誓紙と切り指D

他人事だと思っていた火事が、もしかしたらそうでないかもしれない。偶然街中で起こった火事に居合わせた赤葦と白布は、そんな焦燥感に駆られていた。…何かが引っかかる。目撃者による、『中に女性がいる』という発言。それを聞いてからというもの、何故か頭の中には名無しの姿が思い浮かんでいて。そんな筈はない、と自分自身で否定しながらも、不安は拭えぬままである。今日は名無しは仕事が休みの日だ。きっと家にいるか、買い物でもしているか。まさかこんな、知らない男の家にいるなんて、そんなことは。


『この家に住んでいた夫婦は、丁度外出してたらしくて無事みたいだ。けど、中に親戚の子がいるかもしれないって』


先程出くわした消防手の言葉が、頭の中で再生される。親戚の子と、謎の女性。何としてでもその二人の正体を探って、抱えているこの不安を取り除きたい。赤葦と白布は、相変わらず燃える家を囲う野次馬を掻き分けて、必死に聞き込みをした。ここに住んでいる人はどんな人だったのか。火事になる前、この家を訪れていた女性はどんな特徴をしていたか。殆どの人は、『火事という知らせを聞いてから来た』という人ばかりで、有益な情報を得られなかったが、その中でようやくこの家の隣に住むという老夫婦から話しを聞くことができた。

「この家に住んでいるのは、学生の少年だよ。戦争で幼い頃に両親を亡くしてから、ずっと親戚のお世話になっていたんだ」
「眼鏡をかけた、小柄な学生服の男の子よ」
「学生服の男……」

浮かぶのは、たった一人。赤葦と白布が密かに睨んでいた、あの男子学生である。ほぼ毎日カフェーに通い、名無しの周辺の警戒と護衛をしていた赤葦と白布は、気付いていた。ある日突然、チップを叩き付けて名無しのご奉仕を買っていったあの少年が、ほぼ毎日、あのカフェーに足を運んでいる事を。そして、赤葦たちを恨めしそうに睨む中、名無しに対してだけは柔らかな目を向けて見つめていたことを。もし、ここがあの少年の家だったとしたなら、一緒にいたという女性の正体は…、

「着物を着た、おしとやかな女性でしたよ。やって来たその女性に対して、あの子すごく嬉しそうな笑顔を浮かべていてねえ。大人しい子だと思っていたから、まさかあんな風に女性を家へ招くなんて」
「……赤葦」
「ああ。……すみません、ありがとうございました」

適当に御礼を告げてその場から離れた赤葦と白布は、確信していた。恐らく、この火の中に取り残されている女性は、名無しだろうと。先程消防ポンプ車があった方へ視線を戻すと、既に消化活動は始められているようだ。輸入したてのそのポンプ車から、燃え盛る家に向かって水が放出されている。いずれ鎮火はするだろうが、中にいる二人が果たして無事でいられるのかどうかと聞かれると、答えは否。迅速な救助活動を行わなければ、恐らく名無しはこのまま。

「どうすればいい…!このままじゃアイツは…!」
「考えている暇はない。もう行動に移すしかない」

焦る白布に対してはっきりとそう言った赤葦は、傍にいた人たちに「水をあるだけ持ってきてくれませんか」と尋ねた。そのやり取りを傍で見ていた白布は、赤葦がやろうとしている事に勘付く。慌ててその肩を掴んで、険しい顔を浮かべる赤葦に問いかけた。

「…お前、本気か」
「行くしかない。消防手の消火を待ってたら手遅れになる」
「この火の中だぞ。お前もどうなるか…、」
「その時は、」




その時は、一緒に死ぬよ。




清々しい表情を浮かべて、赤葦はそう言った。覚悟は決めた、…そう言っているかのような、強く揺らがない目を白布に向けている。その言葉を受けて呆気に取られていた白布だったが、再び表情を引き締めて赤葦を睨むように見つめ返す。赤葦は、決して冗談を言うような男でもないし、こんな事を軽い気持ちで口にするような奴でもない。そんなことは、ずっと仲間として一緒にやってきた白布が誰よりも理解していた。周りには、次々と水が汲まれたバケツが運ばれてきていて、赤葦の決死の作戦はもうすぐ実行されようとしていた。

「…珍しいな。赤葦がそこまで何かに必死になるなんて」
「そうかな。俺意外と熱い男だと思うんだけど」
「どの口が言ってんだよ」
「……白布、これ」

徐に軍帽を取り、それを白布に託す赤葦。それを受け取った白布は、赤葦が言おうとしていることの意味を何となく察していた。ずっとなりたかった、大日本帝国陸軍の印があしらわれた、少しくたびれた軍帽。それを見下ろした白布は、ゆっくりと顔を上げて、赤葦の黒い瞳を見つめた。

