秘め事

客も疎らになって、空いた机を台拭きで拭いたり片付けをしたりして、そろそろ閉店の準備を進めようかと思っていた時間。店の扉がカラカラと鈴を鳴らしながら開き、外から冷たい外気が流れ込んできた。鼻や耳を真っ赤にし、冷え切った手を吐息で温めながらそこに立つのは、宮治様。あの双子の少尉の片割れであった。この間は侑様が一人で来店なさったが、今度は治様が一人でやってくるとは。もしかして彼も何かあったのだろうかと一瞬心配になるが、その表情を見る限りではそういう訳でもなさそうだった。

「まだやっとる?」
「はい、大丈夫ですよ!こちらへ」

最早軍人様専用となりつつある、いつものカウンター席へと通すと、治様はそこに座って軍帽を取り外套も脱いだ。私は、その上着が皺にならないように治様から受け取ると、最近世に出回り始めたこれまた便利なハンガーとなるものへ、外套を掛ける。珈琲でよろしいですかと問いかけると、コクンとうなずきながら、メニュー表の食べ物の欄とにらめっこをしていた。確か治様は、食べることが大好きだと聞いたことがある。少し軽食的なものを一緒に出してあげたら喜ぶだろうか。奥に引っ込んで、慣れた手つきで珈琲の支度をしていると、治様は席から私へ声を掛けた。

「この間、ツムがここに来たやろ」
「ツム…?」
「ああ、侑のことや」

ツム、というのは、治様が侑様を呼ぶ時の愛称のようだ。治様の問いかけに対して肯定するようにうなずくと、治様は小さく笑いながら、「ありがとな」とお礼を言った。何もお礼を言われるようなことはしていないのに。それに、軍人様がこんな私なんかにお礼なんて。大した事はしてないです、と慌てて弁解すると、治様はまた笑っていた。こんなに柔らかく笑う人だったっけ、なんて不覚にも心臓がドキリと跳ねる。

用意できた珈琲からは、熱そうに湯気が立っていて、私はそれをちょっとした軽食と共に治様のところへ運んだ。咄嗟に作った小さなおにぎり2つ。中身は梅干し。珈琲に合わないだろうとは思いつつも、オムレツとか揚げ物なんて洒落た食べ物は、まだ馴染みが浅くてうまく作れる気がしないし、甘い物も生憎今日の分は全て売れて在庫を切らしてしまっていた。大丈夫かな、なんて不安げに出したそれだったが、治様は大袈裟なくらいに目を輝かせて、「ええの?」と子供のような顔をして問いかけてきた。その姿が何だか可愛くて、小さく笑いながら、どうぞと答えると、彼は嬉しそうに珈琲とおにぎりに手を付けていた。

普段、侑様とやってくる時、治様はいつも後ろの方で無言で事の成り行きを見守っているだけなので、正直少し怖いイメージがあった。無口で、何を考えているのか分からない。よく喋る侑様とは対照的に、どう話しかけて良いものか分からず、今こうして二人でいるのも若干緊張している。割と強引な侑様を、冷静に止めていたりする普段の姿からして、言い方が変だが割と常識人なのかなとも感じているが、実際のところは分からない。この間だって侑様が一人でここに来た時は、彼に対して抱いていたイメージとはずっと違う素顔を持っていたし、人というのは少し関わったくらいでは何も分からないものなのだなと感じた。

「あの、美味しいですか?」
「うまい」
「そうですか…よかった」

私が何とか絞り出した会話は、おにぎりの感想を催促するという、つまらない内容のもの。しかもそれも、「うまい」の一言を返されて即行終わってしまった。ああ、自分のこの交流能力の無さを痛感して恨めしくなる。もっと上手に話せたのなら、きっと治様を楽しませることができたのに。無言が続くこの空気が、私にはとても耐えられなかった。どうしよう、と内心一人で焦っている内に、治様はぺろりとおにぎりを平らげて、私をじっと見上げてきた。その眼差しが一体何を訴えようとしているのか、汲み取れない私は首を小さく傾げながら、彼の言葉を待った。

「なあ」
「はい?」
「自分、俺の嫁にならん?」
「……え?」
「毎日俺の飯作ってや」

はっきり言って、意味が分からなかった。どういうことだろう、これは求婚されていると思っていいのだろうか。ぽかんとその眼差しを見つめ返すが、治様の目は純粋な程に透き通っていて、ふざけてこのようなことを言っている訳ではないのは一目瞭然だった。もしかして、それほどまでにおにぎりを気に入ってくれたのだろうか。ただ炊いた米を握って梅干しを入れただけの、ただの普通のおにぎり。言ってしまえば、誰でも作れる料理だ。それなのに、嫁に来いだなんて。

「あの……それは、どういう……」
「結婚しようって言ったつもりやったんやけど…、分かりにくかった?」
「ええ!?いやいや、あの、それは…!」
「なん、もしかしてあの黒尾分隊の誰かと付き合っとるん?」

まさか!と一気に顔を赤くして否定した。私なんかが、黒尾様たちの誰かとお付き合いなんて、恐れ多すぎて。黒尾様たちには、隣に歩くに相応しい、もっと美しくて学もある華麗な女性がお似合いだと、そう考えて自分で胸が痛くなった。私は家が貧しいから、小さなカフェーで一日中働いて、チップを積まれればそれなりのサービスだって男性客にしているような女。とても黒尾様たちとは釣り合わない。治様は、俯いている私の手を取ると、相変わらずの無表情で、もう一度はっきり口にした。

