明日待たるる宝船@

「一本!」

審判がそう声高らかに宣言すると、掴み合っていた男と男は、互いに手を離して距離を取った。終わりと感謝を告げる一礼を交わすと、張り詰めていた緊張の糸は切れ、一気に和やかな雰囲気へと変貌する。片方の男は、どっかりとその場に尻を付いて座り込み、前に立ち塞がる大男を見上げた。

「やっぱ強いなぁ、先生は!」
「君がまだまだ未熟なんです」

春もすっかり暖かくなり、庭先の桜もちらほらと緑の葉が出始めている頃。とある廃れた道場にて、賑やかに稽古を行う男たちがいた。先生、と呼ばれた男の腰には立派な黒帯が巻かれていて、風格からしてもかなりの実力者であることが窺える。一方で、床に座り込んでいる男は、体格には恵まれているものの、イマイチ詰めが甘いのは否めなかった。手加減してくれたって…、なんて文句を垂れる男に、先生らしき男は小さく溜息をつく。

「…雲見。君はもっと真面目に稽古に取り組みなさい。先週もサボって来なかっただろう」
「あ、あれは……ちょっと体調が悪くて…」
「今月で何回目の体調不良ですか。鍛え方が足りないようですね」
「いやいやいや!もう十分ですって!」

話が不穏な方向へと転がって、すっかり張り切っている先生を前に、雲見と呼ばれた男は慌てて手を振った。その様子を周囲で見ていた先生の教え子たちも、ケラケラと笑って温かく見守っている。誰から見ても、そこに広がっているのは平和でありふれた日常であった。


「皆さん、稽古お疲れ様です。お握り作りましたので、どうぞ食べて下さい」


そんな汗臭い道場に響き渡ったのは、一輪の可憐な声であった。着物を纏い、手には大きな盆を持った女が1人、大量のお握りを運んできたのだ。途端に男たちは、子供のように顔を輝かせて腰を上げた。我先にとお握りを掴む手は、あれだけ大量にあったソレをあっという間に空にする。気付いた時には売り切れで、盆はすっかり軽くなっていた。

「……もうちょっと用意すれば良かったかな」
「いいえ、結構ですよ、名無し」

名を呼ばれて振り返った名無し……、その後ろに立つのは、先程まで稽古を付けていた先生その人。物腰柔らかな先生は、微笑みながら名無しを見下ろし、これだけの人数分の差し入れを用意した事を労ってくれた。

「折角仕事が休みなのだから、どこかへ遊びに行って羽を伸ばして来ればいいのに。家の手伝いをさせて申し訳ない」
「お父様……」



名無し道場。それが、私の家だ。父は柔術の達人で、幼い頃からそれなりに有名であった。出る大会では必ず優勝。その筋ではかなり名を轟かせていたのだと、いつの日か自慢げに語っていた事を思い出す。その才能を駆使して、こうして道場を立ち上げた父だったが、時代が時代な為か、門下生は減っていく一方。当然そうなれば収入も減り、私がカフェーで働いて稼いで、それで何とか切り盛りしている状態である。父は普段穏やかでとても優しい人だが、柔術に関しては強い拘りがあるようで、『自ら学びたいと思う者だけに教える』という信念の元、宣伝を一切しようとしない。こちらとしては、生活が掛かっているのでもう少し何とかして欲しいなぁと思うのが本音だ。

「私も柔術を見ているのは楽しいですし。勉強になります」
「勉強熱心ですねぇ」

苦笑いを浮かべる父に、直々に叩き込まれた柔術は、ここ最近でも何かと活躍する場面が多かった。女性でも身を守れる術は持っておいた方がいい、という父の考えから、私は幼い頃から沢山の技と知恵を叩き込まれたのだ。どうしても立場が弱い女性。それを付け狙う卑劣な人たちは、残念ながら一定数いる。そういった人たちに出くわした時に、この力は必ず役に立つのだと、父は言っていた。

座って休憩をしつつ、お握りを頬張る門下生を見下ろしながら、私は自分の体を見下ろした。こうして父の弟子の方々を見ていても、あまりの体格差には驚かされる。男は体も大きくて力もあり、簡単に女性を捩じ伏せる事ができる。一方で私は、男性に比べれば圧倒的に線が細く、力だって無い。体術を心得ている男性に襲われれば、幾ら私が柔術を身に付けていたって、絶対に敵わないだろう。それは、前々からある人たちにも何度も言われている事だった。カフェーの常連の、あるお得意様方に。

「私では、お父様のお弟子さんたちに勝てないでしょうか」
「さぁ、どうでしょう。雲見辺りには勝てるんじゃないですか?彼はすぐに体調を崩しますから」

父がそうからかうと、お握りに夢中になっていた雲見が不機嫌そうに顔をあげる。「またそんな意地悪な事を…」とボヤく彼に、再び起こる男たちの笑い声。こうしてみんなにからかわれてはいるが、雲見は父にとって一番の弟子で、とても良く可愛がっていることは知っていた。明るく前向きな性格で、憎めない人。少しサボり癖があるのが難点だが、悪い人ではないことも、父から聞いている。

