明日待たたる宝船A

「火薬の匂い…ですか?」

カフェーでの仕事を終え、黒尾様たちに家まで送って貰った後、私とお父様は、ほんのり明るい居間の机を挟み、向き合って座っていた。お父様にはどうやら気掛かりな事があるらしく、それを珍しく私に深刻そうな顔で打ち明けてきたのだ。その表情はまさに真剣そのもので、何か只事では無い事に直面しているのだろうか、と嫌な胸騒ぎを覚える。お父様が口にした、火薬の匂いという言葉。それを反芻する様に、私はもう一度目の前の父に聞き返した。

「火薬の匂い、がどうされたんですか?」
「……雲見の事です。少し前から気になってはいたのですが…。彼から火薬の匂いがするのですよ」

頭の中には、数日前に道場で顔を合わせた、あのお調子者の男性が浮かび上がる。『彼から火薬の匂いがする』。それだけ聞いても、何故その匂いが父をそこまで悩ませているのか、全く想像が付かなかった。一向に見えてこない話の筋に、私は首を捻るばかりである。

「それが何か問題なのですか?」
「いえ…、これはあくまでも私の憶測なのですがね」

そこで父は漸く、何故雲見の事をそこまで案じているのかを聞かせてくれた。事の発端は、どうやら今日の稽古の時に耳にした、噂話らしい。いつもの如く、サボり癖を発揮した雲見は道場に現れず、仕方ないとそのまま稽古を始めた父は、その時に別の門下生から話を聞かされたらしい。

「どうやら彼は…うちの門下生たちに、金を貸してくれないかと頼み回っていたようで…」
「お金……?」
「元々、ご両親も親戚もおらず独りで暮らしているのは知っていましたが、決まった仕事にも就かずフラフラしているようでね」
「く、雲見さんらしいですね…」
「日雇いの仕事をしながら、その日暮らしの生活を続けている上に、彼は大の博打好きでして…。折角稼いだ金を、全て博打に注ぎ込んでしまうのだとか」

雲見さんらしいと言えばそうだが、何ともまあだらし無い体たらくだ。そんな生活を続けていれば、当然ながら金に困るだろう。生きていくには、何かとお金が必要になるのだから。だったらその博打をすぐにでも止めるべきだと思うのだが、好きな人からするとそう簡単に止められる話でも無いのだろうか。

「いよいよ門下生たちにまで、金を貸してくれ、倍にして返す、なんて頼み事を…」
「それは…困りましたね。お金は簡単に人の関係を壊しますから…。容易に貸し借りするものではありません」
「全くその通りです。幸いにも、うちの門下生で雲見に金を貸した人はいないらしいのですが」

うーん、と難しい顔で顎に手を置く父を見つめる。父には、まだ何か気がかりな事があるようだ。じっと言葉の続きを待っていると、父はどこか意味深にその目を伏せた。

「雲見が、あまり宜しくない輩と金のやり取りをしているのを見た、という弟子もいるのです」
「よ、宜しくないって……一体…」
「分かりません…。ですが、彼のことです。上手い話を持ち掛けられたら、きっと疑いもせずに食いつくでしょう。私は…、彼が何か良からぬ事に加担しているのではないかと、心配でならないのです」
「お父様………」

ちゃらんぽらんな雲見さんではあるものの、私も彼の良さは幾つか知っている。常に明るくて、人に元気を与えられる性格や、意外にも優しさ溢れる好青年であることも。父はそんな雲見さんだからこそ、例え練習をサボっても丁寧に稽古を付けてきたし、何かと面倒を見てきた。そして今も、こんな風に彼の事を案じている。まるで自分の息子のように。

(火薬の匂い……。一体何をしてるんだろう……)

少し前から、感じ始めた雲見さんの異変。何か違和感を感じつつも、この時はまだ、私も父もその違和感の正体には気付けずにいた。




ーーーー・・・・




迫り来る、首相警護任務の日。黒尾率いる黒尾分隊の面々は、その背後に隠れる陰謀を疑いつつも、一層訓練に精を出していた。首相云々など関係無く、人の命を任されているのだ。絶対に何かあってはならない。もし、首相の命を狙うような悪しき人物がいたとしたなら、彼らは自分の命を張ってでも守らなければならないのだ。その責任は重大である。

