人は人 吾はわれ也D

黒尾様と共に歩くその帰り道は、とても静かだった。どちらも言葉を発さず、無言で隣を歩いている。チラリと彼の横顔を盗み見てみると、黒尾様はただ真っ直ぐに前を見つめていた。その真剣な横顔に胸が打たれる。一体貴方は、今何を考えているのだろう。

「黒尾、様……あの……」
「ん?」
「寒い、ですね」
「……ああ」
「手が、凍えそうです」
「そうだな」

気を利かせて口を開いても、こんなつまらないお話しか出来ない。冬なのだから、寒くて当然なのに。短く降ってくる黒尾様からの返事に焦る私は、大胆にも彼の手をギュッと握りしめ、早口で言った。

「て、手が凍えそうなので、手を繋いでもいいですか!!」
「………………」

しばらくポカンとして突っ立っていた黒尾様だったが、やがてプッと小さく吐き出して、笑いを噛み殺しながら私を見下ろした。

「なに、手ェ繋ぎたかったの」
「だ……駄目ですか」
「いいえ、大歓迎です」

ぎゅう、と握り返してくる大きな手。お互いすっかり冷えてしまった手を重ね合わせて、再び帰路の道を歩んだ。

手を繋ぐことを快諾してくれた黒尾様は、一見、いつも通りに見えるが、何かを深刻そうに思い詰めていることは明らかであった。普段ならば、もっと話しかけてくれるし、くだらない事で笑い合ったりするのに。彼がそんな顔をしているのは、やはり事件のことか。それとも、何か他のことか。悩む黒尾様の力になれない事が悔しくて、俯きがちに自分の爪先を見て歩いていると、ようやく黒尾様が口を開いた。

「……白布が心配してた」
「…え……?」
「お前が北中尉に連れてかれた後」

思い浮かべる、先程の光景。私を連れて行こうとする北様の前に立ちはだかった白布様は、怒りを滲ませた怖い顔をしていた。私のことを守ろうとして、ああやって身を呈して庇ってくれたのだろう。立場が上の尉官の方に逆らうということが、どれだけまずい事なのかは、私なりにも理解はしているつもりだ。今回は北様だったから良かったものの、もし他の尉官であったら、白布様こそどうなっていた事か。

「白布様は、大丈夫でしたか…?」
「すぐに落ち着いたから心配はいらねぇよ。アイツ短気だし、別に珍しいことでもないけど」
「そう、なんですね」
「ま、お陰様で俺は苦労が絶えないけどな」

へらりと笑う黒尾様。赤葦様や研磨様は言っていた。部下が悪さをすれば、上司が頭を下げて謝るのだと。先程黒尾様は、北様にも頭を下げていた。白布様がした行為に対して、申し訳ありませんと素直に謝っていた。彼の隊長としての責任を目の当たりにして、その大変さには改めて感服する。

「俺らみたいな田舎上がりの志願兵は、尉官の連中に色々とやられてるからな。嫌う奴も少なくない。うちの奴らもそうだし」
「黒尾様も……、嫌い、ですか?尉官の方々のこと…」
「ま、好きではねぇな。みんながみんな悪い奴だとは思わねぇけど」
「でも、黒尾様は皆様と比べて、いつも落ち着いているように見えます。感情的になった皆様を止めて上の方に謝る事は、誰にでも出来る事じゃありませんし」
「…褒め上手だな、名無しちゃんは」

また笑う黒尾様。どうして…、どうしてそんな寂しそうに笑うのですか、黒尾様。帽子の影が落とされた顔には哀愁が漂っていて、いつものような目の光も無い。もう既に目的地である私の家はすぐそこまで迫っていて、このまま到着してしまったら、黒尾様の本音が一生聞けないような気がした。私は足を止めて、黒尾様を引き止める。「どうした?疲れちゃった?」と心配そうに振り返る彼に言う。

「わ、私を…帰さないで下さい」
「え」
「帰りたくない」

言った後で、かなり語弊のある言い方をしてしまったんじゃないかと激しく後悔した。もう少し話したい、とか、少し寄り道しませんか、とかもっと誘い文句は色々あった筈なのに。どれだけ必死だったんだと自分で自分に恥ずかしくなる。これではまるで…。

「俺も、帰したくない」

真っ赤な顔を俯かせてどう言い訳しようかと考えていると、頭上から降ってきた声。顔を上げると、彼の切れ長の目が私を捉えて離さなかった。こちらに近付いてくる黒尾様の影が、私に覆い被さる。そしてそのまま、彼の温かい腕の中へ閉じ込められた。

「…俺だって本当は、お前をアイツらに渡すのが嫌で仕方がなかった」
「くろお…さま……」
「だけどどうも…、それなりに歳重ねて伍長って立場になって、余計な知識や考えが増えてから…、自分の感情を優先する事が少なくなった」

歳取ったのかな俺も、と自嘲気味に笑う黒尾様の、私を抱く手の力が悔しそうにぎゅっと篭った。誰だってそうだ、黒尾様だけではない。幼い頃は、楽しいなら楽しいまま、悲しいなら悲しいまま、怒れる時は怒れるままに、自分の感情を曝け出すことが出来た。それが、大人になればなる程、理性で押さえ込むようになる。損得勘定で考えて、『ここは我慢しよう』とか、『自分が損をする』と思うと、本当の気持ちを押し殺してしまうのだ。

