明日待たたる宝船B

闇に消えて行く背中を、私は掴むことはおろか、追うことすらできなかった。足は鉛のように重く、一歩も踏み出すことができない。伸ばした手は空を掴み、呼吸すら上手くできなくなった。


『もうこの店には来ない』


突然突きつけられた別れに、当然ながら私は納得することも、理解することもできなかった。待って、行かないで、そんなの嫌、ずっと一緒にいたい。…湧き上がる感情は沢山あっても、それを実際に言葉にする事が出来ない。別れの言葉を口にした時の、黒尾様の冷たい目が脳裏にこびりついて、怖くて縋れないのだ。縋ったところで、またさよならと言われたらどうしよう。私の心は、平気でいられるのだろうか。それが怖くて追いかけられない。

結局私は、店内でただ一人立ち尽くしながら、徐々に消えて行くその背中を見守る事しかできなかったのだ。


閉店後、突然現れて、突然消えて行った黒尾様。彼の横顔や背中からは、何かがあった事、そしてその何かが、彼を悩ませていたことは明白だった。それらが、今回の黒尾様の行動に結びついていることも、手に取るように分かる。でも、きっと私がそれを問い詰めたところで、黒尾様や…皆さまは絶対に口を割らないだろう。こうするんだと決めた彼らの意思は、何よりも固く揺らぐことが無いことを、私は知っている。

(黒尾様………)

今まで、黒尾様から貰った沢山の気持ちや温かさを、頭の中に思い浮かべながら噛みしめた。きっと、ずっと一緒にいられる。そう思っていた反面、いつかは別れが来るのかもしれないと、心のどこかでは覚悟していた。でもその別れは、きっと今ではない。こんな風に、お互いが何かを我慢して受け入れなければならない別れなど、絶対に間違っている。


(きっと黒尾様に何かあったんだ……)


ぎゅっと握り締めた拳からは、私の覚悟が滲み出ていた。何があったのかなんて、一般人の私には到底知る由もない。けど、それを解決しない限り、黒尾様や、赤葦様、研磨様、白布様、川西様…皆と本当にこのまま、一生会えなくなってしまう。ここで動かなければ、私がずっと後悔するだろう。そして、その気持ちはきっと、きっと、

「黒尾様も一緒、ですよね…?」

別れたくない、そう思う気持ちは、どうか一緒であってほしい。私のそんな願いと決意は、どんどん膨らんでいった。私如きが軍人様を助けるなど、おこがましいにも程があるかもしれないが、一般人だからこそ、出来ることもあるかもしれない。軍人様は、色んな決まりや役職に縛られて、息苦しい思いを強いられる時が多々あるんだと、赤葦様は以前仰っていた。もしかしたら、黒尾様たちもまたそんな理不尽に押しつぶされそうになっているのかもしれない。

(私が…何とかしなければ)

今まで、沢山彼らに助けてもらってきた。たったこれだけで全ての恩を返せるとは思っていないけれど、私の黒尾様たちを思う気持ちは本物だ。それを証明してみせる。


そうして私は、その夜。決意に弾かれるように、その店を飛び出したのだ。星空の光る夜空の下を、しがないカフェーの女給が1人。ある場所に向かって駆け抜けていくのである。






◇◆◇◆





「んで?こんな夜中に俺に会いに来てくれるなんて、名無しも随分大胆やなあ」
「ち、違います!そういう意味で逢いに来た訳じゃ…!」
「嬉しいわあ、邪魔者もおらんし、いっぱい楽しもうな」
「ちょっと…!!話を聞いてください!」


ぎゅうう、と私を力強く抱きしめるのは、宮侑少尉。通称侑様。黒尾様と同年代でありながら、エリートな家系とお父様の存在もあり、少尉という階級に就かれているお方だとか。とても気さくな方で、こうして私のような女給にも分け隔てなく接してくれる、とてもいい方。…である反面、人の話を聞いてくれない強引なところもあって、なかなか癖のお強い方だ。

今も相変わらずの暴走っぷりで、勝手に話を進めてしまっている侑様の体を、何とか引き剥がす事に成功した。乱れた呼吸を整えながら、ようやく話を聞く姿勢を取ってくれた侑様に向き直る。私がこんな真夜中に、侑様の迷惑を顧みず突然軍の宿舎に訪問したのは、頼み事があったからなのだ。

「侑様、お願いがあるのです」
「ま、こんな時間に約束も無く来るくらいやから、何かあったんやろなとは思っとったわ」
「ご、ごめんなさい、いきなり、こんな……」
「……黒尾たちやろ」

ぴくりと肩を震わせた私を見て、侑様の思惑は確信に変わった。私が血相を変えるような事なんて、あの働いている店に経営危機が訪れているか、黒尾たちの身に何かあったか、そのどっちかしかないだろう、なんて。ずばりと言い当てられてしまった侑様に、私はぽかんと口を開く。流石は軍人様…、頭が切れる。