この時、日本の総理大臣を務めていたのは、原隆であった。原首相には、数々の疑惑や黒い噂が絶えず、反発精神を秘めた国民がいることも、黒尾たちは知っている。官僚や政治家、一部の富裕層を中心とし、国民を省みない政治を展開したり、成人男性に選挙法を与えるという普通選挙法にも反対したり等、とにかくこの時、国民たちの首相に対する不信感がどんどん強くなっている事は、誰もが感じ取っていただろう。漂う不穏な空気が、黒尾たちをより緊張させていた。

「黒尾伍長」

稽古を終えた後、赤葦たちと雑談を交わしていた黒尾は、不意に別の隊員に名を呼ばれた。振り返った先には、黒尾を呼んだ新人の隊員と、更にその少し離れた後ろに立つ、階級章を光らせた大尉殿が立っている。ニコニコとどこか不気味にすら感じる笑顔を浮かべた大尉は、黒尾と目が合うなり、くいくいと首を動かし、身振り手振りで呼び出したのだ。

「赤沢大尉がお呼びです」
「……………」

お偉い大尉殿が、こんな下っ端伍長の元にわざわざ足を運ぶなんて。警戒するように鋭く睨み付ける黒尾の横で、赤葦もその目を訝しげに光らせた。…何か良からぬ事が起こる。彼らはそう確信していた。心配する赤葦たちに、先に戻ってろと促した黒尾は、その足でゆっくりと赤沢大尉に近付いていく。

「黒尾伍長。少し話がある」
「何でしょうか、赤沢大尉」
「ここでは落ち着いて話が出来ん。付いて来い」
「……………」

赤沢大尉は、人には聞かれたく無い話をしようとしている。前を歩く上司の後頭部を睨みつつ、黒尾は促されるままにその場を後にして、無言で歩を進めた。やがて辿り着いたのは、小さな来客用の一室で、赤沢はそこに着くなりどっかりとソファに腰を下ろしたのだった。出口付近で立ったままの黒尾は、姿勢を正して軍帽を取ろうとする。

「ああ、そんなに畏まらなくていい。楽にしてくれ」
「………ご用件は」

手短に終わらせたい黒尾が先を促す。優雅に足を組んで座っていた赤沢は、深い息を吐いた後に早速本題に入った。

「今度大役を任されたそうじゃないか。君の隊は、全員小さな村から出てきた志願兵だと言うのに、随分と立派なものだ」
「それが何か」
「俺は君たちを高く評価している。ここ最近の君らの活躍ぶりは耳にしているよ」

イライラと、黒尾の中で徐々に溜まっていく苛立ち。コイツは、決してそんな事を言う為に俺を呼び出したんじゃない。見え透いたつまらない嘘に付き合ってられる程、黒尾も暇ではないのだ。大尉からの褒め言葉に対し、返事一つも寄こさず見下ろし続ける黒尾に、赤沢も流石に苦笑いを零す。

「随分と嫌われているようだな」
「…いえ。赤沢大尉にそのように評価して頂けるのは大変光栄です」
「思っても無い事を」

膝に手をついてゆっくり腰を上げた赤沢は、立ち尽くす黒尾の隣に立った。前を見据えたままの黒尾の耳元で、赤沢は囁くように言葉を紡ぐ。

「原首相は、今国民たちから反感を買っている。今度の警備任務も、無事に終わればいいのだが」
「どういう意味ですか」
「いやぁ、心配してるのだよ。君たちのような田舎分隊に、こんな大役が務まるのかとね」

その瞬間、今まで無表情だった黒尾の眉が、ぴくりと吊り上がったのを赤沢は見逃さなかった。案外簡単に挑発に乗ってきた彼に、あくまでも宥めるように笑って声を掛ける。この時既に、黒尾は赤沢の掌の上で転がされていた。

