本音

「おー、今日もご苦労さんやなあ、黒尾分隊サン」
「……宮少尉」

その日、黒尾分隊の皆さまは全員揃って来店なさった。いつもと同じ夜の時間。黒尾様たちは一人で来ることもあれば、こうしてみんな仲良くやってくる時もある。その時は決まってみんな、同じカウンター席に同じ並びで座り、同じ珈琲を啜るのだった。私は、そんな彼らの姿を見ながら、共に談笑する事が楽しみでもあった。

そうしていつもと変わらぬひと時を過ごしていると、扉の開く音と共に耳に入ってきた声。宮少尉、と黒尾様に呼ばれた彼ら二人…、瓜二つの顔を持った男が入り口に立っていて、片方はニヒルな笑みを、片方は無表情のままこちらを見つめていた。黒尾様たちと同じ軍服を身に纏っているが、その階級章が物語っているように、彼らは黒尾様の上司に当たる人である。黒尾様たちは、一応形式的に椅子から立ち上がり、軍帽を取って敬意を払うが、その表情からは嫌悪感の様なものが隠しきれていなかった。二人は、そんな黒尾様たちの横を素通りし、私に一直線に歩み寄ってくる。

「み、宮様…!」
「あかんあかん、名字やなくて名前で呼んでって言ったやろ」
「あ…、えっと…」
「ほら、どっちがどっちか言うてみ」

にこにこと笑う宮様の片方…、侑様は、こうして来店する度に私を試す。どっちがどっちか分かるか、と必ず聞いてくるのだ。まだ会って間もない私は、その質問にいつも言い淀んでしまう。間違えたら大変失礼だ、黒尾様たちの上司に当たる方なのに、そんな失礼をしたら迷惑が掛かってしまう。私が困り果てていると、横からすかさず赤葦様が口を挟んだ。

「こっちが侑少尉、こっちが治少尉。簡単ですよ」
「…お前には聞いとらんのやけど」

赤葦に対して、ようやく初めて口を開いたのが、侑様と比べると無口な治様。本当にお顔がそっくりだから、判断するとすれば、この性格の違いと、微妙な髪型の違いしかない。ぐいぐいと押してくる侑様に対して、治様は控え目な印象だ。

「ところで少尉様がここで一体何を」
「そんなん決まっとるやん。女に金貢いで、やらしい事しようとしてる奴がいないか見回ってんねや」
「それはそれは、随分と仕事熱心なことで」

宮様がいる時、黒尾分隊の皆さまは若干ピリピリと苛立っているような雰囲気を醸し出す。今もこうして、侑様に対して嫌味をぶつける黒尾分隊の一人、白布様。侑様も侑様で、売り言葉に買い言葉といった様子で言い返している。一触即発の雰囲気に動揺するのもいつものことだ。見るからにあまり仲が宜しく無さそうな彼らだが、相容れないのは仕方のないことなのかもしれない。

軍人には、大きく分けて二つの人種がいる。お金や親の力がある者は、軍人を育成する陸軍幼年学校に入学し、幼き頃から軍人としての経験と勉学を詰む。20代前半くらいで卒業すると、そのままいきなり少尉という階級を与えられ、出世街道まっしぐらだ。それがまさにこの宮兄弟であり、彼らの父親はかなり偉い立場にある方だと聞く。それとは対照的に、黒尾分隊の皆さまは、そういった勉学や経験等無く、田舎から夢の為に自ら志願し、上京してきた志願兵。例えどんなに結果を残して上に上り詰めても、学校を卒業したばかりの年下少尉には敵わない。そこには圧倒的な差があり、どう足掻いても覆る事はないのだ。

だから、黒尾分隊の一人である白布様はとくに、こういった尉官の方たちに嫌悪感を抱く。尉官の方々も、下士官や兵を見下している節が強い為、ここの溝は深く、決して埋まらないものなのだ。

そういった裏の事情もある為、宮様がこうしてこのカフェーを訪れて私に構うのは、全て黒尾様たちに嫌がらせをする為、だと私は思っている。実際、初めて会ってチップを貢がれた時には、「勘違いしたらあかんで。俺はアイツら田舎分隊に嫌がらせがしたいだけや」と念を押されたことだってあった。そんな事の為に、わざわざ庶民が通うカフェーに足を運び、庶民の女に高い金を払っているのだから、相当な暇人なのか物好きなのか。心の中でそう考えていたら、いつの間にか目の前に侑様が迫っていて、私のエプロンのポケットにチップを捩じ込みながら、目と鼻の先まで顔を近づけてきた。

