誓紙と切り指B

「こんばんは、名無しちゃん」
「及川様…!」

夜、店に訪れたのは、警官の服を纏った整った顔をした男性。その名を、及川徹というらしい。私が例の事件の被害に遭った時、真っ先に駆けつけてくれたのが彼だった。そこで出会いを果たした私たちは、それからというものの、見回りも兼ねてこの店に立ち寄ってくれるようになった。にこりと人の良い笑みを浮かべて入店してきた及川様は、知ってか知らずか、いつも黒尾様たちが座るカウンター席に腰を下ろして。まだ閉店まで少しだけ残された時間、及川様は「珈琲でも飲んで待ってるよ、1つ頂戴」と言って、私の仕事終わりを待ってくれていた。

「あれから何か変わった事とかない?」
「いえ…特には…。あちらも、警察の方々を警戒して身を潜めているのでしょうか」
「かもしれないね…。けど、多分まだ諦めてはないだろうから、引き続き注意するように」

私の後をつけ、あんな行為にまで及んだ人物だ。簡単に諦めてくれるとは、私も思ってはいなかった。あの件以降、私はすっかり一人で歩くことが怖くなってしまった。今はこうして、警官の及川様や、赤葦様白布様が帰り道を送ってくれているが、それでも後ろが気になって仕方がない。完全に私の心は恐怖に支配され、あの時の記憶が忘れられないまま日々を過ごしていたのだった。

「一日でも早く犯人を捕まえて、名無しちゃんが安心して外を歩けるように、及川さん頑張るからね」
「及川様…。ごめんなさい、私があの時ちゃんと顔を見ていれば、もっと…」
「そんな事謝る必要ないの。犯人を捜すのは俺たちの仕事なんだから」

しょんぼりと項垂れる私の頭を、及川様の優しい手がぽんぽんと撫でてくれる。まだ彼とは出会って間も無いが、何となく女性に人気がありそうな方だなと感じていた。現にこのカフェーの他の女給たちは、及川様が来店するといつもより背筋が伸びているような気がするし、彼自身の行動や言動も、紳士的という言葉を体現したかのよう。何よりも、まるで絵画のような顔立ちは、きっと数多の女性の心を鷲掴みにするだろう。

今日も帰りを送ってくれるという及川様に、そっと珈琲を差し出す。ありがとう、とこれまた爽やかな笑顔を浮かべて、優雅にカップを手に取った。珈琲が似合う日本男児がいるなんて、とその仕草に目を奪われて。整った唇が、カップの縁に付いた瞬間。

「ぶっ!!!あっつ!!!!」

勢いよく吹き出した珈琲。紛れも無く、及川様の口から噴射されたその珈琲は、前に立っていた私のエプロンの胸元に黒い染みを作っていく。しかしそんな汚れを拭き取ることも忘れて、私は目の前で起こった光景に固まっていたのだった。

紳士的で、優雅で上品な雰囲気を持っていた筈の及川様が、今何をした?そう頭の中で自問する。一方で及川様も、顔を引攣らせながら慌てて咳払いをし、「いや、今のはその、ちょっと驚いただけだから」と弁解していた。見兼ねた他の女給が布巾を持って行くと、ありがとうと手を上げながらそれを受け取って、机に溢れた珈琲を拭いている。

「いや、及川さん本当はこんな感じじゃないから。いつも気品溢れる大人な男だから」
「はぁ……」

何も言ってないのに一方的に言い訳を並べる及川様。私はといえば、ただ吐息が漏れるだけ。どんどんボロが出始める彼にぽかんと口を開けて立ち尽くす。もしかして及川様って…。

「名無しちゃん?名無しちゃんってば!」
「あ、は、はい!」
「ここ、珈琲付いてる」

申し訳無さそうな顔で、及川様は私の胸元を指差した。見下ろすと確かにそこには黒い汚れが完全に染み込んでしまっている。珈琲の染みは洗っても取れない程にしつこい事は、女給という職業柄熟知している。これはもう新しい物を貰うしかないな、と胸元を見下ろす私に、及川様はどこか悪戯げな怪しい笑みを浮かべて、布巾を手に取った。