「俺に何かあった時は、黒尾さんたちに頼む」
「…それは聞けないお願いだな」
「白布」
「必ず取りに来い。……待ってる」

懐に手を突っ込んで、白い小さな布を取り出した白布は、それをバケツの水の中に突っ込んだ。じゃぶじゃぶと音を立てて水分を染み込ませた後、それを赤葦に差し出す。これで口を覆え、と。受け取った赤葦は、その布を大事そうに片手で握りしめながら、見守る白布をもう一度見つめた。理解のある仲間で良かった。きっと白布も、赤葦と同じ気持ちなのだろう。命を懸けてでも守りたい存在が、今危機に晒されている。今回は赤葦が先に救出しに行くと言い出したが、そうじゃなかったら白布だってきっと同じことを言っていた筈だ。だからこそ、白布は止めなかった。これから無茶をしようとする赤葦のことを、ただそっと見守っていようと。

「水を被ったところで、そんなのただの気休めにしかならない。しっかりと布で口と鼻を覆え。器官を火傷したら一発で終わるぞ」
「分かってる」
「どんだけ根性見せても、人間の体はあの火の中じゃ数分しか持たない。見つからないようなら引き返せ」
「…ああ」

集まったバケツの水を、頭の上から被る。1杯、2杯、3杯と何度も被って、髪から軍服、靴まで全てを水浸しにした。準備は整った。これで後はあの火の中に自ら飛び込み、中にいるであろう名無しを救出する。生きて戻る、必ず助ける、そんな決意を心の中で復唱して、昂る気持ちを抑えるように、フーと深い息を吐く。大丈夫だ、こんな所で絶対に死なせはしない。勿論自分自身も、まだ夢は中途半端なままだ。死ぬ訳にはいかない。

そうしていよいよ家へと向き直った赤葦の様子を、離れた場所で消化活動していた消防手の茂庭が横目で目撃した。彼の行動は、まさに今からこの火の中に飛び込もうとしている人間の行動であり、何を考えているかなど手に取るように分かった。慌てた様子で声を上げ、赤葦を止めようと駆け寄って行く。

「ま、まさかアイツ…!この中に入るつもりか!?」
「おい!何してんだ!死ぬつもりか!?馬鹿な真似は…!」
「邪魔すんじゃねえ!」

走ってくる茂庭たちを止めたのは、白布だった。赤葦の間に立ち塞がるようにして、茂庭たちの行く手を阻んだ白布は、鋭い表情で消防手たちを見つめながら、静かに、だがはっきりと告げたのだ。

「死ぬかもしれないって分かってても、譲れない時があるんだよ」
「………」
「それが今だ。…頼む」

懇願するようにそう口にした白布の気持ちは、消防手たちにも伝わったようだ。危険な行為であるが故、その行動を消防手として賛同することはできないが、男としては赤葦たちのその決意に理解を示してやりたい。彼らはそう感じ取っていた。

「…無理はするなよ。絶対に。例えどんな事があっても、自分自身を一番最優先に考えろ」
「分かっています」
「憎いじゃねえか!女の為に命張るなんて!全力で援護する!危なくなったら窓側に来い!ポンプの水ぶっかけてやる!」
「鎌先さん、熱くならないで下さいよ…。ただでさえ家が燃えてめちゃくちゃ熱いのに…。これ以上暑苦しくなったらやってられません」
「んだと二口コラ!!!」

消防手という職業よりも、男として、この決意を尊重してくれた彼らに感謝の意を伝えて。赤葦は、手にしていた濡れた布を口と鼻を覆うように巻き付けると、余っていたバケツの水を片手に、火の手があがる家の前へと歩み寄った。躊躇っている暇はない。大きく息を吸い込んだ後、燃えるその向こう側へと一気に飛び込んだ。バチバチと大きな音を立てて燃えている火は、外から見るよりも激しくうねり、内部は既に白と黒の煙で充満している。なるべくその煙を吸わないようにと姿勢を低くすると、部屋の間取りを頭の中で記憶しながら慎重に奥へと進んだ。

(どこだ…、名無し…)

充満する煙のせいで、視界が遮られていまいち周囲の状況が見えない。焦りそうになる気持ちを抑えて、何とか冷静を保つ。ここで冷静な判断が出来なくなったら、名無しを救うことはおろか、ただ火の中に突っ込んで無駄死にする羽目になる。それだけは避けなければならない。赤葦を信じて送り出してくれた白布の元へ、名無しと共に帰る為にも。

濡れていた衣服は熱を帯び、赤葦の体から汗が噴き出る。肌を焦がす程の熱、濡れた布越しでも息を吸うと、喉が焼けるようだ。煙が目に染みて痛くて堪らない。こんな中に取り残されている名無しのことを思うと、一刻も早く見つけてやりたいと、ただその気力だけで足を動かしていた。激しく燃える廊下を抜けて、台所の横目で確認する。その台所の向かい…、廊下を挟んだ反対側にも部屋があって、そこに目を移した瞬間、赤葦は目を見開いた。

