誓紙と切り指E

「だめっ…!赤葦様!」

私の叫びも虚しく、燃える大きな木の柱は、私と赤葦様目掛けて傾いた。反射的にぎゅっと瞼を閉じて、その瞬間から目を逸らす。けたたましい大きな音を響かせて倒れたそれは、赤葦様に直撃する…筈だった。恐る恐る開いた目の先に映るのは、赤葦様に当たる寸前で、側に置かれていた戸棚に引っ掛かって止まる柱の光景。幸運にも私たちは、倒れてきたその瓦礫の直撃を免れたのだった。

「良かった…、赤葦様、無事で…、」

安堵しながら、上にいる彼を見上げた瞬間、言葉に詰まった。赤葦様の体が、そのままぐらりと傾いて、私の上に倒れこんできたからだ。伸し掛かる彼の体重に動揺し、肩を揺すって声を掛ける。赤葦様、赤葦様、と何度呼んでも、返ってくるのは荒い呼吸だけ。呼吸の音が聞こえる分、まだ今すぐに死ぬという訳ではなさそうだが、どちらにせよこのままだと赤葦様が危ないのは明白だった。

(私を守る為に、自分の身を削って…)

赤葦様が来た時、彼は私に何の躊躇いもなく、口を覆う布と、頭から被る外套を差し出した。お陰で私は今何とか意識を留めているが、単純に赤葦様の身を守るものを奪ってしまったのだ。彼の体にかかる負担は相当なものだろう。私は、何とか赤葦様の体の下から脱出すると、側に彼の体を寝かせて、己の口と鼻を塞いでいた布で赤葦様の口元を覆った。

「赤葦様、赤葦様……っ!」

反応のない彼の肩をしつこく揺さぶる。この火の中、気を失った男性を一人抱えて移動することなど、私には不可能。とにかく赤葦様に目を覚まして貰わなければ、私も赤葦様も命は無かった。軽く頬を叩いて意識を確認すると、彼は若干眉を寄せながら呻き声を上げる。何度も名前を叫んで縋り付くと、彼の目がようやくうっすらと開かれた。

「……、名無し…」
「赤葦様……!良かった、目を覚ましてくれて………!」
「………泣きそうな顔してる」

赤葦様の弱々しい指が、私の頬をなぞった。考えてみれば、彼のこんなに衰弱した姿を見るのは初めてで、どうしたらいいのか分からず混乱するばかりだ。黒尾分隊の方々は、いつも強くて頼もしくて、私のことを守ってくれる。そんな赤葦様が弱っているということは、相当まずい状況なのではないかと、頭の中では悪い考えが浮かぶ一方だ。目に涙を溜めて赤葦様を見下ろす私とは対照的に、赤葦様は随分と安らかな笑顔を湛えていて、それが余計に怖かった。彼が、良からぬ事を考えていそうだと思ったから。その私の予感は、見事に的中して。

「……名無し、あそこ」
「え……?」

赤葦様が指差す先は、玄関の方角。大きな瓦礫が道を塞いでいるが、下の方に人が1人倒れるくらいの隙間が辛うじてある。私なら、あそこを何とか潜ってこの家から脱出出来そうだ。赤葦様は、あそこから逃げろと、そう言いたいのだろう。しかし、私が脱出したら、赤葦様はどうなる?彼は今とても一人で歩けるような状態ではないし、そうでなくとも、この隙間の大きさ的に男性が通るのは難しそうだ。…きっと、赤葦様は…。

「嫌!」
「名無し……」
「赤葦様を置いて行くなんて、そんなの嫌!」

子供のように泣きながら、駄々をこねる私を、赤葦様は少し驚いたように見上げていた。私が彼らの前でこんなに感情的になるのも、確かに珍しいことなのかもしれない。ぽろぽろと溢れて止まらない涙を拭く事もせず、嫌だ嫌だと首を振る私を、赤葦様は愛おしそうに見つめた。優しい骨ばった手が、頬を撫で、涙の筋を拭う。こんな状況だというのに、彼はとても落ち着いている。まるで全てを悟り、受け入れているかのように。