「なあ、今日もご奉仕頼んでええ?俺仕事で疲れてんねん」
「え…、あ…、」
「いつもコイツらにやってるみたいにさ。簡単やろ?」

私の返事を待たずに、腰を抱き寄せて密着する侑様。彼の胸板によって押しつぶされる胸、足の間に入り込む侑様の膝。腰に回された手は緩く撫でるように動き、甘い吐息がかかって痺れるような感覚が走る。こんな風に強引に迫られると、どうしたらいいのか分からなくて、しかも強制的に握らされたチップにより断ることも出来ず、私はただ困ったように眉を下げた。救いを求めるべく、近くにいた研磨様に目線を配ると、研磨様も私のその訴えようとしている事が分かったのか、椅子から立ち上がって助け船を出そうとしてくれている。しかしそんな研磨様よりも前に、侑様の肩を力強く掴んだ手があった。

「………黒尾様……!」
「……、良い所なのに邪魔すんなや」
「離せ」

今までずっと黙って見ていた黒尾様が、見た事のないような怖い顔をして侑様の肩を掴み、真っ直ぐに睨み付けていた。被り直した軍帽の奥から覗くその眼は、獣のように鋭く光っている。本気で怒っていることの証であった。そしてその眼差しに対して、侑様も一気に怒気を含んだ恐ろしいオーラを放ち始める。本当に目の前で殴り合うのではないかという雰囲気に、私もただ動揺するばかり。侑様は、私の体を突き飛ばすように離すと、黒尾様と対峙した。ぐらりと後ろに傾いた私の体は川西様に受け止められる。

「か、川西様…!黒尾様が…!」
「大丈夫大丈夫。止める役がちゃんといるから」

焦る私とは対照的に、いつもと変わらぬ皆さんは、こんな光景など見慣れたものなのだろうか。止める人がいるから、と言った川西様の言葉通り、睨み合う二人の間に入った人影。赤葦様が、黒尾様の肩を掴んで制止していた。同時に治様も、侑様の体を手で制している。

「黒尾さん、抑えて」
「…………」
「ツムもそれくらいにしいや。こんなとこで揉めたらまた上に馬鹿にされるで」

ちっ、と零された舌打ち。侑様はすっかり気分を悪くして、そのまま足音荒く店を出て行ってしまった。残された治様は、私たちを一瞥した後、その後を追う様にして去って行く。嵐の後の様に静まり返った店内で突っ立っていた私たちだったが、何とも言えない空気が漂っていてしばらく誰も口を開かなかった。机の上に置かれたままの、皆さんの冷め切った珈琲。気分を変える為にも、私が努めて明るい声で、黒尾様たちを振り返った。

「珈琲、冷めてしまいましたね!今から煎れ直します!」
「………いや」

黒尾様は、軍帽の鍔に手を置きながら、珈琲を片付ける私に言った。

「俺たちも帰るわ」
「黒尾様………」
「行くぞ」

部下たちにそう言って、店から出て行く背中。彼もまた、気分を悪くしてしまったのだろうか。その足取りは心なしかいつもより荒く感じた。皆さんも、そう言われたら帰るしか無くて、それぞれ帽子を被ったりマントを羽織ったりして、帰り支度を始める。その様子を寂しげに見ていた私に、研磨様は気を遣って言葉を掛けてくれた。

「ごめん。クロも、明日には機嫌直ってると思うから」
「研磨様」
「気にしないでね」

そう言って、人数分の珈琲の代金を握らせて、彼らは帰って行った。今度こそシンと静まり返った店内で、私はその夜久々に、寂しい物足りない時間を過ごしたのであった。






その出来事から、数日後の夜。あれから姿を現さなくなってしまった黒尾分隊の方々が心配で仕方がない私の元に、一人の客人が訪れた。見慣れた軍服、軍帽。一瞬黒尾様たちの内の誰かだと期待を込めて振り返ったが、そこにいたのは

「侑様……!?」
「名前、やっと覚えてくれたんか」

あの日以来だった宮侑様だった。彼の隣には、いつも治様もいたから、一人だけで来店なさるのは初めてではないだろうか。恐らく私が黒尾様だと思って振り返ったのがバレバレだったのだろう。侑様は、ふと自嘲気味に笑って零したのだ。