黒尾様に至っては余計だろう。伍長という、少ないながらも人の上に立つ立場の人間は、常に冷静でいなければならない。北様に対しても、本当は白布様の様に感情のままに動いて、拒みたかったのだと、彼は言う。でも実際に黒尾様が取った行動は、そんな白布様を窘め、私を差し出し、北様に頭を下げるという、全く逆のものだった。

「最近、自分で自分が分からなくなる。…俺は確かに、この軍に入ったばかりの頃、歪んだ上層部に幻滅して、あんな汚い連中なんかになるもんかって…、俺が上に上り詰めて変えてやるんだって…、そう思ってた筈なんだ。なのに今の俺は、アイツらと同じだ。自分の為、損得の為に動く、汚い連中と……」
「黒尾様………」
「立場に縛られて、俺は大切な女一人守れなかった……!」

苦しげに吐き捨てられた言葉が、私の胸にも痛い程に響く。抱きしめられていて顔は見えないが、黒尾様の大きな背中が、まるで泣いているように震えている。そっとその背中に手を回して、私は精一杯彼を抱き締めた。誰も、貴方を責めたりなんかしない。貴方が、そんな汚い人たちと一緒だなんて思わない。そんな想いを、必死に伝えたくて。

「黒尾様、貴方は助けに来てくれたじゃないですか」
「…………」
「私のこと、迎えに来てくれた。今日だけじゃない。黒尾様はいつだって私のことを守ってくれる。そして、皆様のことも…必死に守ってくれています」
「俺は………、」
「赤葦様も研磨様も、言っていました。黒尾様は、自分の身を犠牲にして、いつも部下を守ってくれるのだと。だからみんなあの人について行くんだと…。黒尾様は、上の方々なんかと一緒じゃありません。伍長という立場に縛られているわけでもありません」

誰とも同じではない。夢を追い、田舎から出て必死に戦う黒尾鉄朗、その人なのです。…そんな私の言葉を静かに聞いていた黒尾様は、一層力強く抱きしめてくれた。良かった、黒尾様の本音が聞けた。私が伝えたかった事も、伝えられた。こんな私の言葉がどこまで彼を救えるのか分からないけれど、いつも守って貰っている分、少しでも支えてあげたい。部下の前に立ち、常に矢を受ける黒尾様の傷を、癒してあげたい。皆様を守るのが黒尾様なら、誰が黒尾様を守ってあげられるのか。私は、そんな黒尾様を守る、心の拠り所でありたいと思う。給仕如きがそんな事を思うのは、贅沢過ぎるだろうか。

「あの、黒尾様、もう一つ、お願いしてもよろしいですか」
「……ん?」

ゆっくり離された体から、私はチップを取り出した。普段彼らが私にそうするように、私も黒尾様にチップを差し出す。バクバクと高鳴る心臓と、羞恥心で真っ赤になる顔。震える声で、勇気を振り絞って告げる。

「こ……これで…、私に接吻をして下さい……」
「は、」
「く、黒尾様のご奉仕、下さい!」

帰したくない発言の次は、ご奉仕下さいなんて、我ながらなんてはしたない女なのだろう。面食らった黒尾様の顔を見ているのが耐えられなくなって、ぎゅっと目を閉じて再び俯く。差し出したままのチップはいつまでも受け取られる事なくそこにあった。ああ、やはりこんなはしたない女にご奉仕など、どんなにチップを積まれた所で誰も……、なんて考えていた隙に、私の手が絡め取られて。

「…なんか俺、今日めちゃくちゃカッコ悪くないですか」
「え?」
「全部お前に言わせてるし。俺だってお前のご奉仕買いたいしチューしたいんですけど」

私が出したチップを突き返し、黒尾様は懐から自分のチップを取り出した。受け取るのを拒否しようとしても、黒尾様は強引に私の手に握らせて、後頭部を掴んできた。緩く首を傾けた彼の唇が重なる。背の高い黒尾様が、私に口付ける為に丸めた背中に腕を回してしがみついた。

「んっ……、は……ふ…ぅ……」
「は…、かわい……」

口内で蠢く黒尾様の舌に必死に応える。たまに混ざり合う唾液が音が立ててしまい、恥ずかしさで死にそうだ。お互いの熱い吐息が重なって、凍えていた体温は一気に急上昇していく。熱くて熱くて蕩けそうだ。

やがて離れた唇に、私は力が抜けて黒尾様にしがみ付いた。骨抜き状態の私とは違って、舌舐めずりをする黒尾様は余裕げで。それが何だか少しだけ悔しい。

「…昔に比べて随分上手になったな、接吻」
「だ…誰かさんのせいです」
「それに、男を煽るのも上手くなった」
「……からかわないで下さい」
「からかってねぇよ、心配してんの」

俺だけにしてね、なんて言いながら、私にまた顔を近づける黒尾様。おかわりしていい?なんて、そんなの答えは決まってるのに。分かってて聞くなんて、貴方も相当狡い人だ。

「わたしも………」
「………?」
「わたしも、おかわり、したいです…」
「………本気で帰さねぇからな」

男の本能に光る彼の目が、私を逃がさない。人気のないその場所で、私たちは時間も忘れて何度も何度も温もりを求め合ったのだ。