誓紙と切り指A

誰かに見張られているような視線。付けられているような気配。最近私が感じていた違和感は、日に日に大きくなり、やがてそれは徐々に姿を見せるようになった。

仕事を終えて、一人で夜道を歩く私は、この日もその気持ち悪い気配に急かされて、小走りで家の前へと辿り着いた。良かった、今日も何事も無かった、と思う反面、いつまでこんな状態が続くのだろうという不安も感じていて、流石にそろそろ警察に相談するべきかと悩んでいた。ふと頭に浮かぶのは、黒尾様たちの姿。黒尾様たちには常々、何かあったら相談しろとは言われているが、彼らも軍人として仕事をこなしている身。こんな民間人の女一人の相談に付き合っている暇は無いだろうと思うと、なかなかそうもいかなかった。

(とはいえ……、何の相談も無しに警察に行ったら、それはそれで気を悪くされるかしら…)

俺たちじゃなくて警察を頼るのか、なんて誤解される可能性もある。決して黒尾様たちが頼りにならないから警察に相談した、というつもりではないので、悩ましいところだ。そんな考えを頭に浮かべながら、いつもの様に玄関の戸に手をかける。すると、何だかいつもと違う感触を覚えて私は首を捻った。

(なに…?なんか取っ手の部分、汚れてる…?)

夜で灯りもないせいで、一体何の汚れなのかは確認できないが、確かに玄関の戸の取っ手に、ヌメヌメとした気持ち悪い汚れが付いていた。眉を顰めながら、手に付着したそれを確認しようと目の前まで掲げる。そこで初めて、私はその汚れを目の当たりにした。

白く濁った、液体。見てもよく分からない。兎に角粘り気があって、若干臭いもする。相変わらず正体の分からないその汚れに、己の手をじろじろと見つめる私。この時私は、背後に近付く人の気配に全く気付いていなかった。

その気配の存在を知ったのは、すぐ後ろで荒い呼吸を聞いた時。手の汚れに夢中だった私の耳元で、はぁ、はぁ、と繰り返されている。冷や汗が流れて、恐怖心からなかなか振り返ることが出来ない。そうしている内に、時が止まったかのように固まっていた私の着物に、何かがピュッと掛けられた。え?とその部分に視線を移すと、手に付いているソレと同じ、白い液体が染みを作っていて。その染みから糸を引いているのは、男の人だけが持つ、体の一部。

「……っ、いやあああぁ!!」

真夜中に、私の甲高い悲鳴が響き渡った。





ーーーー・・・・





「名無し?」
「えっ!?あ、はい!何ですか?」

翌日。普段と変わらぬ姿で出勤してきた私は、この間と同じ、赤葦様と白布様の二人組と共に、のんびりとした夜のひと時を過ごしていた。私なりに、いつも通りを装おうと頑張ってはいるのだが、どうしても思考が上の空になってしまう。今もこうして、ぼーっとしている私を案じた赤葦様が、こちらの顔を覗き込みながら「どうかした?」と心配してくれている。お客様に気を遣わせるなんて給仕として失格だと、自分自身を叱責しながら無理矢理笑顔を作った。

昨晩、私の身に起こった出来事。知らない男の人が背後に立っていて、あろう事か自分自身を慰めていた、あの夜の恐ろしい出来事。見知らぬ男性のそんな行為を目の当たりにした衝撃は大きく、同時に言い様のない恐怖に駆られて、ろくに寝れぬまま今日を迎えてしまったのだ。

あの後結局、悲鳴を聞きつけた父が家から飛び出してきて、謎の男は慌てて逃げて行った。警察を呼ぶと、『及川』と名乗る爽やかな風貌をした警察官が駆け付けてくれて、恐怖に震える私に一晩中優しく寄り添ってくれたのだ。私はその方に、今までずっと感じていた謎の気配のことも伝えて、その場は一旦御開きとなった。及川様は、「必ず犯人を捕まえます」と私に約束してくれて。きっとこの人なら捕まえてくれるだろうと思う反面、やはりそう簡単には、あの時の恐怖は拭えない。今も店内にいる男性が怖くて怖くて仕方がなかった。それは、赤葦様と白布様にも該当して。

「顔色悪いぞ」
「体調でも悪いの?」

こちらを覗き込む、二人の目。私の方へと伸ばされた赤葦様の手が、昨晩の男の手と重なって見えて、私は一気に顔を青くした。

「や、やめて!」

パシン、と叩き落とされた赤葦様の手は宙を彷徨い。呆気に取られる二人の顔を見た時に、私はようやく我に返った。何て失礼な事をしてしまったのか。この二人が、あの昨晩の男と同じな訳ないのに。さっきまで真っ青だった私の顔は、今度は今にも泣き出しそうに歪められていて、流石の二人も訳分からずといった様子で動揺している。