「突然、もう会えないと告げられて…」
「ほう」
「何が何だか分からず…、結局黒尾様はそのまま帰られてしまったんです」
「ってことは、俺にとっては好機って訳やな。俺と結婚してや、名無しちゃん」
「ふざけないでください!」
「…人の本気を冗談で済ますな」
「…黒尾様たちにきっと何かあったんです、何とかしないと」
「お前も大概人の話聞かんよな、俺の事言えんで」

詰め寄る私は、よっぽど必死だったのだろう。はー、と大きな溜息を一つ溢した侑様は、渋々といった様子で私にある話を聞かせてくれた。それは、軍の中でも広まっている話であった。

「俺も最近はアイツらと関わってないから、詳しいことは知らんけどな。人づてに聞いたんは、今度でっかい仕事があるっつー話や」
「大きな仕事…?」
「アイツら、下っ端分隊の癖して、首相護衛の任務を命じられたんやって」
「しゅ、しゅそうごえい…!?」

思わず素っ頓狂な声が出てしまった私は、自分で慌てて自分の口を手で覆った。首相、と言えば、あの有名な原隆首相、の事であろう。誰もがその名を知っている。そして、黒尾様たちがその方の護衛をするだなんて。それだけ彼らの今までの働きや結果が評価されているという事なのだろうか。喜びそうになった私に対し、侑様はどこか神妙な面持ちで、視線を意味深に彷徨わせていた。その様子が、私に再び嫌な胸騒ぎを植え付ける。

「………どう考えてもおかしいんや」
「おかしい…?」
「例え黒尾たちが相応の結果を残していたとしても、この世界は経歴が全てなんや。アイツらが田舎出の志願兵である限り、正当に評価はされへんし、出世も限界がある。残念ながらそれが今の軍の有り方や」
「そんな…。じゃあ何故、今回そんな大役を…」
「……十中八九、誰かの陰謀が働いてるんやろな」

陰謀。そんな言葉を、まさか耳にする日が来るなんて。まるで小説のような話だ。軍の裏側については、黒尾様たちからも何度も聞いている。有り得ない話ではないのかもしれない。でも、それでも私は、僅かに残る希望を捨てられずにいた。もしかしたら、本当に黒尾様たちの努力が実を結んで、今回の大役に繋がったのではないかと。侑様の言うその陰謀は、考えすぎなのではないかと。しかし、胸に燻る嫌な予感が消えないのも、また事実であった。

「でももしかしたら本当に、黒尾様たちのことを誰かが評価して…!」
「それは絶対に有り得へん」
「…ぜ、ぜったい…?」
「絶対や。……自分が一番、軍の裏側に近い人間やからな。黒尾たちよりもよっぽど、そういう汚い話を見てきた。俺が言うんやから、絶対や。…黒尾たちは、何かに巻き込まれようとしている」

ずん、と肩にのしかかる重み。また、黒尾様たちは出身地如きで蔑ろにされているというのか。彼らの努力や夢を知らない癖に、軍の偉い人たちは、自分たちの権力を振りかざして、また彼らを……。

「アイツらが首相護衛に就くって聞いた時、どうもきなくさいと思った。今は首相に対して反感を持っている連中がそこら辺にいる。そんな中で首相の護衛に就く隊は、黒尾分隊のみ。幾らなんでもがばがば過ぎやろ。襲ってくださいって言ってるようなもんや」
「ま、まさか………軍の方々は、首相を……」
「まあ、そう考えるのが妥当やろな。首相を消して、その罪を護衛の任に就かせた黒尾たちに被せる。自分の手を汚さずに済む、完璧な計画や」
「そんな……!何かの間違いじゃ…」
「正直、黒尾たちの働きは、アンタら一般人からしたら正義に映ってるかも知らんが、軍上層部からしたら邪魔以外の何者でもないんや」
「邪魔って……」
「上の連中は、自分たちが美味しい汁を啜る事しか考えてへんからな」

どれだけ否定しても、侑様は納得する他ない理由で私の言葉を捩じ伏せた。軍の人間である侑様の方が、軍のことを理解しているのは当たり前だ。だからきっと、侑様が予想している事は、これから起ころうとしている事実なのだろう。

沸々と込み上げてくるのは、怒り。軍に使われ、潰されそうになっている黒尾様たちの事を思うと、胸が張り裂けそうになる。許せない。絶対に許してはいけない。私が必ず阻止してみせる。握った拳と私の決意を、侑様は静かに見下ろしていた。

「頑固な女は、やめとけって言っても聞かへんからなあ…。…黒尾たちの為に何かするつもりなんやろ」
「はい。私にできることがあるなら、何でもするつもりです。…と言っても、策など全くありませんが……」
「………しゃあないな」

何度目か分からない深い溜息を付く侑様に、私は希望を込めた目で見上げた。何かを企む侑様は、片目を閉じて私に微笑む。

「その代わり、お礼はたんまり貰うで」
「お礼……?」

お金はあまり持ってませんが…、と言い淀む私に、侑様はただただ笑うだけだった。











◇◆◇◆





「どういう事だよ、黒尾さん」

部屋に響く険しい声音は、前に立つ黒尾に向かって投げられていた。ただ無表情で、冷たい視線で面々を見つめる黒尾は、自分の仲間であり部下でもある4人の鋭い視線を受け止めていた。一歩前に出た川西は、何も答えない黒尾に詰め寄り、胸倉を掴んで怒鳴り付ける。

