明日待たたる宝船C

「良いですか、名無し」

私の前に立つお父様は、依然とした態度で私を見下ろしている。場所は我が家の道場。『勧善懲悪』とデカデカ書かれた額縁を前に、私は改めて自分の身を引き締めていた。

「拳銃の発砲から、弾が時速どれくらいで飛んでくるのか……私が持っている全ての知識を貴女に教えました」
「はい」
「貴女は私よりも幾分若いですから、動体視力がとても優れています。拳銃を持った相手と真正面から対峙しても、冷静に相手の動きを見なさい。そうすれば弾丸は、掠りはすれど致命傷を負うことはない筈です」
「…はい」

まだ日も昇り切らない早朝に、何故こんな言葉を交わしているのか。それは、今日という日が理由だ。





『もうここには来ない』




そう黒尾さんに告げられてから、1週間。あれから黒尾さんは、本当にカフェーに姿を見せなかった。黒尾さんだけじゃない、赤葦さんも研磨さんも白布さんも川西さんも…。

でも私も、ただそれを寂しく嘆いていたばかりではない。黒尾さんたちを助ける。その決意を胸に、この1週間、私は改めて父親にみっちりと稽古を付けてもらい、鈍った体を鍛え直した。幼い頃に武術の基本を教わっていたとはいえ、最近は専らカフェーの仕事ばかりしていたのだ。体力は落ちていたし、基本の型や構えすら甘い部分が多かった。そこを全て父に直してもらった。

更に父は、私に拳銃の知識を教えてくれた。私がしようとしている事を聞いた時、父は確信したのだという。原首相を狙う者の中に、必ず、拳銃を所持する者が現れると。もし本当に、父の目論見通り拳銃を持った人間と対峙した時、どうしたらいいのか、対処する方法を伝授してくれた。

「お父様……。危険な事をしようとしている私を、支えてくれて、背中を押してくれて、ありがとうございます」
「親ならば…、止めるべきなんでしょうね。もっと自分を大切にしなさいと」

頭を撫でてくれる、優しくて大きな手。この手に背中を押されると、私は何でもこなせるような気がするのだ。

「貴女は私によく似ていますから。きっと止めた所で、貴女は行くのでしょう」
「ごめんなさい、お父様…」
「それに。自分が守りたいと思った正義は、守るべきです。女でも男でも…譲ってはならない時があります」
「はい。私は、それが今だと思っています」

私の真剣な眼差しを、父は嬉しそうに見つめていた。私の身を案じている反面、成長した娘の姿に幸せを噛み締めている様だ。

「ですが名無し。これだけは肝に銘じて下さい」


命より大切なものはありませんよ。


その言葉は、ずっしりと心に重く響いた。必ず無事で帰ってくる。それが、父が私の行動を許す最低条件。私は黒尾様たちを救い、そして無事にここへ帰ってくるのだ。

「行ってきます、お父様」

見送る父に背を向けて、私は家を出た。門の所には、今回の協力者である宮侑様が片手をひらひら振って待っている。さあ、いよいよだ。緊張する胸に、手に抱えていた風呂敷包みを抱きしめる。この中に、今日の作戦の鍵を握っていると言っても過言ではない、ある大切なものを包んでいる。普通の一般人であれば手に入れることのできない物だが、宮侑様がどういう訳か入手して、私に貸してくれた。彼は軍人であるが故に、顔が広いようだ。

「準備は出来たか」
「はい…!お待たせしました!」
「…ええ顔してるな自分。やっぱええ女や」

からかう様に笑う侑様と共に歩き出す。向かう先は、横浜駅。そこで、黒尾分隊が原隆首相を警護する。家を出ていく私の背中を見送った父は、飾られた額縁の中の女性に笑いかけた。綺麗に笑うその女性は、色あせた写真の中で私のことを見守ってくれているようだった。

「貴女の娘は、とても立派に成長しましたよ…」






◇◆◇◆







窓から流れるのどかな景色を眺めていると、まるで自分に課せられた任務のことを忘れ去りそうになった。いや、実際には、本当に忘れるなんてことはあり得ないのだが、それくらいに平和な景色が続いていた。これから起こる事など全く知る由も無く、そこにはのんびりとした時間が流れている。ただひたすらにぼーっとその景色を見つめながら、車内を歩く車掌と憲兵が、後ろの方で「窓をお閉め下さい」と呼びかけている声を耳にした。

「黒尾さん。トンネルに入るみたいです、窓を閉めてください」

煙が入ってきますよ、と横に座る赤葦に言われて、黒尾はそこでようやく意識が引き戻されたのだった。横浜駅から東京駅に向かって走る、大きな汽車。黒尾たちは、その汽車に乗車し東京駅を目指していた。軽く腰を上げて窓へと手を伸ばすさながら、自分の向かい席へと目を配る。そこには、数人の要人に囲まれて談笑をする男…、彼こそが、原隆。日本の現首相でもあるその人だ。俺たちは今、この男の警護任務に就いている。

