誓紙と切り指C

目が覚めた時、辺りは一面火の海だった。揺らめく炎は家屋を燃やし、徐々に倒壊を始めている。煙が立ち込めるその一室で、私はけほけほと咳込みながらゆっくりと体を起こした。一体何が起こっているのだろう。こうなる前の記憶を遡る為、辺りを見回していると、すぐ傍で倒れる1つの人影があった。その姿を見て、私の記憶は一気に数時間前へと逆戻りしたのだった。

そう、始まりは、不気味な視線を感じていたあの日から。ずっと、ずっと私の背後に忍び寄っていたのだ。世間を騒がせた、ある有名な作家の心中事件。まさか私が、それに巻き込まれるなんて。




ーーーー・・・・




その日、店には例のあの男子学生がいた。数日前、私にチップを押し付けてご奉仕を買っていった、学生服に身を包み、眼鏡をかけた控え目な男子学生。その男子学生が、私が一人でいる時間帯を狙って声を掛けてきたのだ。「勉強を教えてくれませんか」と。正直私には、人に教えられる程の学はないので、最初の内はやんわりと断っていた。しかし、それでもなかなか引き下がらない男子学生についに折れて了承し、待ち合わせ場所のメモを渡されたのである。てっきりこのカフェーでやるものかと思っていたので、まさか場所を移すことになるとは。

翌日、丁度良く仕事が休みだった私は、一人でその紙に記された場所へと向かった。休暇の日は、これといって黒尾様たちとも連絡を取るようなことはしていない。あの方たちと会ったり話したりするのは、いつも私が仕事の時だけ。意外にも、こうしてお休みの時にお店以外で会った事は殆ど無いのだ。まあ、お忙しい彼らにお願いしなくとも、日が沈む前に家に帰って来れば大丈夫だろう、とそんな事を呑気に考えて、勉強の合間にあの男子学生と一緒に食べられるような軽食を片手に、私は指定された目的地へとたどり着いたのだった。

小さな、こじんまりとした家屋。ごめんくださいと玄関に声を掛けると、例の男の子が着物姿でひょっこりと顔を覗かせて。いらっしゃいませ!と可愛らしい嬉しそうな笑顔を浮かべながら、私を出迎えてくれた。お邪魔します、と家の中に入ると、てっきり両親がいるかと思っていたのだが人の気配などなく、「ご両親は?」と問いかけると、「出かけているんです」と答えが帰って来た。しかしこの時の私は、それに対しても特に不審に思うこと無く、居間へと通されたのだった。

「私が教えられるかどうか分からないけど…」
「いえ、いいんです、勉強は。名無しさんとこうして二人きりになれた事が嬉しくて」

机の上に広げられた書物を前にして、私は不安の声を漏らしたが、男子学生は頬をうっすらと赤く染めながらそんな事を呟いた。きょとんと面食らう私は、そういえば彼と初めて言葉を交わした時、『ずっと好きでした』と告白紛いな事を言われたなと思い出す。このくらいの年頃の男の子は、年上の女性に憧れたりするものだ。私はその好意を本気にはしていなかったが、無下にするのも失礼に当たるだろうと考え、人の良い笑みを浮かべながら、「ありがとう」と頭を撫でてやった。何だか可愛らしい少年だ。精一杯背伸びをしようとしているその姿に、少しだけ母性本能が擽られる。黒尾様たちは、今よりもっと若い頃、どんな少年だったのだろうか。頭の中で彼らの少年期を想像して、ハッと我に返る。また私は、気付かぬうちに黒尾様たちのことを考えてしまっていた。慌ててぶんぶんと首を振ってかき消すと、訝し気な顔をした男子学生の瞳が、私を射抜いて。

