた。
「この鏡は、魂を捕える鏡。そして、この世とあの世を繋ぐ門」
「この世と、あの世を繋ぐ…?」
「お前たちが願えば、この少女をあの世から呼び戻すことが出来るだろう」
「何だって…」
目を見開くオビトとカカシさんの意識は、完全に鏡に捕らわれているリンに向けられている。今までそのやり取りを黙って聞いていたヨツユが、慌てた様子で二人を止めた。
「ダメ!!死者を呼び戻すなんて、絶対にあってはならない事だわ!」
「黙っていろ小娘。儂は今こいつらを試しているのだ」
「俺たちを、試す、だと…?」
「会いたいのだろう?この娘に。この鏡は、人の心の迷いを映す。お前たちはこの娘を求めている筈だ。会いたい、蘇ってほしい、と」
仙人の言葉が、カカシさんとオビトの心を揺すり惑わす。鏡の中にいるリンは、まるで生きているかのように瞬きを繰り返し、こちらを見つめている。まるで本当に、鏡の中に閉じ込められているかのように。黙り込んだまま、食い入るようにその鏡を見ている二人は、最早ヨツユの説得の言葉も耳に入っていない様子だ。当然ながら、端から聞いている私やヨツユからすると、恐らく仙人が何か悪い事を考えているのは明白。仙人の口車に乗せられて、二人がリンの復活を望んでしまったら、何が起こるか分からない。そもそも、死んだ者を蘇らせることは禁忌であり、してはならない事なのだ。それに手を出してしまったら…、二人は…。ずるずると横たわる体を引きずって、悠々と鏡を翳す仙人を睨み付ける。
「仙人様…。人の弱みに付け込んで心を揺さぶるなんて…意外と姑息なことをするのね…!」
「名無しの者よ。お前は己の母の事を知っているか」
「私の…お母さん…?」
「お前のその特殊な力は強力だが…決して無限ではない事、自分でも分かっているだろう」
「それは……」
「お前の母は、力を利用されるだけ利用されて、死んでいった。恐らくお前も、同じ運命を辿ることとなるだろう。己の力によってお前は死ぬのだ。他でもない、信頼していた仲間に殺されて」
同じ力を持っていた母は、戦争中、兵士たちの傷を癒す為に道具同然として扱われ、やがてチャクラが尽きて静かに死んだ。母の遺体に、無数の噛み痕が残っていたことを思い出す。今でこそ私は暁に保護され、彼らの為に力を使っているが、いつか…いつか、私も、この力に殺されるのだろうか。母の体に刻まれた無数の痕を思い出すと、ぞわりと体が震える。私も母と同じ結末を迎えるだなんて。
「ななし!惑わされないで…!貴女は、彼らを選んだのでしょう…!?」
「ヨツユ……」
ヨツユが懸命に私のことを叱咤してくれている。そうだ。ここで仙人の口車に乗せられたら、それこそ奴の思う壺。体は思うように動かなくとも、心だけは戦わなくては。心も負けたら全てが終わる。私は自分自身を奮い立たせて、再び仙人を鋭く睨み付けた。例え母が悲惨な結末を迎えたとしても、私は必ず生き延びてみせる。生きる為に、私はデイダラの手を取ったのだから。燃える村を捨てて、暁に入ったのだ。ぐっと握り拳を固めて体を叩き起こすと、既に仙人の標的は再びカカシさんとオビトに戻っていて、彼らの前で鏡の中へと手を突っ込んだ。揺れる鏡面はずぷりと仙人の手を飲み込み、そしてその手は、鏡の向こうにいたリンの首を掴んで締め上げる。途端に苦しそうに歪められたリンの表情を見て、カカシさんもオビトも表情を怒りに染めていく。
「貴様!!」
「今すぐその手を離せ!」
「何を慌てている。この少女は既に死んでいる身。何をしたって問題は無かろう?」
ぎり、と血が滲む程唇を噛み締めたオビトが、完全に冷静を欠いた状態でブチブチと拘束する木の幹を引きちぎっていく。火事場の馬鹿力とでもいうのだろうか。さっきまでびくともしなかった木の幹を、カカシさんもオビトも解きかけていた。それほどまでに、彼らにとっては目の前でリンが傷つけられるのは耐え難い事なのだろう。そして二人はようやく自由を取り戻し、感情のままに仙人に向かって走りだす。止めるヨツユの言葉も聞こえぬまま、カカシさんは右手に帯びた雷を仙人に向かって突き出した。
「リン!!!」
カカシさんの右手が仙人の胸を貫く傍らで、オビトは鏡の中に手を突っ込む。リンの肩を掴んで、そこから引きずり出そうと彼女を引っ張ると、リンは本当に鏡の中から飛び出してきて、オビトの胸の中に倒れ込んだ。きょとんと驚いたようにオビトを見つめるリンを、オビト本人も信じられないと言った様子で見つめている。何年ぶりの再会だろうか。会いたくて堪らなかった存在が、今確かに目の前にいる。カカシさんもオビトも固まったまま、懐かしい彼女を凝視しているのを仙人は口元を歪めながら眺めていた。
「残念だな、名無しの者よ。選ばれたのは、どうやらお前ではなかったようだ」
「え…?」
ふわり、と、その感覚は突然私を襲う。リンが鏡から引っ張り出された瞬間、相反するように、私の体が鏡に向かって引きずり込まれた。ずるずると大きな力に引っ張られて、必死に地面を掴んで足掻くものの到底敵いそうにない。私の異変を察知したオビトが、慌てて私の手を掴もうとするも、伸ばした私とオビトの手は重なる事無く、そのまま引き剥がされていく。抵抗虚しく鏡の中に吸い込まれた私は、リンと入れ替わるようにしてその場から姿を消したのだった。目を見開いたまま、呆然とするヨツユと、オビトとカカシ。そして、状況が掴めていないままのリン。これらは全て、仙人が用意した舞台。オビトたちは今、仙人の手のひらの上で転がされている状態であった。
(試させてもらうぞ、小僧共…。お前たちの想いがいかほどか…)
視界の先には、立ち尽くすオビトとカカシの姿。過去の因縁を断ち切る時が、今目前に迫ってきていた。