「まあそんなに気を立てるな。俺は君たちを信じている。田舎者にしては頭も切れるし、武術もなかなかだ。下っ端の階級にしておくのが勿体ないくらいに」
「……………」
「何せこのご時世だ。当日も、一体何が起こるのか分からない。人間というのは、どんなに訓練を積んでいても、不測の事態が発生すれば全て無意味だ。例えば……、突然近くで爆発が起こったり、暴漢が暴れたりなんかしたら…、きっとその場は騒然となるだろうね。守れるものも守れない」
「は………?」
「でもそれは仕方のない事だ。君たちは懸命に警護をした。その上で守れなかった命は仕方ない。悲しいことではあるが、誰も君たちを責めることはないだろう」

どくどくと体中の血が騒ぐのを、黒尾は感じていた。この人は何を言ってるんだ。一体何の心配をしているんだ。嫌な考えが頭を過ぎり、黒尾の思考を全て奪う。その場に立ったまま、呆然とする黒尾の肩に、大きな男の手が置かれる。帽子の下から覗かせた目を光らせて、赤沢は再びにっこりと笑った。

「そうだ。今回の君たちの働きを評価して、俺から上に掛け合ってやろう。君たちはそこで燻っているような人材じゃない。もっと上に行くべきだ。そうだろう?」
「なにを…………」
「君は何の為に軍に志願した?何か大切な夢のために、わざわざ上京してきたんじゃないのか?その夢を、俺が叶えてやる。悪い話じゃないだろう」
「大尉………。それは、取引のつもりですか」
「取引ではない」


命令だ。



すっと笑顔の消えた赤沢に睨まれて、黒尾はゴクリと生唾を飲み込んだ。赤沢は、恐ろしい事を企んでいる。『例え原首相が何らかの理由で死んでしまっても、それは仕方のない事だ』と、彼はそう言っている。それはつまり、当日何かが起こるということ。そして……、例え黒尾たちが任務に失敗したとしても、出世の約束をしてやろうと、そんな誘いを持ちかけているのである。

当然、そんな取引に乗れば黒尾たちも共犯者となる。1人の命を犠牲に夢を掴むだなんて、そんなの馬鹿げてる。誰かが死ななければ叶わない夢など、そんなもの追うべきではない。当然ながら、黒尾は拒もうとした。夢は自力で叶える。例えそれがどんなに困難な道であろうと、姑息な手段で叶えるつもりなど毛頭無い。

しかし赤沢は、そんな黒尾の気持ちすらお見通しであった。全て先回りして、黒尾の言葉を捩じ伏せる。黒尾に選択権など最初から与えられては無かった。

「黒尾伍長。そういえば君は、随分と熱心に通っている店があるそうだね」
「………!」
「廃れた小さなカフェー…。噂を聞いたよ、そこによく珈琲を飲みに行くのだとか」
「テメェ……まさか………」
「そこの女給が淹れる珈琲は、さぞかし美味しいのだろうねぇ。是非とも俺も飲んでみたいものだ。まあ、俺が飲みに行く前に、その女がまだ店に居ればいいのだが」

このご時世、何があるか分からないから。そう笑う赤沢の顔を、黒尾は歯を食いしばりながら見ていた。握り締めた拳は怒りに震え、今にも殴りかかってしまいそうだ。赤沢は、アイツを……名無しの事を事前に調べ、把握していた。そして、コイツは自分の汚い計画に黒尾たちを入れ込む為、名無しを人質に取ったのだ。

「…訓練中に呼び出して悪かったね、黒尾伍長」
「………………」
「今度、君とその珈琲を飲みに行ける事を楽しみにしてるよ」

バタン、と閉められた重厚な扉を前に、黒尾はただ突っ立っていた。頭に浮かぶ、数々の思い。小さい頃から描き続けていた夢、自分の中の正義、部下たちの顔、そして…カフェーで働く、しがないある女の笑顔。天秤に掛けなくても分かる。自分が今何を大切にすべきなのか。何を選ぶべきなのか。