「…名無しさんって、」
「うん?」
「あの軍人たちのことが好きなんですか」
「え!?」
「あの内の誰かと、お付き合いしているんですか」
「お、おつ…!?」

突然の質問に、私は素っ頓狂な声を漏らして一気に顔を真っ赤にする。私が、黒尾様たちを、好き?誰かと、付き合う?彼らと恋人になった時の事を色々と妄想し、更に顔の熱を爆発させた。こんなしがないカフェーの女給如きが、彼らに想いを寄せるだなんて、おこがましいにも程がある。黒尾様たちは立派な軍人様だ。私よりも、もっと彼らの隣を歩くのに相応しい女性が要る筈…。と、そこまで自分で考えて、一人で切なくなる。もし、黒尾様たちにそういった存在が出来たら、もうあのカフェーには来てくれないのだろうか。私のご奉仕を、買ってくれなくなってしまうのだろうか。いや、そんなの当たり前か。恋人がいながら、カフェーの女給の奉仕なんか買っていたら、それこそ最低な男である。不義を嫌う、真っ直ぐな彼らのことだから、きっとその時はすっぱりと私との縁を切るのだろう。私なんかがこれ以上を望んではいけない、と思う反面、いつか来るであろう別れの時を恐れている自分がいる。黒尾様たちの幸せを心から願っている筈なのに、誰にも渡したくないという、私の身勝手な独占欲。私は、きっともうとっくに、

「…好き、なんだと思います」
「え…」
「黒尾様たちのこと、好きなんだと思います」

まさか私がここまではっきりと肯定するとは思っていなかったのだろうか。男子学生は目を大きく見開きながら言葉を失っていた。彼らの内の、誰が好きなんだと問われると、まだはっきりとは分からない。私なんかが好きになっちゃいけないという葛藤や迷いもあって、『この人が好き!』とはっきり言えるまでは自分の中でも答えが見つけられていないのだ。しかし、彼らが私にとってかけがえのない大切な存在である事は事実。きっと、彼らが他の女性と仲良くしている所を見たら、私如きが偉そうに嫉妬をしてしまう自信がある。きっと私は、彼らが好きなのだろう。

「誰が好き、とはまだはっきり言えないけど…。特別な存在であることには間違いない、かな…。こんな私が、軍人様を好きになるなんて、本当におこがましい話ですけど…」
「……そう、ですか」
「あ、あの、これは、黒尾様たちには秘密にしてね…?」
「…ええ、大丈夫ですよ、心配しなくても。告げ口なんてそんな事、僕には不可能ですから」

ゆらり、と立ち上がった少年。私が驚いたようにその動きを見上げていると、彼は台所の方へと姿を消してしまった。突然、居間に一人残された私は、動揺を隠せない。一体どうしたのだろう。私が彼からの質問に答えたら、なんだか人が変わったようにがらりと雰囲気が一変してしまった。何か気が障るような事でも言ってしまっただろうか。お前みたいな女如きが軍人に好意を寄せるなんて、と嫌悪感を抱かれたのかもしれない。だとしたら謝らなくては、と慌てて立ち上がった私の前に、彼は台所から戻ってきて。

「もう死ぬんだから、何も心配はいりませんよ」
「え?」

少年の言葉の意味を、理解することが出来なかった。間抜けな声を漏らす私の前に、彼は両手にぶら下げたバケツを掲げる。そのバケツには、何か透明な液体が並々と注がれていて、異臭を放っていた。この匂い、もしかして…、

「燃料油…!?」
「一緒になりましょう、名無しさん」

男子学生はそう笑った後、持っていたバケツを自らの頭上でひっくり返し、頭から燃料油を被った。全身ずぶ濡れになった彼は、空になったバケツを放り投げ、もう片方の燃料油を私目掛けて掛けようとしてくる。大人しくして、と呟きながらこちらに歩み寄ってくる少年。私は、そんな彼をじっと見据えると、掴み掛ろうとこちらに伸ばした手を握り、ふ、と呼吸を置いてその脇下に潜り込んだ。綺麗に決まる、一本背負い。こういう時、私に柔術をたたき込んでくれた父親に、感謝の気持ちが込み上げてくる。何かと女性に不利な今の世の中、こういった状況に陥っても、並大抵の人ならば自分であしらう事が出来る。

畳みに勢いよく体を叩き付けられた少年は、そのまま持っていたバケツもひっくり返して、こぼれた燃料油が畳に染み込んでいった。部屋に充満する、油の匂い。この油で、一体この少年は何をしようとしているのか。その企みは未だによく見えないが、何か良からぬ事を考えていることは明白だ。痛みに顔を歪めて蹲る少年を見下ろし、私はぱんぱんと手を払うと、人並みな説教の言葉を掛ける。

