誓紙と切り指@

まただ。この視線。最近ずっとこうだ。一人で道を歩いていると、後ろから何者かの視線を感じる。ハッとして振り向いても、そこには誰もいない。気のせいか、それとも野良猫の類かと思ってはいたが、こうも続くと流石に不気味である。

(何だろう…この見られてる感じ…)

仕事を終えて、店から家までの距離を歩く。何度も振り返っては、その不気味な気配や視線の正体を探るものの、やはりそこには人の気配など無く。やっぱり私の気のせいなのだろうか。考えすぎなのだろうか。小さく首を捻りながらも、結局私はそのまま家へと帰宅したのだった。物陰に潜む、1つの人影には気付かぬまま。



ーーーー・・・・



「心中だなんて、くだらない事をする奴がいるもんだな」

カウンター席で頬杖を突きながら、机に広げた新聞を見下ろす白布様。その見出しに踊っている文字は、“男女二人、またも心中”。その文字を目で追う白布様は、一言くだらない、とばっさり切り捨てたのだった。

今日は白布様と赤葦様という珍しい組み合わせが二人揃って来店し、いつものように珈琲を楽しんでいた。難しい顔をして新聞を見下ろす二人に釣られて、私もその背後から彼らの手元を覗き込む。

「心中ですか…。少し前に話題になった、那須心中の影響でしょうか」
「死んだら叶うものも叶わないでしょ」
「確かに……」

今より少し前。新聞に大きく取り上げられるような事件が起こった。某有名な作家の、別荘地での心中。当時その作家は不倫問題に悩まされていて、いよいよ追い詰められた彼は、恋人と心中をするという結末を迎えたのだ。その事件は世間に衝撃を与え、若い者たちの間に悪い影響を与えてしまった。叶わぬ恋をした者や、何かに行き詰った人たちが、心中をするという事件がここの所何回も発生していたのだった。

「中には相手の同意も得ず、無理心中をする事件も起きています。気を付けたほうがいいですよ」
「そうだな。変なのに絡まれたらすぐに言えよ」
「私は大丈夫ですよ、変な男が来たら、その時はこう…、」

前にいた赤葦様の腕を小脇に抱えて、ぐっと力を籠める。私が柔術を少しだけ齧っている事は、先日の事件にて彼らも目の当たりにしているので、今更驚かれる事は無かった。突然の展開に焦る赤葦様を他所に、私は彼の腕の関節を極める振りをする。

「え、ちょっと、俺にやる必要ないでしょ…!」
「ふふ、冗談です」
「冗談には思えないから」

あの冷静沈着な赤葦様が慌てている姿が面白くて、クスクスと笑みを溢していると、赤葦様は簡単に私の手を解いて反対の手で掴んできた。そのまま体勢を崩されて、呆気に取られている内にストンと赤葦様の膝の上へ。その華麗な流れに抵抗する暇もなく、形勢は逆転してしまったのだった。

「あ…、あれ……?」
「体術を使えるのは貴女だけじゃないんですよ。相手がもし心得のある男だったら、簡単に組み伏せられます」
「う……」
「更に刃物や拳銃といった武器を持っていたら、それこそ貴女は、」

ぐちぐちと始まってしまった赤葦様の説教から逃れるために、そろそろとその膝の上から抜け出す。隣に座っていた白布様の方へと移動すると、前から抱き付くような形で白布様の体を漁り始めた。ごそごそと何かを探すように彼の軍服を捲ったり上から叩いたりする私に無言で反応せずにいた白布様だったが、溜息と共にようやく口を開いて。

「……何をしてる名無し」
「赤葦様に一本取られたのが悔しいので、ここは拳銃で…」
「……………」

コメカミを震わせながら、体を弄る私に耐えていた白布様だったが、やがて両肩を掴んで強引に引き剥がすと、私の両頬を寄せるように顔を掴んできて、じっとりとした目に睨まれた。よく太一様を叱っている時のような口調で、往生際の悪い私に顔を近付けてくる。

「持ってねぇよ」
「い…いひゃい……」
「言っても分からないなら体に教えてやろうか?」
「す、すいまひぇん……」

ようやく観念した私に手を離した赤葦様と白布様。きっと本気で私の身を案じてくれているのだろう。先日の事件でも、巻き込まれて危ない目に遭った。それもあってか、二人は過保護な程に何度も何度も私に言い聞かせてきたのだった。

「名無し、多少護身術が使えると言っても、無茶だけはしないように。もし相手が凶器でも持っていたら、いくら貴女でも敵いませんから」
「はい、気を付けます」
「何かあったらすぐに言え」

まあ大丈夫だとは思うけど、と付け加えながら珈琲に口を付ける赤葦様。こうしていつも心配してくれて、気を使ってくれて、みんなとても優しい。緩く微笑みながら気を付けますと言うと、よろしい、と赤葦様に頷かれる。のんびりと珈琲を飲みほして、束の間の休憩を楽しんだ彼らは、代金を置いて椅子から立ち上がった。これからまた戻って訓練なのだと言う。軍人様は忙しくて大変だ。白布様と赤葦様がマントを羽織るのをお手伝いしていると、振り向いた赤葦様が突然私を抱きしめてくる。

「午後の分を充電」
「あ、あかあしさま……」

ぎゅう、と抱きしめられて、髪に埋めた彼が甘えるように顔を摺り寄せてくる。恥ずかしさはあったものの、これで赤葦様が午後の仕事も頑張れるのなら、とそっと背中に腕を回す。大きな背中を優しく撫でてやると、一頻り堪能した赤葦様が満足そうな微笑みを浮かべながら、ゆっくりと体を離した。今度は白布様の番だ、と勝手に張り切る私は、一部始終を横目で見ていた彼に向かって両手を広げる。