「お、おい、どうしたんだよ」
「ご、ごめんなさい……わたし…!」
「俺は気にしてないから」
「赤葦様……」
「……何かあったの?」

言え、とでも言うように貫く二人の目。もう、隠し通すのは無理そうだ。私は、ぐっと涙を堪えながらも、昨晩の出来事を全て二人に打ち明けることにした。少し前から感じていた不思議な視線のことも。赤葦様と白布様は、最後まで真剣に私の話を聞いてくれる。私が話し終えたその頃には、二人の表情は怒りに染まっていた。

「男の顔は見なかった?」
「怖くて見れませんでした…。頭が混乱してて…」
「無理もないな。突然そんな光景見せられたら、誰だってそうなる」

あそこで私がしっかりと顔を見ていれば、今頃犯人は捕まっていたかもしれないのに。それなりに護身術が使えるから、と赤葦様と白布様相手に偉そうな事を言っていた自分が恥ずかしい。いざああやって自分の身に危険が迫ると、恐怖で体は全く言うことを聞いてくれなかった。私がどれだけ甘い考えだったかを思い知らされたのだ。

「やっぱりお前を一人で帰すべきじゃなかった。俺たちの落ち度だ」
「そ、そんな…、お二人のせいでは…!」
「これからは俺たちがまた家まで送ってくよ」

只でさえ忙しいのに、こうしてまた彼らの負担を増やしてしまって、情け無さから再び目から涙が溢れる。それを拭おうとして手を伸ばしかけた白布様だったが、私の先程の、赤葦様に対する反応を思い出したのか、一度上げた手をゆっくり下ろしていった。昨日の件で男性に対して敏感になってしまっている私を気遣っての行動だろう。私はそんな二人の手をぎゅっと握り締めた。

「…おい、触っても平気なのか」
「お二人は違いますから。さっきは少しびっくりしてしまっただけです」
「無理しなくていいよ。俺は本当に気にしてないから」
「む、無理なんかしてません!」

ムキになって否定する私を、赤葦様も白布様も戸惑いながら見ている。私はそんな二人に更に詰め寄って、こう言ったのだ。

「い、いつもの、早くして下さい」
「いつもの…?」
「ご奉仕です!チップ、持ってきてるのでしょう?」

何かに焦っているかのような私の剣幕に、二人は押される一方だった。「おい、」と止める白布様の声も無視して、二人の軍服のポケットを漁る。彼らが私に触れられる唯一の方法。『チップを頂いてしまったから』という理由さえあれば、私は二人に触れられる事を許される。触れてもらえる。私は、早く赤葦様と白布様に触れて欲しかった。

「名無し、落ち着いて下さい。今日はそんな気分じゃ、」
「嫌です!お願いします、ご奉仕させて下さい!」
「馬鹿…っ、やめろって!」

二人の制止を振り切って、彼らの体を隈なく探していると、その手を白布様に掴まれた。ぐい、と引き剥がされて、交わる三人の目。この攻防によって若干息を切らした白布様が、私をそのまま机の上に倒して押さえつけた。

「無理すんじゃねぇ。別に俺らはその為だけにここに来てる訳じゃ、」
「触れられたいんです」
「…名無し、話を、」
「消して欲しいんです。二人の温もりで、昨晩の記憶を」

目を見開く赤葦様と白布様の顔が、私の上で固まる。無理して言っている訳ではない。先程手を払ってしまった事への罪悪感から言っている訳でもない。これは紛れも無い、私が今抱いている欲望。赤葦様と白布様に、触れられたい。

「…あんな恐ろしい記憶、思い出せないほど二人に夢中になりたいんです」
「…………」
「私を、お二人でいっぱいにしてください」

面食らった顔をしていた二人は、私の言葉を聞いてゆっくりとその表情を真剣なものへと変えて行った。真っ直ぐこちらを見下ろす、熱のこもった瞳。その瞳に射抜かれるだけで、私は全身が熱くなる。そうだ、この感覚だ。彼らに触れられている時、いつも私は頭がいっぱいになっていくんだ。他のことなど考えられない程に、のめり込んでいく。私はその感覚を求めていた。

「……いいんだな」
「後で止めても、もう聞かないよ」
「……はい」

こくんと頷く私を確認して、二人はようやくいつものチップを取り出した。私から目を離さぬまま、片手で机にそれを置く。そして白布様は、机の上に上半身を倒す私に口付ける為、その腰を折って上にのし掛かってきた。かかる体重と、白布様の胸板に押し潰される、私の胸。押さえつけられていた手は、指と指を絡め合うように、どちらからともなく握り締めた。