「あの田舎分隊じゃなくて残念やったな」
「い、いえ、私は……」

どうしてだろう。いつもは強引で強気な彼が、今は何だかとても弱々しくて、覇気もない。寂しげなその笑顔が目に焼き付いて離れなかった。とりあえずせっかく来てくれたのだから、珈琲の一杯くらいでも出してあげたいと、私は立ったままの侑様を席に通す。言われるがまま大人しく座った侑様の為に、珈琲の用意をする。

「なぁ」
「はい?」
「ここ、いつも黒尾が座ってる席やろ」

侑様が座るそこは、確かにいつも黒尾様が座る席だった。その質問が何を意味しているのか分からないが、私が肯定するように頷くのを見ると、彼はまた寂しげに視線を落とす。一体どうしたと言うのだろう。彼らしくない彼に、こちらもどう接したらいいのか分からなくて調子が狂う。

「珈琲です。熱いので気を付けて、」
「俺は、アイツらが羨ましいねん」
「え…?」

珈琲を運んだ私に、突然切り出されたその言葉が、よく理解できなかった。侑様の言うアイツらとは、恐らく黒尾分隊の方たちの事だろう。だけど、羨ましがる理由が分からない。だって侑様は、階級も黒尾様たちより上だし、お金も地位も持っている。私から見れば、とても立派で偉い方だ。なのに、そんな方が何故、田舎者と言われる彼らを羨ましいと思うのか。私はその時初めて、本当の侑様の姿を、本音を、聞くことが出来たのだ。

「大佐の息子、親の七光り、そんなん自分が一番分かってんねん。ずっと親に言われるがまま生きてきて、何の目的も夢も無くここまで来て」
「侑様……」
「俺は俺や。人生も、夢も、全部俺のもんや。他人にとやかく言われる筋合いはないねん。だから…、自分の夢の為に生きてるアイツらが羨ましいねん」

髪をぐしゃぐしゃと掻き上げるように頭を抱えた侑様の背中は、寂しそうに丸まっていて。きっと、何かあったんだ。侑様も侑様で、何かに悩み戦っている。事のあらすじを一から説明することは無いが、でもその姿を見れば何となく分かった。だってその背中は、悩んで行き詰まった時にこの店にやって来る黒尾様の背中とそっくりだったから。

私は、黒尾様がそういう時にしている様に、後ろから侑様の首に腕を回して抱きついた。背中越しに感じる温もりに、侑様は驚いたようで、首だけ私に振り向く。

「……チップ払ってないで」
「いりません、そんなの」
「何や、自分俺に気があったんか」
「無理して強がらなくていいです。私には伝わってますから。貴方が頑張っていること」

強がっておどけようとする彼に、はっきりとそう言ってやった。侑様も同じなんだ。努力しても認められず、悩む黒尾様と一緒。どれだけ頑張っても、宮侑として見てもらえない。偉大なる父の息子として扱われ、いつも過大な期待を背負わされている。自分がやりたい事はこんな事ではないのに、周りが勝手に道を決めてしまう。そんな環境に、彼はもがき苦しみ、必死に抗おうとしていた。

弱り切った侑様を包み込んでいると、彼はまた自嘲気味に笑みを零して前を向いた。そして、ぼやくように零された言葉は、先程と同じもの。

「…やっぱり、黒尾達が羨ましいわ」
「どうしてですか?」
「アンタみたいな理解者がおって」

俺にないモンばっか持っとるわ、と嘆く彼を、私はもう一度力を込めて抱き締めた。そんなに自棄になる必要はない。だって、侑様はまだまだこれからなのだから。諦めるには早過ぎる。まだ始まったばかりなのに、全てを悟り諦めている侑様を叱咤した。

「これから作ればいいのです。侑様が夢中になれる夢、生き甲斐を感じる目的、貴方がそこにいる理由。そこに早いも遅いもありませんから」

珈琲くらいなら出しますから、と笑いかけると、侑様はようやく小さく笑みを浮かべてくれた。温かい珈琲を出して、こうして抱きしめてやるくらいしか私にできる事はないけれど。それでも貴方を救えると言うのなら、どんな時でも店を開けて、貴方を待ち続けましょう。

(分かった気がする。アイツらがこの女に夢中になる理由)

その時既に侑も、落ちかけていた。田舎者共をからかう為に貢いでいたチップは、今度から違う意味に変わりそうだ。どれだけ貢いだら、この女は俺のものになるんだろう。そんな事を頭の片隅に思いながら、侑はただ、背中にある温もりに身を委ねていた。