「首相の警護に、このような下級の隊1つしか寄越さないとは。一体どういうつもりだ」

要人の一人が、窓を閉めようとした俺の階級章を指差して、唐突にそう言った。怒るのも無理はない。本来ならば、もっと上の階級の隊がこの任務に就くべきだったのだ。なのに実際は、こんな手薄な警備。唯一警護に就いている隊は、端から見れば下っ端の分隊。例え黒尾たちが、どれだけの信念を持ってこの任に就いていると言っても、原首相たちからしてみれば不安は拭えないだろう。

「申し訳ありません。ただ今我ら日本軍は、別の任務や軍事業務に就いている隊ばかりでして…。これだけしか人手を割くことができなかったのです」
「ここにいるのは日本の首相だぞ!?他の任務よりも一番に最優先すべきだろう!」

黒尾の代わりに出てきたのは、例の赤沢大尉であった。通路を挟んで隣の席に座るこの男も、俺たちと同じ汽車に乗り、今回の任務に同行している。と言っても、勿論黒尾たちと共に首相を警護する為に付いてきているのではない。恐らくは…、

(今回一番注意すべき人物は…、間違いなく赤沢だろうな…)

この汽車に乗る前。黒尾は、この赤沢の動きに注意を払うよう、己の部下に告げていた。車内での配置は、原首相の前の席に黒尾と赤葦。そして、赤沢が座る場所の前の席に、白布と川西を座らせ、様子を監視するべく少し離れた席に研磨を座らせる予定でいた。しかし当日、駅に現れた赤沢は、数人の見知らぬ男を連れてやってきたのだった。帽子を目深にかぶった、いかにも怪しい男たち。訪ねてみれば、その男は赤沢が雇った優秀な人材で、今回の首相警護で大きな役割を持つ人物だと言っていた。しかし、当然そんなものは嘘である事など分かっている。恐らくは、原首相の命を狙う…暗殺者。

その数人が、まるで赤沢を守るようにして、固まって席を陣取ってしまった為、彼の前に配置する予定だった白布と川西は、席の移動を余儀なくされた。結局、赤沢が座る席の後ろに白布川西の2人が座ることになり、黒尾の後ろの席に座った研磨が、赤沢の動向を1人で見張ることとなった。どうやら赤沢は、黒尾たちのことを信用してはいないらしい。絶対に自分の計画の邪魔をされないように、向こうも策を練って来たということだ。

「切符を拝見致します」

不穏な空気流れる車両に、一人の車掌がやってきた。一人一人の切符を受け取り確認しているその車掌もまた、顔が見えないように帽子を深く被っている。疑心暗鬼になっているせいか、どうも出てくる人全員が怪しく見えてしまう。恐らく赤沢は、東京駅に着く前に、この車内で計画を実行しようとしている。駅に着けば沢山の人の目に触れて、暗殺の機会を得ることが難しくなるからだ。だとすれば、この車掌だって協力者の可能性も無くはない。

黒尾は、その車掌に切符を手渡しながら、どうにか顔が見えないものかとその帽子の中を覗き込んだ。しかし、車掌もまた、まるで黒尾から顔を隠すように俯き、帽子の唾に手を添えて更に深く被り直してしまった。いよいよ怪しい。人に顔を見られたくないだなんて、よっぽどやましいことがあるに違いない。

黒尾の中の疑惑がどんどん膨れ上がっていくのと同時に、その車掌は原隆が差し出す切符に手を伸ばした。怪しい人物との接触は、どんな些細な事でも注意を払わなければならない。思わず黒尾が立ち上がって、車掌に声をかけた。

「おい、お前、」

その瞬間。汽車は大きく車体を揺らしながら、けたたましい騒音と共にトンネルの中に差し掛かった。一気に車内は真っ暗闇に包まれて、何も状況が見えなくなる。黒尾や赤葦、白布川西研磨は、焦ったように立ち上がり、周囲を警戒した。暗殺をするなら、黒尾たちや原が混乱している今が好機。赤沢たちがここで何も動かない筈がない。

「赤葦!聞こえるか!」
「黒尾さん…!駄目です、トンネルで音が反響して、よく指示が聞こえない…!」
「何も見えねぇ…、太一、明かりは!」
「安易に照らすと危ない…。相手もこの暗闇なら、仮に拳銃を持っていたとしても上手く狙えない筈…」