「名無し!!」
「…、あかあしさま…!?」

床に倒れ込む名無しの姿があったのだ。意識ははっきりしているようで、向こうも赤葦の姿を見ると驚いたように目を見開き、その上半身を少しだけ起こす。良かった、生きてた、と安堵しながらその場に駆け寄り、倒れる名無しを抱きしめるようにして支えた。未だ信じられないといった表情を浮かべている彼女に、自分がここにいる理由を説明している暇はない。抱き寄せたその体に、「歩ける?」と問いかけると、ふらふらと覚束無い足取りながらもコクリと頷いて立ち上がった。

「時間がない。急ごう。しっかり俺に掴まって」
「…赤葦様」
「なに」
「来てくれるって、信じてました」

うっすらと目を見開く赤葦の顔を見上げながら、もう一度、その言葉を再確認するように告げる。何故だろう。絶望的な状況の中に取り残されていたというのに、私は…信じていた。貴方がきっと来てくれるって。行先なんて告げていなかったのに。私が今どうなっているかなんて、知りようが無かった筈なのに。それでも彼らは、私の危機を察して、私の居場所を探し当てて、必ず助けに来てくれるって。

「…当たり前でしょ」
「……!」
「…大事な女一人守れずして、軍人なんて務まるか」
「あかあし、さま……」
「これで口と鼻を覆って。水掛けるよ」

私の返答を待たずに、赤葦様は持っていたバケツを頭の上からひっくり返した。ばしゃんと一気に着物は水に濡れ、じわじわと燃える炎によって熱を帯びていく。驚いている間にも、赤葦様は自らの口を覆っていた布を取り払い、素早く私の口と鼻を隠した。これでは赤葦様が、と動揺する私を無視して、彼は羽織っていた外套すら脱ぐと私の頭上からそれを被せて迫る火から守ってくれた。ぎゅう、と肩に回された彼の手に力が篭る。必ず守ってみせる、そんな意思がそこに込められているかのように。

(この家の間取りはさっき来る途中で記憶した…。後は冷静に引き返せば…)

周囲の状況を見渡して頭の中を整理する赤葦様の目は、ふとある一点に注がれた。私がいた場所から少し離れた場所で、既に動かないまま横たわっているもの。人間だった筈のそれは、皮膚や肉が所々燃え尽きて、原型を留めていなかった。言わずもがな、私を地獄まで引きずりこもうとした張本人。そして、全ての事件の犯人。あのあどけない笑顔を浮かべていた少年は、自らの体に火をつけて、その命を手放したのだった。ここで何があったのか、赤葦様はその遺体を見つめて何となく察したのだろう。鋭い視線をそこに送った後、何も言わぬまま私を引きずってその場を後にした。


「手を止めるな!!!水を掛け続けろ!!!」
「急いで!!中には人がいる!!!」


外では消防手たちが忙しなく周りを駆け回り、懸命な消火活動が続けられている。変わらず野次馬たちも、行く末を不安そうに見守っていて、その中に混じって家を見上げている白布も、中に取り残されている名無しと、突入していった赤葦に想いを馳せる。

(…無事に帰って来いよ…名無し、赤葦…!)

そんな白布の祈りは、誰に届く訳でもなく、燃える家の前では無力で。世の中というのは、残酷で、意地悪に出来ているものだと、この時の赤葦は、目の前に広がる光景を見て感じていた。

行きは難なく通れた筈のそこに、大きな瓦礫が落ちている。オマケに大きな炎がその瓦礫から周囲の壁や床をより一層激しく燃やし尽くしていた。流石の赤葦も、この状況を突きつけられて焦らざるを得ない。完全に退路を断たれてしまい、どうしたものかと途方に暮れていると、そんな彼の小脇に抱えられていた私が小さく悲鳴をあげる。

「ひゃっ……!」

丁度私の隣に位置していた家の柱が、燃えたことによって支えを失い、ぐらりと傾いてきたのだ。炎を纏いながらこちらに向かって倒れてくるその木の柱に、頭が真っ白になる。私の悲鳴に反応して振り返った赤葦も、迫ってくる火柱に目を見開いた。もう今さら気付いたところで遅い。赤葦様に腕を掴まれて、私は何が何だか分からない内に床に押し倒された。「あかあしさ、」と名前を呼んでいる途中で、彼の影が上から覆いかぶさる。赤葦様が、私を庇うように頭を抱え込んで、体重をかけて圧し掛かってきた。

「だめっ、赤葦様!!」

私の悲痛な叫びは、虚しく炎の中に木霊して。傾いた柱は、いよいよ私たちに向かって倒れてきたのだった。