「酷いですよ先生。幾ら俺が病弱だからと言っても、流石に女性には負けませんよ!体格も力の差も圧倒的です」
「なら、試してみますか。私の娘と稽古」

にこにこと笑う父が、ズイ、と私を前に差し出す。「望むところですよ!」なんて向こうも身を乗り出してきたものの、周りの門下生たちはニヤニヤと笑みを浮かべながら、雲見の顔を覗き込んでいた。

「やめておいた方がいいぞ、雲見」
「はぁ?なんで」
「名無しちゃんに叩き込まれてるのは、只の柔術じゃないんだ」



…合気道。それは、父が考え編み出した、まだ真新しい武術であった。人の体の仕組みを理解し、それを応用した武術。関節を狙うことで、力の無い女性でも、体格差のある相手に対し完封する事が出来るのだ。私が父から教わったのは、柔術と合気道。お陰である程度の相手なら、それなりに対応する事が出来る。まだまだ知名度は低いが、是非この武術は女性にお勧めしたいものであった。

「そ、そんなに強いんですか、娘さん…。こ、怖がって貰い手いなくなっちゃうんじゃ……」
「それは父親も心配しているところです」
「よ、余計なお世話です!」

恥ずかしさから若干頬を赤くしてそう言い返すと、父は笑っていた。何気無い私の休日は、そうして終わりを迎えるのである。





ーーーー・・・・




「合気道ねぇ……」

カウンター机に並ぶ、5人分のカップ。まだ熱を帯びる中身からは、ほんわりと白い湯気が上っている。いつもの席。いつもの珈琲。そして、その席に座るのは、いつものあのお得意様。

「じゃあ、俺も名無しと手合わせしたら負けちゃうかも」
「怒らせない様にしないとね」
「黒尾様、赤葦様…!」

頬杖をついて、からかうように笑うのは、黒い軍服を身に纏った黒尾様と赤葦様である。大日本帝国陸軍に所属する彼らとは、もう付き合いもそこそこ長くなる。いつもこうして、ちょっと時間が空いた時にカフェーに立ち寄ってくれて、珈琲と共に他愛無い話を聞かせてくれたり、私の身を案じて下さる、とても優しい正義に溢れた方々だ。

「私なんかでは、皆さんには到底敵わないです…!私の武術は、あくまでも護身用ですから、仕事で鍛錬を積まれている皆さんに比べたら…」
「まあ、そこはやっぱ負けたくないよなぁ。だってほら、可愛い女の子は守ってあげたいじゃん」
「お前……、よくそんな歯の浮くような台詞が言えるな。聞いてるこっちが恥ずかしいわ」

喧嘩するほど仲がいい、とは正にこの2人の事を言うのかもしれない。今日も今日とて、憎まれ口を叩き合う川西様と白布様。彼らもまた、軍人であり黒尾さん率いる黒尾分隊の一員である。口喧嘩を始める二人の横では、我関せずといった様子で、無言で珈琲を啜っているもう一人の男性の姿もあって。

「研磨は、何度も名無しに守って貰ってるもんな」
「………五月蝿いクロ」
「弧爪は、射術担当だからね」

赤葦、川西、白布を挟んだ向こうの席にいる研磨様を覗き込んで、黒尾様がからかうようにニヤついた。ムッと眉を寄せる研磨様は、物静かで控え目な方だが、銃の扱いと状況を把握する観察眼はピカイチだと、よく黒尾様が自慢げに語っている。実際、彼らの凄さには私も何度も助けられていて、通り魔事件の時に助けに来てくれたり、無理心中させられそうになった時も、命を懸けて救出してくれた。私にとっては命の恩人であり、頭が上がらない方々なのだ。

「私の未熟さのせいで、皆さんには何度も助けて頂いて…、本当にごめ、」
「ごめんなさい、は無しな」
「え…」

私の言葉を先読みして、それを遮った黒尾様。珈琲を片手に笑う彼は、西洋の飲み物なのに何だか凄く様になっている。ぽかんと口を開ける私に対し、彼らはあっけらかんと言い放つのだ。

「大切な人を守るのは、男の役目だろ?」

こんな台詞を言われて、恋に落ちない女性がどこにいるのだろうか。クラクラと眩暈を起こしそうになる位に眩しいお姿。本当なら、こんなただのしがない給仕係が、軍人様である彼らに話しかけられる立場じゃないのに、黒尾様たちはいつも沢山の優しさをくれる。守ってくれる。愛しさをくれる。私の心は当然のように捕らわれて、今では彼らが来るのを今か今かと待つ始末だ。皆さんが私にそこまでしてくれるのは、一般市民を守るという軍人としての務めを、果たされているだけなのか。それとも……。