「さあ、白布様!」
「え、」
「充電、どうぞ!」

面食らったような顔を浮かべる白布様にそう告げると、彼はほんのりと頬を赤くしてぎこちなく視線を逸らしながらもこちらに歩み寄ってくる。いつもご奉仕と称してもっと色々なことをしているのに、抱擁に照れている彼が何だか可愛らしくて微笑んでしまう。ぎゅっと抱きしめられて、赤葦様の時と同じように背中に手を回すと、ぽんぽんと優しく撫でてやった。しばらくそうした後に体を離されて、白布様を見上げる。

「…午後も頑張れそうだ」
「良かった…。また珈琲飲みに来てくださいね」
「いや、」

また来てくださいと言った言葉に否定を声を発した白布様。呆然と見つめる私に、悪戯げに笑う彼は、甘く囁いた。

「名無しのご奉仕を買うために来る」
「し、白布様!」
「じゃあな」

普段仏頂面でいることが多い彼のその笑顔が、珍しくて眩しい。外套を翻しながら店から出ていくその背中を見送って、どきどきと煩い心臓を抑えつつ片付けを始める。空になった二人分のカップを盆に乗せて、忙しなく厨房へと引っ込んでいく私の姿を、少し離れたテーブル席で眺める、1つの視線。またしても私は、その視線に気づかぬまま、その日の午後の仕事をこなしていったのだ。



ーーーー・・・・



そしてその時は、遂にやってきた。

夜、業務を終えてからカフェーにやってきた白布様と赤葦様と話している最中、パリーンと砕ける音が店内に響き渡った。そちらに視線を移すと、珈琲のカップを床に落として割ってしまったお客様が、おどおどと慌てふためいている。私は布巾を引っ掴んで急いでその場所へと駆け寄ると、動揺するその男性客に声を掛けた。

「大丈夫ですか?お怪我はありませんか?」

割れた破片などでどこか切っていないか、熱い珈琲が掛かって火傷をしていないか、確認する為にそう問いかけながら、その男性の顔を覗き込む。男性は、まだあどけない顔立ちの年下の学生の様で、学生服を身にまとい、黒縁の眼鏡をかけた大人しそうな人だった。私に覗き込まれて、ぎょっとした様子で一歩後ずさりしながら、コクンと何度も頷いている。とりあえず怪我がなかったことに安堵しつつ、床に散らばった破片と、零れた珈琲を手際良く片付けていった。

「良かった…。今新しい珈琲をお持ちしますから、少しお待ちを、」
「あ、あの!」

私の言葉を遮るようにして声を張り上げた男子学生は、真っ赤な顔のまま私の顔を見つめて目の前に立ちふさがった。「え、」と戸惑う私と、その光景を見ていた白布様と赤葦様が焦ったように立ち上がっている。相変わらずぎこない様子の男子学生は、ポケットに手を突っ込んでなけなしのチップを机に置いた。そして、その手で私の腕を掴むと、呆気に取られている内にちゅ、と軽い接吻を落とされたのだった。目を見開いて固まる私に、歯がぶつかるような少し下手くそな口付けを交わす男子学生。一瞬だけ重なってすぐ離れた唇をぽかんと見つめる私に対し、男の子は言った。

「ずっと…、ずっと好きでした!名無しさん!」
「へ……、」
「ご奉仕、また買いに来ますから!!」

それだけ言い残して、男の子は名前も告げず、椅子に置いてあった鞄を引っ掴んで店を出て行った。動揺しすぎて、途中で扉にぶつかったり転びそうになりながら、外を走って帰っていく。その背中をいつまでも呆けた様子で見守っていたが、ふと後ろに立つ人の気配に気付いて振り返った。

「…へえ……、生意気なクソガキがいるもんだね」
「最近の学生は随分とませてんな」

ひくひくとこめかみを震わせている赤葦様と白布様が、去って行った男子学生の後を見つめている。そしてその視線は、今度は私に注がれて。お前も何気安く口付けされてるんだ、と言いたげな、威圧的な目に足が竦む。怯えて肩を震わせる私の腕を掴んだ赤葦様は、自分たちが座っていたカウンター席へと引きずっていきながらにっこりと微笑んでいる。

「俺たちもお願いしようか、ご奉仕」

ばん、と叩き付けられるように出されたチップは、先程の男子学生が渡してきたチップよりも倍の金額が積まれている。年上としての自尊心なのだろうか。対抗心をメラメラと燃やしている二人に押されるがままに、私はその晩、二人にたっぷりとご奉仕をする羽目になったのだ。男子学生のような可愛い口付けなんてものじゃない。がっつり食べられるような接吻、抱擁、体中を弄る手。すっかり食い尽される頃には、私の息も絶え絶えで、逆に白布様と赤葦様の表情はどこかさっぱりしたような清々しい表情を浮かべていた。

「これが大人の力です」
「お…おふたりとも…、おとなげないです……」
「何とでも言え」

この時はまだ分かっていなかった。年下の男子学生からの、恋の告白。あの年齢になると、男子は誰もが年上の女性に憧れるものだ。きっとあの男の子も同じだろう。すぐに私のことなんて忘れて、一生を添い遂げたいと思うような存在が現れるに違いない。可愛らしい恋心に微笑んでいたこの時の私は、後にまたもや事件へと巻き込まれていくこととなる。あの男子学生を中心として、若者の間で逸る『心中事件』。それは、すぐそこまで迫っていた。