「拭いてあげる」
「え?」

ぽかんとする私を他所に、及川様は私の腰を抱いて引き寄せた。ぐっと近付く二人の温もりに、私の脳内は一瞬にして混乱する。これは一体どういう状況なんだ、一体何が起こっているんだ、と理解する間もなく、及川様の手に握られた布巾はぽんぽんと私の胸元を叩いた。「取れないね」なんて、そんなこと分かり切ってる癖に。こんな布で拭く程度で、簡単に取れる汚れなら苦労はしないだろう。ちょっと、と顔を赤くする私の抵抗を抑え込んで、ぎゅっと強く私の胸に布巾を押し当てると、彼は吐息のかかる距離で囁いてきたのだった。

「…知ってるよ、名無しちゃん」
「え…」
「軍人に随分と人気があるんだって?」
「な……、」

その言葉によって、頭に浮かんだのは黒尾分隊のお馴染みの顔。元々紅に染まっていた頬は、更に赤が増し。何も答えない代わりに、私のその頬が及川様からの問いかけを肯定していた。「ふーん」とつまらなそうに相槌を打って私を見下ろしていた及川様は、ついにその手でやんわりと胸を包み込む。それは最早、汚れを拭くという行為よりも、もっと別の…。

「随分と可愛がられてるみたいだね」
「な、なんのことですか…!」
「毎日毎日、名無しちゃん目当てでやってくる軍人さんに、すごく素敵なご奉仕をしてるとか何とか」
「え!?ど、どこでそんな事を…!」
「いいなあ、及川さんにもそのご奉仕頂戴?」

徐に取り出したチップは、机の上に転がる。黒尾様たちがそうするように、及川様も慣れた手付きで私にチップを貢いだ。初対面な筈なのに、この知ったる風な口ぶりは何なのだろう。黒尾様たちの存在を、どこで知ったのか。私には聞きたいことだらけなのに、密着する体や及川様の手付きに翻弄されて、思うように言葉が出てこない。やっと疑問を口に出せても、彼はまるで聞こえていないとでもいうかのように、言いたいことを次から次へと重ねてくるだけ。コーヒーで汚れたエプロンの上に重ねられた、布巾。そして更にその上に重ねられた及川様の手は、私の胸をやんわりと包み込んでいて、どくどくと高鳴る心臓が直にその掌に伝わっていた。

「すごいドキドキしてるね」
「そ、それは…!及川様が…!」
「俺が、なに?」
「…あ……、そ、れは……」
「こんなこと、いつもアイツらにやってるんでしょ?」

徐々に近づいてくる、その端麗な顔。接吻しようとしている事は、流石にこんな状態の私でもすぐ理解できた。駄目、このままじゃ、と頭の中では警鐘を鳴らしているのに、体は鉛が付いているかのように重くて動かない。…いや、動かそうとしてないだけなのか。自分で自分の気持ちが分からなかった。私は、及川様の接吻を受け入れようとして、拒めずにいるのか。ぐるぐると回る思考もそのままに、後ほんの少しで唇が重なる、その寸前だった。及川様は突然ぴたりと動きを止めて、扉の方へと視線を移したのだ。

「…………」
「お…、及川様……?」
「…名無しちゃん。今日の業務はもう終わり?」
「え?あ、はい。もう閉店の時間ですし、私もそろそろ上がりますけど…」
「じゃあ急いで支度して。家まで送っていくから、一緒に帰ろう」

あっさりと離れていく体に、私は拍子抜けした。突然どうしたんだろう。私はてっきりあのまま接吻を交わしてしまうかと思っていたのに。と、そこまで考えてハッと我に返った。これではまるで、及川様との接吻を期待していたみたいだ。なんてはしたない女なのだと自分を叱責し、言われるがままに返事をして慌てて裏へ引っ込んだ。未だ鳴り止まぬ心臓に手を当てる。まだそこには、及川様の手の感触が残っている。最近はこんなことばっかりだ。揺れ動く曖昧な私の心は、いつもこうして彼らに転がされて、悩まされるのだ。

そうして私は、及川様に急かされて帰り支度と片付けを終え、まだ店に残る店長や他の女給たちへの挨拶もそこそこに、慌ただしくカフェーを後にするのだった。惜しくもその数刻後、カフェーに息を切らしてやってきた赤葦様と白布様の姿。

「名無しは」
「残念、もう攫われちゃったよ」

息を切らす赤葦と白布に、「若いねぇ」と楽しそうに笑う店長の言葉を受けて、二人は遠慮もせずに舌打ちを溢した。窓の外を見ても、彼女らしき人影はない。どうやら先を越されてしまったようだ。