視覚と聴覚を奪われた今、原や要人たちもパニックに陥っていた。黒尾たちの混乱が彼らにも伝染し、悲鳴を上げて震えながら身を寄せ合っている。その声が煩くて、黒尾たちの状況分析をより困難なものにしている。小さく舌打ちをする黒尾と、宥めようと原たちに声を掛ける赤葦の傍らで、ただ1人。暗闇に目を鋭く光らせたその人だけは、咄嗟に何かを感じ取っていた。観察眼の鋭い、弧爪研磨だけは。

「クロ!!拳銃の音がする!!」

研磨の声に弾かれるようにして、黒尾は原首相に飛びつくように自らの体で彼を庇った。最悪拳銃を発砲されても、俺が犠牲になればいい。赤沢の…あの男の思い通りにだけはさせるものか。そんな強い意思のままに、黒尾は臆することなく飛び出したのだ。原隆に向かって拳銃を構える、赤沢の隣に座っていた男の前へ。

「黒尾さん!!!」

赤葦の叫び声と共に、その拳銃はいよいよ発砲される。引き金に掛けられた無骨な指が、くい、と曲がって、そしてその後は………。








響いてきたのは発砲音ではなく、男の呻き声と鈍い音。そして、床に拳銃が転がるような音だった。一体何が起こっているんだと車内が騒然となる中、ようやく汽車はトンネルを潜り抜け、再び車内に光が差し込んだ。

「窓を開けろ!!」

黒尾の指示により、赤葦白布川西研磨は、急いで車内の窓を開ける。一気に明るくなったその場の眩しさに目を細めながらも、黒尾たちはようやく、そこで何が起こったのかを目の当たりにすることとなった。

床に転がる拳銃と、苦しそうに呻きながら腹のあたりを押さえている男。そして、さっきの立ち位置から一歩も動かずその場に佇んでいる、例の車掌の姿であった。

(この車掌がやったのか…?)

状況から憶測すると、呻いている男が、拳銃を発砲しようとした犯人である事は明白だ。しかし、一体誰がこの男を抑え込んだのか。黒尾や赤葦は、目の前の原首相を守ることで精いっぱいだったし、白布や川西や研磨も、咄嗟にこの拳銃の男を押さえる余裕はなかった筈。だとすれば、残されているのは…




「お客様。車内にそのような危険物を持ち込まれては困ります」



どこか聞き覚えのあるような、そんな凛とした声が響き渡って、黒尾たちは更に言葉を失った。男と比べると少し小柄で、帽子を深く被った謎の車掌。その車掌が、黒尾たちに背を向けたまま、床に転がっている拳銃をゆっくりとした動作で拾い上げた。銃口から微かに香る、火薬の匂い。数回使った形跡も見られる。…間違いない。車掌は、この拳銃を使った男の正体を確信していた。

「だ、誰なんだよお前…!ただの車掌じゃないのか…!?」

ずっと蹲っていた男は、ようやく顔を上げて車掌を睨んだ。床に膝を付けたまま男を見下ろす車掌の正体に、その男もまた、漸く気付いたのであった。


「こんな所で稽古をサボっているなんて…。父上にどう言いつけてやりましょう。………雲見」



何の迷いも無く紡いだその名は……、父が一番に可愛がっていた門下生の名前…。サボり癖があって、お金にだらしない、どうしようも無い人だけど、でも純粋でいい所もあるんだと、そう言っていた彼の名。父が言っていた、「彼から火薬の匂いがする」というのは、これだったんだ。この日の為に、雲見はずっと射撃の練習をしていたんだ。その時に服に匂いが染み付いたのだろう。残念ながら、父の嫌な予感というものは見事に当たってしまったようである。そして父は、それを全て予測していたのだろう。だから私に、拳銃の知識を教えてくれたんだ。

(お金でも積まれたのか…。何にせよ、愚かな真似を…)

私は、決意を改めるように、その身に纏う車掌の制服を正した。帽子を被りなおしながら、ゆっくりと立ち上がる。そう言えばお父さんが言っていたっけ。きっと雲見では、私の娘には勝てませんよって。あの時は彼との稽古を断ってしまったけど、まさかこんな形で実現する羽目になるとは。自分の弟子がこんな事に手を染めている事を知ったら、父はどんな顔をするのだろう。頭に浮かぶ、父親の悲しい顔に胸が切なくなる。

父の為にも…そして黒尾さんたちを守る為にも。まずは彼に…、雲見に、絶対人を殺させない。彼を、必ず父の元へと連れて帰ります。説教はその後、父からいっぱいして貰えばいい。








そうしてその列車は、東京駅への長い長い道のりを、只ひたすらと走り続けるのである。行き付く先がどこなのか、それは黒尾たちと私の手に掛かっていた。