「…初めて見た。名無しの泣き顔」
「…赤葦様……」
「俺の為に泣いてくれてるの」

綺麗です、そう言って儚く笑う赤葦様の胸板に、堪らず顔を埋めた。ひっくひっくと肩をしゃくり上げる私の背中に、赤葦様の優しい腕が回る。もっと、もっといつもみたいに強く抱きしめて。優しく口付けて。カフェーに来てくれた時のように、『ご奉仕ください』って…、言ってほしい。このままじゃ、赤葦様は、永遠に…、

「名無し、俺は、」

何かを言おうとした赤葦様の唇を、布越しに奪った。その先は言わせない。聞きたくない。赤葦様がここで終わりというのなら、私だってここで終わりだ。だってもし貴方が来てくれなかったら、私はとっくに死んでいたのだから。命を懸けてここまでやってきてくれた赤葦様を一人にして自分だけ生き延びようなんて、そんなの死ぬよりも残酷で辛いことだ。

私からの突然の接吻に、赤葦様は驚いて言葉を失っていた。色々な覚悟を決めた私の目からは、もう涙など流れていない。優しく儚げに彼に微笑んで、その頬を撫でる。横たわる赤葦様の体に抱き付いて、寄り添うように密着した。もう熱さも煙たさも感じない。今ここにいるのは、私と赤葦様だけ。最初はされるがままだった赤葦様も、やがてそっと私の背中に腕を回して抱きしめてくれた。私の覚悟が伝わったのだろうか。

「赤葦様」
「…本当にいいの」
「…はい」




共にいさせてください。





はっきりと紡いだ言葉は、震えていた。死ぬのが怖くない訳ではない。でも、赤葦様と一緒なら、少しだけ怖くないような気もする。もう決めた事だ。今さら迷うことはないと、彼のその肩をぎゅっと握りしめて。赤葦様の胸板に押し付けた耳から、とくんとくんと生の鼓動が聞こえる。これがお互い止まるのは、後何分後のことだろう。出来ることなら同時に時を止めたい。そう願う私の背中からそっと離れた赤葦様の手は、口に宛がわれていた布を取り払い、私の手を絡め取った。

「名無し、覚えてる?」
「え…?」
「この間、俺が言った言葉」
「…何でしたっけ…」

きょとんと顔を上げた私を、赤葦様の優しい目が射抜く。この間言った言葉とは、どれの事だろう。赤葦様とはたくさんの会話を交わしているから、思い出そうとしても一体何のことを言っているのか見当がつかない。そんな私に、赤葦様は真剣な瞳を向けた。

「死んだら叶うものも叶わない…」
「あ……」
「心中事件の記事を読んだ時、俺は確かにそう言いました」

思い出した。全てが始まろうとしていたあの時、赤葦様は、あの世間を騒がせた作家の心中事件の記事を見て、理解ができないと、そう一言吐き捨てたのだった。追い詰められた男女が、全てを投げ出して二人の世界に行く。色々なことを諦めて、そういう選択をするのだと、私も赤葦様も思っていた。でもこうして今、二人で燃える炎の中にいると、何となく彼らの気持ちが分かるような気がする。心中した人たちはきっと、生きていては叶わない何かを掴みに行こうとしたのではないかと。

「俺は今、死をもって一番欲しかったものを手に入れようとしてる」
「あかあしさま……、」
「最低な男だって軽蔑されるかな。大事な女を殺そうとしてるのに、…今すごく幸せで堪らない」

赤葦様の指が、私の顎を救う。そのまま吸い寄せられるように、私たちは唇を重ねた。触れる唇は、甘くて蕩けそうで、今から死にに行くというのに酷く幸せな味がした。赤葦様も、もう決意を固めたようだ。私とここで共に死ぬのだと、そう決めたのだろう。何度もお互いを確かめるように、夢中で口付けを交わす。うっすらと開いた口からは、赤葦様の舌がぬるりと這って、私の舌を絡め取った。生きている内に、貴方を体に刻みたい。私の必死な願いを、赤葦様は受け止めてくれていた。