「…やられた…」

頭に浮かぶのは、憎たらしく笑う警察官の男。恐らく、赤葦たちがこの店にやってくることを見越して、確信犯で名無しを連れ出したのだろう。あの男がやりそうなことだ。赤葦たちを弄んで楽しんでいる。女性には紳士的だが、男性に対しては女々しい程に意地悪で、卑怯な手段を閃くどうしようもない男である。

「…本当に、相変わらずですね及川さん…」

小さく呟いた赤葦の言葉は、珈琲の湯気のようにぼんやりと店内に消えて行く。及川のことは、赤葦たちも嫌という程知っていた。彼らは、決してただの軍人と警察官という間柄ではなかったのだ。



ーーーー・・・・




「え…!?及川様って、元々軍人だったのですか!?」

家までの道中、及川様の口から語られた昔話は、とても衝撃的なものだった。と同時に、彼が妙に黒尾様たちについて知っていることも納得がいく。及川様の話によると、彼は警察官になる前、黒尾様たちと同じ軍人として、共に鍛錬を積んでいたのだと言う。驚く私の視線を受けながら、及川様は昔を懐かしむように夜空を見上げた。口から洩れる白い息は、夜の空に溶けて消える。

「懐かしいね。まだ俺も黒尾も、軍に入ったばっかのヒヨッコで、よく上官からしごかれてたよ」
「そうだったんですか…。だから、黒尾様たちのことも知っていたんですね」
「まあね。昔の縁ってやつかな。決して仲良くはないけどね」

悪戯げに笑う及川様を見て、頭の中で軍服を纏った彼を想像した。今の警察官の制服もとてもかっこよく着こなしているが、軍服もまた似合いそうだと心の中で吐息を漏らす。しかしそれと同時に、何故彼は今、軍人ではなく警察官になっているのかという疑問も生まれた。不思議な経歴を持つ及川様に、どんどん興味を引かれていく。もっと知りたいという想いは、表情にも表れていたようで。どうして警察官になったんですか?という質問を言葉にする前に、及川様はその答えを語ってくれた。

「警察官って、割と軍人上がりの人が多いから、別に珍しい事ではないんだよ」
「そうなんですか…?」
「うん。軍人を退役した人が警察官になったり、普通に軍人を引き抜くこともあるよ。俺も引き抜かれた口だから」
「ということは、及川様はすごい軍人さんだったのですね…!」
「まあねぇ。及川さん、すごいんだよ」

ぐぐん、と自慢げに鼻を伸ばす及川様を横で見て、ぱちぱちと拍手を繰り出す。引き抜かれるというとこは、それだけの才や活躍があったという事なのだろう。警察官となった及川様を素直に讃え、尊敬の眼差しを送っていたのだが、彼の自信溢れる表情は、一瞬にして曇りを帯び。伏せられた物憂げな視線に、私の拍手をする手もぴたりとやんでしまった。

「俺がお世話になった人がさ、退役したんだ。入畑少将…、俺が軍に入った頃から、ずっと色んな事を教えてくれた恩師みたいな存在なんだ。あの第1次世界大戦でもすごい活躍したらしいよ。まあ自称だけど」
「なぜ…退役されたのですか?」
「そんな大した理由じゃないよ。歳もいい歳だし、体のあちこちに持病を抱えててね。軍人として今後も働き続けるのは厳しいだろうって、そんな理由」

今の及川様を育てた、入畑様。一体どんな方なのだろう。きっと物凄く立派な方に違いない。だって、こんなに立派な及川様を作り上げた一人なのだから。及川様も、自分のその恩師を頭に思い浮かべているのだろうか。安らかな笑顔を浮かべて、1つ1つ噛みしめるように言葉を紡いでいく。

「俺は、その入畑少将に引っ張られて、警察官になったんだ。俺が付いて行く人はこの人だ、ってずっとそう思いながら、がむしゃらに働いてきたからね。その人の元で働けるなら、職業なんて何だっていい。俺は黒尾たち程、軍人という立場に拘りは無いからさ」
「尊敬しているのですね、その方のこと…」
「うん。まあ、恥ずかしくて本人には言えないけど」
「私も、人を決意させたり、突き動かしたりするほどの何かを持っている方って、本当に尊敬します。“この人の為なら”って思われる程の魅力を持っていたり、惹きつける力を持つ人間になりたいと思っても、努力だけではなれませんから」

私も会ってみたいです、入畑様に。そう微笑みかけると、及川様は私を細めた目で見下ろした。優しそうな、愛おしそうなその表情に吸い込まれる。頬を優しく撫でる手は、冷たい夜風とは反対にとても暖かくて、熱が篭っていた。