「ん……っ、」

静かに重ねられた唇は、緩く首を傾けた白布によってより深く繋がって。ちゅぷ、じゅぱ、と音を立てるこの行為を、誰かに見られていないかと一瞬辺りを見回したが、時間も時間な為、店内の客は疎らで、しかも他のテーブルもどうやらご接待中のようだ。じゅう、と私の舌を吸い上げた白布様が、満足げにゆっくりと唇を離す頃、私の呼吸はすっかり上がってしまっていた。目をとろんと垂れさせ、口端から溢れた唾液を拭おうともせずに顔を蕩けさせていると、上に乗っていた白布様が赤葦様と交代する。

「エロい顔してる、名無し」
「あ……、あかあし、さま……っ」
「自分からおねだりするなんて、すっかり体に叩き込まれてんな」
「昔はちょっと手を握るだけでも顔真っ赤にしてたのにね」

私たちが出会ったばかりの昔の話を持ち出されて、二人は懐かしむように笑っている。そういえばそんなこともあったと私も記憶を蘇らせた。そうだ、私は皆さんのせいで、変わってしまったんだ。会えない日はとても苦しいし、皆さんに触れられたいと思ってしまう。皆さん以外の男性なんて、興味がない。私の体にそれを叩き込んだのは、紛れも無く皆さんなのだから、しっかり責任を取って貰わないと。

「名無しに怖い思いをさせた男は当然許さないけど、名無しにも怒ってるからね」
「え、」
「俺たちには言わない癖に、警察には頼りやがって」

拗ねたような表情を見て、私はつい笑みが溢れた。やっぱり。昨日私が想像した通りだ。警察に相談したらきっと、『俺たちには言ってくれないのか』と拗ねるだろうと考えていた私のその予想が、ドンピシャに当たって、愛おしくて堪らない。私のその笑みに少し驚いていた二人だったが、徐々に頬を赤くさせてより不機嫌そうな顔をした。

「……何笑ってんの」
「いえ、可愛いなって」
「馬鹿にしてんだろ」
「し、してないですよ!可愛いは褒め言葉ですから!」
「嬉しくねぇっつーの」
「わ、私は嬉しいですよ?可愛いって言われたら!」
「可愛いよ、名無し」
「可愛い名無し」
「も、もう!馬鹿にしてるでしょ!」

倒されたままの私の上に被さる、大人の男二人。彼らの熱い吐息を感じていると、不思議とさっきまでの怖い気持ちは消えて行く。やっぱり皆さんの持っている力ってすごい。いつだって私のことを、こうして助けてくれるのだ。ちゅ、ちゅ、と降ってくる赤葦様の柔らかい唇と、耳元で甘く掛けられる白布様の吐息。そのまま私は、二人に存分に可愛がって頂いて、いつもの夜を送ったのだ。





ーーーー・・・・




「名無しが付き纏われてる?」
「はい」

名無しを家まで送り届けて帰ってきた赤葦と白布は、その足で真っ先に自分の上司の元へと向かった。深刻な顔をした二人から報告を受けた黒尾は、くるりと振り返ってその表情を険しくさせた。手に持っていた書類を置いて、二人を交互に見る。

「目星は?」
「付いてます」

赤葦と白布には、既にその犯人が分かっていた。カフェーにいた時に感じた、鋭い視線。彼らが名無しのご奉仕を受けている最中、少し離れた席から此方を睨むように見つめる少年の姿があったのだ。赤葦と白布は、その少年のことを知っている。学生服を着て、机に勉強道具を広げていた、あのませた少年だ。名無しのご奉仕を買うと言って、小遣いを奮発していた彼の異様な眼差しに、二人は勘付いていたのだった。

「まだ証拠はない。今は泳がせるしかない」
「その間、俺たちは名無しの監視に付きます」
「応援が欲しいなら俺たちも動くけど」

黒尾の言葉に、赤葦は首を振った。

「…俺たちにやらせて下さい」
「…………」

その真剣な眼差しを、じっと見つめ返す黒尾。しばらく緊迫した雰囲気がその間を漂っていたが、やがて黒尾は糸が切れた様に深い息を吐き、小さく笑みを浮かべた。

「俺も丁度別件で手が離せねぇから、今回の件はお前らに任せるわ」
「ありがとうございます」
「その代わり、他所に取られんなよ」

それは、手柄を取られるなという意味か、それとも、彼女を取られるなという意味か。今回の件は、警察の耳にも入っている。恐らく彼らも動き出すだろう。どちらが先に解決するか。優秀な黒尾の部下二人は、珍しく静かに燃えていたのだった。