「…ぁ…、ん……っ、あか、あしさ…、」
「名無し……俺は、貴女が………」

私たちを包む煙は、どんどん室内に充満していき、やがて私の意識も朦朧としてきた。死の瞬間に近付いているのかもしれない…そう考えると、やはり少しだけ怖い。虚ろになっていく意識の片隅で、必死に赤葦様にしがみついて、その温もりを確かめた。赤葦様は、今どうなっているんだろう。お互いもう何も言葉を交わさず、ただ黙って抱きしめ合っているので彼がどんな状態であるのか分からない。私も既に限界を迎えようとしていて、赤葦様の生存を確認する程の余裕がない。徐々に失われていく体の感触。意識。ふわふわと空に浮いているような、心地よい眠気に誘われているような……、少なくとも苦しいとか痛いとか、そういった感覚は無い。死ぬって、こういうことなんだ。ああ、赤葦様。私はどうやら、もう旅立つようです。迷子にならないように、どうかずっと、手を握っていてください。言葉にならないそんな想いを、そっと心に秘めて。私はそのまま、ゆっくり…ゆっくりと、瞼を閉じていったのである。暗くなっていく私の視界は、瞼の裏を映し、そして、遂に途絶えた。








ーーーー・・・・








「ん……」


ゆっくりと開いた眼差しに映るのは、白い天井だった。そよそよと心地よい風が、開いた窓から吹き込んで私の頬を撫でる。ここはどこだろう。まるで真っ白な世界…、私は本当に死んでしまったのだろうか。窓から覗く外の景色は私が今まで生きていた世界とそっくりで、死んだことが嘘のようだ。試しに自らの手を目の前に掲げて、ぐーぱーと握ったり開いたりを繰り返してみる。…やっぱり、生きている頃と変わらない。死後の世界というのは、こんなものなのだろうか。周囲をじっくりと見回して、状況の理解に努めていると、隣から声が掛けられる。

「…目が覚めた?名無し」
「…、あ、赤葦様…!?」

そこでようやく気付いたのは、隣のベッドに、私と同じように横になっていた赤葦様がいたという事。驚いて勢いよく体を起こすと、所々が痛んで思わず顔を歪めた。改めてじっくりと自分の体を見下ろす。そこら中に痛々しく巻かれる包帯は、生きている証。私と赤葦様は、今生きてここにいる。まだこの世界に、留まり続けている。

「私たち…、生きているのですか…?」
「驚くことに、生きているみたいだね」
「ど、どうして…!あの状況で助かるなんて…!」

赤葦様は、私のその疑問を受けて、ふと前を向いて俯いた。あの時、共に死ぬと決意したその後、私と赤葦様の身に何があったのか、彼は1から説明してくれた。











「いたぞ、あそこだ!」

遠のきつつあった赤葦の意識を手繰り寄せたのは、玄関の方から聞こえる、男の声だった。一気に騒がしくなるその方角へ視線を向ける。ぼんやりとした視界に移るのは、先程外で会話を交わした消防手の人たち。そして、その後ろから切羽詰まった表情を浮かべる白布の姿も見えた。どうやら助けに来てくれたようだ。重たい瓦礫を数人で器用に退かし、赤葦と、気を失った名無しの元までやってくる。流石は本職。その間の時間はたった数分の出来事である。

「おい!大丈夫か!しっかりしろ!」
「俺は平気です。…名無しを…先に…、」

息絶え絶えな様子で、己の上で倒れる名無しを差し出した。「二口」と呼ばれた青年が、名無しの体を抱えて、外へと出て行く。…助かった。そんな実感がようやくジワジワと湧き上がってきて、消防手の肩を借りながら、赤葦もその後を追って脱出した。結局炎は、家が燃え尽きるまで消えることは無く、完全に消化した頃には、そこには何もない只の荒れ地が広がっていて。脱出した後、比較的意識が安定していた俺は、安静を強いられながらも応急手当を受け、現場の状況やもう一人家にいたとされる男子学生の事について聞かれていた。

「もう一人は」
「…俺が行った時には、既に」
「…そうか」

苦い顔をして俯く、鎌先という消防手の男。悔しそうに歪められたその表情を見て、赤葦は自分の行動を思い返していた。俺は、あの時、名無しを…、



「……赤葦」

俯く俺の名を呼ぶ、1つの声。こちらを鋭く睨む白布が、前に立つ。彼はそのまま俺の前まで歩み寄ると、胸倉を掴んで力任せに殴り飛ばした。倒れた俺を、慌てた様子で支える茂庭と、感情的になる白布を抑える鎌先。先程火の手から無事生還したばかりだというのに、この男は全く手加減無しだ。じんわりと痛む頬。切れた口端を袖で拭いながら、ゆっくりと体を起こした。