「……もう十分なれてると思うよ、名無しちゃんは」
「え…?」
「だって、君の為なら命すら簡単に捨てそうな奴らが、すぐ傍にいるでしょ?」

街中を歩いていても目立つ、真っ黒な黒衣に身を包み、背筋をぴんと伸ばした彼らの背中が蘇る。いつも傍にいてくれて、自分の身よりも何よりも、私のことを守ってくれる。大切にしてくれる。そんな存在が、確かに私にはある。贅沢な話だ。一人だけでは飽き足らず、そんな存在が5人もいるというのだから。私はなかなかの贅沢者なのだろう。私が彼らのことを思い出しているのが、及川様にもバレバレなのか。及川様は、足を止めて私に向き直った。

「黒尾たちの幸せを願う君に、こんな事を言うのもどうかと思うけど」
「…はい」
「俺はいつまでも、軍人は“疎ましいと思われる存在”でいて欲しいと思うんだ」
「え?」
「だって、軍人が褒め称えられる時って、それは…」


…戦争が始まる時だから。及川様は、はっきりとそう口にした。名も顔も知らぬ人同士が、殺し合う。国の為に、その命を懸けて。戦地に赴く軍人は、国民の万歳三唱を受けながら出発する。そして、たくさん人を殺し、成績を残した者程讃えられる。日本の為に戦った、愛国心の強い男だと。逆に戦争を拒み、争いに怯える者は軽蔑の目を向けられる。及川様が言いたいのは、それだった。彼は、勇気ある青年だったのだ。国の為に戦いたいです、と胸を張る若者の中でたった一人、ずっと疑問に思っていた。みんな怖い癖に。死にたくない癖に、どうして自ら戦争を望むのだろう、と。そうすることでしか、彼らが軍人として汗水垂らして働いた事は、刻まれないのだろうか、と。

「俺は、国の為に働きたいんじゃない」
「及川様…」
「人の為に、働きたいんだ」

その強い意思を宿した目は、私に一直線に注がれている。

「だから願うことならば、いつまでも軍人が“税金泥棒の怠け者”として扱われる時代が続けばいいと思うよ。…彼らが賛美を受ける時なんて、絶対に来ちゃいけないんだ」
「……及川様…」
「勿論、黒尾たちが戦争をしたがってるって言ってる訳じゃないよ。アイツらは純粋に人の為に働いているし、そんな自分たちを認めてほしいと思いながら、反骨精神でのし上がってきたことも知ってる。だからこそ、正当に評価されて欲しいって思う」
「私も…、及川様と同じ気持ちです。もっと別の方法で、黒尾様たちが生きやすい世の中になってほしいと思います」

脳裏に一瞬だけ浮かんだ、敬礼をする黒尾様たちの姿を振り払った。そんなの嫌だ。絶対に駄目だ。戦争は、悲しさしか生まない。大切な人たちが傷付き、傷つけ合う。生き残っても、その心に刻まれた傷は永遠に消えない。一生その苦しみを背負いながら、生きていかなければならないのだ。戦いからは、何も生まれない。そんな事は、誰もが知っている筈なのに。

まるで明日にでも黒尾様たちが出兵してしまうかのような不安で、私の表情はぐにゃりと歪んだ。及川様が、そんな私を見て口元を緩め、「大丈夫だよ、戦争なんてもう起きない」と気休めの言葉をくれた。戦争が起こらない保証なんてないけど、でもその言葉だけで私の心の不安はすっと消えて行く。まるで魔法のように、及川様はいつも私の恐怖を取り除いてくれるのだ。

「男って、そう簡単には死なないんだよ」
「…そう、なんですか?」
「うん。守りたいものがあるとね、死ねないんだ」

死んでも死ねないんだ、と真剣な表情で繰り返した及川様は、そのまま自然な流れで私の唇に己の唇を重ねた。彼との寒空の下での接吻は、冷たくて、温かくて、ほんのり甘い味。「これ、送迎の代金ね」と悪戯げに笑う彼に意識を奪われて気付かなかったが、どうやら私は、とっくに家の前までたどり着いていたらしい。役目を終えて帰っていく背中を見送りながら、私は思いを馳せる。会いたい。何だかとても、みなさんに会いたい気分なのです。そして、伝えたい。ずっとあの店に…珈琲を飲みに来てくれますよね?って。確認したいのです。