「馬鹿な事を考えるのはやめなさい。死ぬだなんて…そんな事、両親が聞いたら悲しみます」
「…僕に両親はいないよ」
「…え…?」
「戦争で、父も母も死んだ。今は親戚の人のところでお世話になってるけど、僕なんてよそ者扱いで居場所もないし」

ゆっくりと体を起こした少年は、吹き飛んだ眼鏡を拾ってかけ直す。油で濡れたままの恰好で私に再び向き直ると、ずっと秘めていたその想いを、全て打ち明けてくれた。そして、彼が何を計画し、私をここまで呼び出したのか。その計画を企てるまでの彼の気持ちと経緯を、全て。

「荒む僕の心を救ってくれたのは、貴女だった。名無しさん」
「わ…、私…?」
「なけなしの小遣いで貴女が働くカフェーに行って、初めて西洋の真っ黒なお茶を頼んだ時…、僕の席までそれを運んでくれたのが貴女だった。熱いから気を付けて下さいね、ってそう言ってくれた貴女の笑顔が、ずっと忘れられなかった。貴女にとっては、ただの客の一人。いちいち覚えてはいなかったでしょうが」

正直、彼の言う通り、私はそんなやり取りを彼と交わした事を一切覚えていなかった。珈琲をお出しする時、私は全てのお客様に、「熱いのでお気をつけてください」と言うようにしている。万が一お客様が熱いまま口につけて、口内を火傷してしまったら大変だからだ。だから、少年に掛けた言葉も、普段から心掛けている声かけの一つで、そこに特別な意味など無い。1日に何人ものお客様を捌かなきゃならない中で、正直よっぽど印象に残るような人でなければ、記憶に留めることは難しかった。

「僕の事を心配してくれた、心優しい女神のような存在で…。なのに…、あの男共は…、貴女を悪戯半分で穢して…!!」

怒りを滲ませる少年の脳裏には、忌まわしい軍人5人の姿が蘇っている。私にご奉仕と称してチップを貢ぎ、色々な事をしたり要求したりする黒尾様たちのことが許せなかったのだ。ここ最近、店でも感じていた鋭い視線は、全てこの少年のもの。私に触れようとする男たちを睨む、この男子学生の視線であった。そこまで話を聞いた私は、ふとある説が頭の中を過った。店内で感じていたあの視線が、彼のものだったとするならば。もしかして、私がここ最近ずっと感じていた視線は、

「も、もしかして…、あなたは……」
「…名無しさんが、どこぞの男に穢されないか見張るのは、相当大変でしたよ。僕の美しい女神に、他所の男が触れるなんて、そんなこと絶対に許せない…」
「私の後をずっとつけていたのは、貴方だったのね…」

ということは、数日前の、あの出来事。私の背後に立ち、自らの欲求を一方的に慰め、私に恐怖を感じさせた事件。あの正体も……、

「すごく興奮しました。僕を見る名無しさんの目が恐怖に揺れていて…、ずっと我慢していた欲望がつい溢れてしまいましたよ…」
「ひっ……、」

一歩こちらに踏み出してきた彼に、小さく悲鳴が漏れる。徐に自らの下腹部に手を伸ばした少年は、既に服の上からでも分かる程主張しているそれを、ごそごそと漁って取り出して、私の前に取り出した。蘇るあの夜の出来事が、私の体を震わせ、思考を真っ白にした。どうしよう、どうしよう。一気に体は動かなくなって、その場にぺたんと力無く座り込む。同時に、赤葦様と白布様の姿が、まるで走馬灯のように脳裏に再生されて。