「…お前、何をしようとしてた」
「………」
「…自分で何をしようとしてたか、分かってんのか!」

白布の剣幕は、俺の心に突き刺さる。そんなもの、言われなくたって自分自身が分かっている。俺は、…あの時俺は、


名無しと心中しようとしたんだ。



いや、状況的に言えば、心中というのは語弊があるかもしれない。決して俺も名無しも、最初から死ぬつもりであの場にいた訳ではないのだから。だが俺は確かにあの時、生きることを諦めた。そして、一人ならば逃げ切れた筈の名無しを、巻き込もうとした。それは、言い逃れのできない事実。名無しを救うと言って、中に飛び込んでいった俺を信じてくれたのは、白布だ。そんな白布の気持ちさえも、俺は踏みにじったことになるのだろう。名無しは、白布にとっても、かけがえのない存在なのだから。

「お前は、名無しを殺そうとしたんだぞ…」
「……分かってる」
「ふざけるな……!お前は俺に約束した筈だ、必ず生きて戻ってくるって…」
「……ああ」
「勝手に一人で諦めてんじゃねえ!」

白布の想いは、痛い程に伝わっていた。胸元に押し付けられた、俺の軍帽。火事に飛び込む前、白布に預けたものだ。それが今、ちゃんと己の手の中に帰って来た。俺は、生きてる。名無しも、生きてる。それを改めて実感した俺は、ただそこに立ち尽くしながら、ほっと安堵していたのだった。この殴られた頬の痛みこそが、今生きている証だと、そう感じていた。








「怒られたよ、白布に」
「赤葦様……」
「……すみませんでした。…俺は貴女を、殺そうとした」

項垂れて、弱々しく言葉を紡ぐ赤葦様を見て、私は心が痛くなった。赤葦様は何も悪くないのに。悪いのは、全部私。あれだけ二人に言われていたのに、のこのこと警戒もせずに知らない人の家に行って、あんな事件に巻き込まれて…。そんな馬鹿な私を、赤葦様は必死に助けようとした。殺そうとしたんじゃない。救おうとしてくれていたのだ。

「赤葦様」

私は、そっとベッドから降りて、彼がいる隣のベッドへと歩み寄った。シーツの上に置かれた手を握りしめる。俯く顔を覗き込んでその名を紡ぐと、赤葦様の黒い瞳が私を捉える。私も赤葦様もちゃんと生きてる。なら、それでいい。

「…抱きしめてくれませんか」
「名無し…」
「生きているという証を、私にください」

私の腕を、赤葦様が引き寄せる。優しく、でも力強く、私を抱く男の人の腕。密着する体から、とくんとくんとお互いの心臓の鼓動が重なって、同じ感覚で脈を刻んでいた。ああ、温かい。命って温かい。その鼓動に心地よさそうに目を細めていると、ふと私たちのいる病室にもう一人、誰かが入ってきた気配がして、ゆっくりと振り返った。

「…起きたのか」
「白布様…!」

顔をあげて、白布様との再会に顔を綻ばせる。急いで駆け寄って、心配かけてしまった事を詫びようと口を開いた瞬間。ぐいと引き寄せられた体は、重力に逆らえぬまま白布様の腕の中に閉じ込められる。ぎゅう、と痛む程に力強く抱きしめられて、白布様の顔は私の肩に埋められた。いつもは凛としている白布様も、この時ばかりは声が震えていて。


「…ばかやろう……」
「しらぶ、さま……」
「お前が生きてて、良かった…」



ああ、やっぱり、生きるって温かい。あの時確かに私は、死を覚悟したけれど。でも今は心の奥底から思う。生きていて良かった。こうして二人を抱きしめることが出来て良かった。生きてもう一度、貴方たちと会えてよかった、と。白布様の背中に回した手で、確かに彼らの温もりを感じながら。白布様と赤葦様の、無数に降りてくる啄むような接吻を、全身で受けながら。







世間を騒がせ、私も巻き込まれた、心中事件。助かった者もいれば、そのまま共に命を失うものもいる。私を殺そうとしたあの青年は、炎に巻かれて結局焼死。犯人死亡という形で決着がついてしまった。彼のことを助けてあげられなかった、そんな後悔はいつまでも私の心の中に強く根付くのである。



そして今日もどこかで、何かを叶える為に、男女が共に世界を旅立つのである。