「名無しにはもう関わるなってどういう意味だよ」
「やめろ太一!」

いつもは飄々としていて感情を滅多にむき出しにしない川西が、珍しく怒りを全面に表している。そんな彼を珍しく思いながらも、白布は咄嗟に二人の間に入って川西を止めたのだった。しかし、白布も抱いている気持ちは同じ。突如、何の前触れもなく黒尾から告げられた、『もう名無しには関わるな』という言葉には、納得できる筈が無かった。それは隣で静かに口を閉ざしている赤葦や研磨も同じである事は、その表情から簡単に窺う事ができた。

「…言った通りの意味だ。もう二度と名無しには会わない。関わることは許さない」
「……黒尾さん」

それ以上語ろうとしない黒尾も、意思は固そうだった。黒尾だって、意味も無く突然こんな事を言うような男ではない。きっと何かがあったんだろう、そう理解するのに時間は要らなかった。静かに黒尾の名を呼んだ赤葦は、川西に代わって一歩前に出る。少しだけ黒尾の方が高い身長を見上げて、赤葦はその目を鋭く光らせた。

「一体何があったんですか?昼間に大尉に呼び出されてから、ずっと様子がおかしいみたいですが」
「別に何もねえよ。今度の任務の内容を詳しく聞いてただけだ」
「……アンタも大概馬鹿ですね、ほとほと呆れますよ」

ぴりぴりと張り詰めた空気が、より一層鋭くなっていくのを、研磨も肌で感じていた。一触即発…。今の状況には、正にその言葉がぴったりであろう。

「そんな言葉で俺たちを騙せる程、浅い付き合いじゃないでしょう」
「…………」
「一体何があったんですか。名無しも関係することなんですか」

核心を突いてくる赤葦に、それでも口を割らない黒尾。ただ軍帽を深く被って、その表情を隠しながら俯くだけ。沈黙が流れるばかりで、これではいつまで経っても埒が明かない。赤葦も、進まない状況に段々と苛立ちを募らせ、再び黒尾のその胸倉を掴んだ後、勢いのままに殴り飛ばした。勢いよく倒れ込む黒尾と、驚く白布と川西。研磨の「ちょっと、」という制止の声も聞こえぬふりをして、赤葦は黒尾の上に跨り、再び睨み付ける。

「アンタにとって、俺たちの存在はその程度なんですか!」
「………」
「アンタが部下を信用しなくて、俺たちは一体誰に付いて行けばいいんですか!」
「…赤葦…」
「俺たちは…!同じ夢を追って、ここまで一緒にやってきた仲間なんじゃないんですか……」





『俺、上京しようと思うんだ』
『上京!?』
『黒尾さん、本気なんですか』
『…ずっと夢だったんだ。お前たちに語った話は、嘘や冗談なんかじゃない。本気で軍人になりたいんだ』
『………黒尾さん』
『…お前らに頼みがあんだけど』


ーーー俺に、付いてきて欲しい。






「…俺はアンタを信用しています。アンタが本当に、自分の心で選んだ選択肢がそれなら、俺たちも従います。でも…」
「………」
「……そうじゃないのなら…。何かを諦めて、選びたくない道を選んでるのだとしたら…、俺たちはもうアンタに付いて行くことはできません」


信じさせてくださいよ、黒尾さん。


悲痛に歪められた顔と言葉は、黒尾の心に真っ直ぐに響いた。何か悪い夢から目を覚ましたかのように、黒尾の表情から曇りが消えて行く。


そうだ。俺がなりたいのは、上層部の言いなりになっているような腑抜けた軍人なんかじゃない。俺が欲しいのは、周りからぺこぺこ頭を下げられるような肩書じゃない。俺が、軍人になりたいって思ったのは……、俺が欲しいと思ったのは……、









『黒尾様!おかえりなさい!
今日もお勤め、ご苦労様でした。
いつもの珈琲、淹れておきましたから。
私の前でくらいは、全てを忘れて、ゆっくり休んでいってください』







頭の中で綺麗に笑う、一人の女。俺は、そんな大切な人たちを守る為に、軍人になりたいと思ったんだ。







「……悪かった、みんな」
「…黒尾さん…」
「お前の一発のお陰で、目が覚めたわ」
「………黒尾さん、事情を聞かせて貰えますか」
「……………」



ゆっくりと体を起こし、軍服に付いた埃を払い、軍帽を被り直す。彼の胸元に光る伍長の階級章は、眩しく光り輝いている。仲間の顔を見回した後、黒尾は、あの時と同じ台詞を口にしたのだった。



「…何があっても、俺に付いてきてくれるか」



静かに黒尾を見据える男たちは、その瞳に揺るぎない正義感を滲ませていた。