『名無し、多少護身術が使えると言っても、無茶だけはしないように。もし相手が凶器でも持っていたら、いくら貴女でも敵いませんから』
『何かあったらすぐに言え』



嗚呼、私は本当に大馬鹿者だ。男子学生だからと油断して、言ってしまえば一人で知らない男性の家にのこのことやって来て。つい先日怖い思いをしたばかりなのに、危機管理がなってなさすぎる。赤葦様や白布様に、あれだけ口を酸っぱくして言われたというのに、これではきっと怒られてしまうだろう。恐怖に震える体をぎゅっと抱きしめて、声にならない声を上げた。助けて、赤葦様、白布様。私、一体どうすれば…。

男子学生は、震える私を見下ろしながら、あの晩の時と同じように自らを慰めている。どんどん荒くなっていく呼吸、昂っていく感情。直接私に触れるようなことはなかったが、彼は一人でその行為に没頭した後、ぴゅっと白い液体を畳に吐き出した。込み上げてくる嫌悪感、嘔吐感。口元を抑えてそれを必死にこらえていると、いつの間にかマッチを片手にした男子学生が、私の目の前まで迫ってきていた。

「手に入らないなら、連れて行く。男に穢される前に、綺麗なままの名無しさんを…」
「な、なにを…」

次の瞬間、じゅっと擦られたマッチ棒の先端から、赤い火が灯されて。彼は、その火を自らの体に点火した。油をたっぷり染み込ませたその服は、たちまち炎に包まれて、少年は火だるま状態になっていく。手を伸ばして食い止めようとした時にはもう遅かった。あっという間に全身炎に燃やされる彼は、苦し気に断末魔を上げて、辺りを転げ回った。その異様な光景に私は言葉を失い、徐々に意識も遠のいていく。肌が焼けるような異臭。苦しみ*く少年。彼を纏っていた火はゆっくりと畳や壁にも燃え移り、次第に部屋は煙で充満していく。

(あ…、あかあし、さま…、しらぶ、さま……)

心の中で小さく呟いた彼らの名前を最後に、私の意識はそこで途絶えた。眠る私を置き去りにして、炎は容赦なく辺り一面を包み込んでいったのだ。





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「火事だー!!家事だぞー!!」

街中を慌ただしく駆け回る男性が、周囲の人間に呼びかけるように叫んでいる。丁度見回りをしていた赤葦と白布は、その言葉を聞いて二人で顔を見合わせた。

「火事だって」
「冬になると多いよな」

これに関しては、軍人ではなく消防手の仕事だ。状況を静観しながら、慌ただしく駆け回る人たちに揉まれる。どこが火事になっているのかを目で探すと、少し行った先から煙が上がっているのが見えた。存外近い場所で起こっているようだ。

「道を開けろ!ポンプ車が通るぞ!」
「道を開けて!どいて!道を開けてください!」

消防手と思われる人が、野次馬で溢れる人たちに向かって懸命に叫んでいるのが見えた。その後ろから、誘導されるように消防ポンプ車が走ってくる。最近外国から輸入したばかりの、ポンプから水が出て消火活動ができるという、優れものの自動車だ。まさかここで偶然にもお目に掛かれるとは、と黙って少し離れた場所から見守っていた赤葦と白布だったが、次の瞬間、誘導係りを担うその消防手たちの言葉を聞いて戦慄する。

「二口!中の状況はどうなってる!」
「調べましたが、家の主はちょうど留守にしていたようです。今その人と連絡が取れて状況を説明しましたが、もしかしたら中に親戚の子がいるかもしれないと」
「何だって…!」
「それに、近所の人から聞いた話によると、若い女性も一人、数刻前にあの家を訪れてから姿を見かけていないと言っていたので、もしかしたら」
「人が二人、あの中にいるかもしれないのか!」
「茂庭、どうする…!早くしねえと、既に相当火が回ってるぞ!」

消防手の数人で円を囲みながら、これからの動きと作戦を打合せする中、二口と呼ばれた青年の肩を掴んだ男の手。驚いて振り返った先には、焦った表情を浮かべる赤葦と白布の姿があった。

「今の話、本当ですか」
「なんだお前ら…、日本軍か」
「若い女の人が中にいるって…、本当なんですか」
「……知り合いなのか」
「分からない。でも、嫌な予感がする」

赤葦が見据える先。燃え盛る炎に包まれた、一軒家。




名無し。貴女は今、どこにいるんですか。