「そういえば、聞いてよ名無しちゃん。俺たち、今度でかい仕事を任される事になったんだ」
「大きな仕事…?」

切り出した川西様の言葉に、私は緩く首を傾げた。その表情は5人ともどこか誇らしげで、何となく嬉しそうに見える。この様子を見る限りでは、きっとかなりの大役を任されたに違いない。その言葉の続きを、私もワクワクと胸を躍らせながら待つ。

「今の大日本帝国総理大臣の、護衛役を任されたんだ」
「そ、そうりだいじん!?」

思わず素っ頓狂な声をあげてしまった私に、店内の全ての視線が注がれた。恥ずかしさから、か細い声でごめんなさいと俯くと、お客様たちの視線は、それぞれの席へと戻って行く。私の様子を見ていた赤葦様も、苦笑を浮かべながら珈琲を啜っていた。

「俺も聞いた時は同じ反応だったよ。まさかこんな下っ端の隊に、そんな大仕事を回してくれるなんてね」
「まあ、通常じゃ有り得ない話だな」
「だ、だからこそ凄いんじゃないですか!それだけ黒尾様たちの実力が認められているということでしょう!?」

まるで自分の事の様にはしゃぐ私を見て、5人は面食らっていた。まさかここまで喜ばれるとは思っていなかったのだろう。今まで理不尽なことを要求されたり、何かと苦渋を飲む場面が多かった彼らだ。漸くその努力が報われたのかと思うと、喜ばずにはいられない。盛り上がる私を前にして、黒尾様たちもどこか幸せそうに頬を綻ばせていた。

「そうだ!お祝いしないと!」
「そんな大袈裟な…」
「私がお祝いしたいんです!何か欲しいものはありませんか?あ、最近私新しい料理を練習してて、良かったらそれを、」

食べてみませんか、と言おうとした所で、私の体は力強く引き寄せられた。逞しい男の太腿に乗せられて、一気に思考が固まる。私を膝の上に乗せた黒尾様は、楽しそうに口端を吊り上げて、私を見下ろしていた。……彼らが、今何を考えているのか、私には手に取るように分かった。

「…その顔は、俺が何を言いたいのか分かってる顔だな」
「く、黒尾様………」
「そんなに言うなら、有り難く頂戴しようか。お祝い」

御奉仕。彼らは、それを求めている。こんな事は、今日が初めてじゃない。カフェーの夜の顔…、それは、こうして給仕係がお客様に対し、特別なご奉仕をするというおもてなしであった。安月給の給仕は、お客様にチップを積んでもらい、自らの体を商品にするのである。そして私も、頻繁にやってくる黒尾様たちにご奉仕する、しがない給仕の一人だ。他のお客様は、もっと美人な先輩や、目立つ先輩を買うのに、彼らだけはいつも私を指名する。本当に珍しいお方だ。

「わ、私でいいんですか」
「俺たちが今までに他の女給を買ったことがありましたかー」
「そ…それは…、無いですけど……」
「分かってる癖に。俺たちが名無し以外の奉仕を買う気が無いこと」

悪戯げに笑う黒尾様と太一様の顔が近付く。ご奉仕を求められるのは初めての事じゃないのに、何度経験しても慣れる事はない。黒尾様たちも、そんな私の反応を見て楽しんでいる。いつまで経っても恥ずかしそうにする私を、彼らは笑ってからかってくるのだ。

私も、本来はこういった商売は好ましく思っていない。勿論、他の女給の仲間たちがやる分には、わざわざ口出ししようとは思わないが、自分自身がそれをやれるかと言われると、答えは否だ。やっぱり恥ずかしさは拭えないし、こういった触れ合いは心を許した好きな人としたい。でも…、何故だろう。黒尾様たちだけは特別だった。彼らに求められ、触れられることは嫌じゃない。むしろ、彼らに会えない時は恋い焦がれてしまう程に、私はもう皆さんに夢中だった。

「いい?名無し」

耳元で、甘く低く囁く赤葦様の声。私が拒める筈などない。赤い顔を俯かせ、控えめにコクンと頷くと、今夜もまた、彼らと過ごす濃密なひと時が始まるのである。







「……本来なら、絶対に有り得ない話だ」

帰り際。黒尾は、後ろに続く部下たちにポツリと言葉を投げた。季節はもう、寒さ薄れ、段々と暖かくなってきた朗らかな春だ。その変わり目に、黒尾たちは大役を任された。…それは、あまりにも不自然で、不気味な雰囲気を帯びていた。

「首相警護なんて大仕事を、俺たちのような下っ端分隊に投げるなんて」
「手柄が欲しい上の連中も、よく黙って許したよな」

前を見据える彼らは、目には見えない強大な存在を察知していた。この大役の裏に隠された陰謀と策略を。そしてその闇は、やがて名無しをも巻き込んで大きくなっていくとは、この時はまだ誰も知らなかったのである。