黒尾の背中は、夢破れた男のように、小さく丸まっていた。伸びる影からは、切なさを漂わせて。彼はただ一人、途方に暮れていたのである。







ーーーー・・・・





それは、何の変哲もない1日が終わろうとしていた時だった。客もいなくなり、店員も帰った後の静まり返った店内で、戸締り当番の仕事を終え、私もそろそろ帰ろうと支度を整えている時だった。キィ、と木の軋む音が聴こえて振り返る。扉を開ける音。誰かが店に入ってきたのだ。鍵を閉めていなかったので、誰かお客さんが入ってきてしまったのだろうか。慌てて裏から飛び出すと、そこに立っていたのはある一人の男だった。

「黒尾様…!?」
「悪いな、遅くに」

片手を上げてヘラリと笑う黒尾様。いつもと様子が違う事は、すぐに気付いた。私だって、ほぼ毎日彼らの顔を見ているのだ。それくらい簡単に分かる。でも、黒尾様がそうやって無理に笑って強がっているという事は、私には言いたくないのかもしれない。弱いところを見せたくないのかもしれない。そう思った私は、敢えてそこには触れずに、黒尾様をいつもの席まで通したのだった。

「閉店後なのに」
「いえ、いいんです。何か飲みますか?」

じっと俯く黒尾様の表情は無に等しく、何を考えているのかよく分からない。でも、何かが彼を悩ませている。そして、その答えを求めてここまでやって来たのだろう。手伝える事は少ないけれど、黒尾様がちょっとでも楽になるならば。どんな時間でも、私は彼を受け入れて、いつもの温かい珈琲を淹れてあげたい。

私の問いかけに対し、黒尾様は無言のままだった。背中は弱々しく丸まって、いつもの様な凛々しさも、逞しさも、今は無い。とりあえず何か飲み物を用意してあげようと、踵を返した私の腕を、黒尾様が掴んで引き止めた。

「え、」

ぐい、と引っ張られた力は思いの外強くて、私はそのまま彼の腕の中に雪崩れ込んだ。声を発する間も無く、唇に柔らかい温もりが重なる。目の前には、瞳を閉じた切なげな表情の黒尾様が広がっていて、接吻をされていると頭が理解するのに数秒は必要だった。

恥ずかしさはあったけど、嫌じゃなかった。きっと、黒尾様は人の温もりに甘えたいのだと思う。そして、その甘える相手に私を選んでくれた事が、素直に嬉しかった。そっとその胸板に手を添えて、私も静かに目を伏せる。今は邪魔する人もいない。喧騒も、明かりも、全て無だ。

「く…、くろおさま……」

離れた唇の隙間から、私が控え目に貴方の名を紡ぐ。それがより彼に火を付けたのか。再び塞がれた唇は、先程よりも熱く、そして激しかった。緩く傾けられる黒尾様の顔。後頭部に回った手によって、私は逃げ道を失う。捻じ込まれた舌は、ぬるぬると口内を蠢き、簡単に思考を奪っていった。

「んっ……、は…ぁ……」
「ん………」

蕩けてしまいそうな体温。くっ付き合う体と体。夢のように甘くて、くらくらと目眩がする程だ。黒尾様は、何回も何回も口付けを求めた。何も言わずに、ただ無言で私を求めた。私も、何も聞かずにそれに答えた。今の彼にはそれが一番だと、そう思ったからだ。

やがて、ようやく二人が離れた頃。熱い吐息を漏らした私の体を、黒尾様はドンと突き飛ばした。傾いた体は机にぶつかって、何とか踏み止まる。先程とは真逆の行動に、私は困惑するように顔を上げた。黒尾様は、やはり無言のままで軍帽を被り直し、外套を整えて立ち上がる。…店を、出て行くつもりだ。私は黒尾様を引き止めるつもりで、慌ててその腕を掴んだ。行かせてはいけない。何となくだが、そう直感したから。

「ま、待って、黒尾様……!」
「名無し」


漸く開かれた黒尾様の声は、感情を押し殺したような、冷たくて刺すような鋭さを持った声だった。





「……もう、この店には来ない」