「ならええやん。俺と結婚して」
「お…治様……」

これはもしかしたら、実は侑様よりも治様の方が積極的で、情熱的なのかもしれない。あまりにもストレートすぎるその愛情表現は、聞いているこっちがタジタジになる程だ。しかしこればかりは、私も流されて「うん」と頷く訳にはいかない。確かに貧乏くさい庶民の私ではあるが、結婚は女にとって夢であり、人生の中で一番といって良い程の大きな行事である。心から好きだと思った人と、数年の交際を経て、それから結婚したいという、私なりの理想もある。まだ出会って間もない治様と、付き合ってもいないのにいきなり結婚だなんて、余りにも急すぎて頭が付いて行かない。とは言っても、相手は軍人様。それに、男性からの求婚を断るというのは、なかなか勇気のいるものでもあった。どう失礼の無いようにお断りしようかと考えている内に、行動派の治様は更に畳みかけてくる。

「なあ、チップ払うから、もっと触れてもええ?」
「え…!ちょ、ちょっと待ってください、私何がなんだか…!」
「そんな顔して待ったかけられても、何も説得力ないで」

机に置かれたチップ。待ってと突き出した手は、治様に絡め取られて。恥ずかしさで熱くなった体が彼に攫われる。どうしよう、と混乱する頭を他所に、ちょうどそのタイミングで、店の扉が開いた。ハッと体が強張り、治様も小さく舌打ちをしている。こんな時間に来る客なんて、早々いない。いるとするならば、これは、

「…あれ、いないのかな」
「店の明かりは付いてるのに。変だね」

聞こえてきたのは、赤葦様と研磨様の声。ひゅっと喉の奥がなるのを自分で感じる。治様の手に口元を塞がれてくぐもった声しか出せない。彼らが来店してきた時、治様は私の手を咄嗟に引いて、カウンター席の奥の、厨房の方へとその身を隠したのだった。何故こんな事をするのか、治様を見上げて目で訴えかけると、彼はただシーと口元に指を当てて悪戯げに笑うだけだった。

「…先客は俺やろ」

耳元で囁かれる低い声。他の奴らの相手なんかせんでええ、と、前を向いて壁に手を突く私を、後ろから抱え込む。相変わらず口元からは手を離してもらえなくて、ふーふーと鼻から息が漏れる。するすると後ろから這ってくる治様の手は、私の腹部辺りを撫で、徐々に上に上がってくるものだから、緊張で体が強張った。何をするつもりなんだと警戒しているのが治様にもバレバレで、そんな私を楽しそうに見下ろしている。

「…やらしい事されるんやないかって思っとる?」
「……!!」
「体強張っとるで」

壁の向こうでは、私を探しているのか店をうろつく二人分の足音が聞こえる。赤葦様と研磨様がまだ店の中にいる。こんなところを見られたら、はしたない女だと軽蔑されるかもしれない。それだけは避けたかった。嫌われたら、あの人たちはもう二度とこの店に来なくなってしまうかもしれないから。だけど、居留守を使うにしても、店の状況はあまりにも不自然すぎて。こういう日に限ってやってきたのが、特に賢いあの二人だから冷や汗が出る。付けたままの店の明かり、机に置かれた食器と珈琲、そして治様が積んだチップ。それらを放置して店を空けるなんて、なかなか考えにくいことなのではないだろうか。ばくばくと高鳴る心臓に落ち着け落ち着けと自己暗示をかけていると、体をまさぐる治様の手は、今度は下へと向かっていく。

「!!!!」
「…体ほんま熱いな。手、冷え切ってたから丁度ええわ」

太もも辺りをなぞる治様の手は、確かに冷たい。エプロンを捲り上げ、着物の合わせ目から侵入するそのひんやりとした手がぞくぞくと背筋を震わせる。震える体を、壁についた手で必死に支えながら、どうか早く、早く赤葦様たちが帰ってくれることを祈った。そんな祈りが通じたのか何なのか、店側から聞こえてきた二人の会話。

「……いないみたいだね」
「出直そうか」
「そうだね。……邪魔しちゃ悪いし」

遠ざかっていく足音。扉を開ける音が聞こえて、しばらくした後にパタンと閉められた。どうやら帰っていったようだ。せっかく来てくれたのにおもてなしが出来なくて罪悪感が残るが、何とか乗り切れて良かった。ホッと胸を撫で下ろしていると、私の口を塞いでいた治様の手が離れて、ようやく解放された。何をするんだと抗議の意味も込めて振り向くと、彼は思っていた以上に熱の篭った艶やかな表情で私を見下ろしていて、またもやぞくりと背筋が震えた。男性なのにこんなにも美しくて官能的な表情をなさるなんて、狡い人だ。

「俺もそろそろ帰るわ。十分楽しませてもらったしな」
「わ、私は全然楽しくありませんでした!」
「それは残念。まあ結婚の話はまた考えといてや」

決して冗談で言ってる訳やないで、と念を押して。真っ赤な顔が更に赤くのぼせるところを見届けてから、彼は颯爽と軍帽と外套を手に取って店から出て行った。張り詰めていた緊張の糸が解れて、へなへなとその場に崩れ落ちる。もしかしたら治様は、侑様以上に危険人物かもしれない。ここ最近で知った二人の本性に、私は翻弄されるばかりであった。

寒空の下、帰路につく治は、ぼんやりと夜空を見上げていて。頭の中に浮かぶのは、最近侑と共に通い詰めている、さっきまで共にいたあのカフェーの女給。つい数分前に抱きしめていた温もりは、この凍てつく外気によってあっという間に攫われてしまった。黒尾たちをからかう為、と言いながら通う侑とは違って、治は最初からその気だった。あの女給が持つ、優し気な雰囲気。黒尾たちの気を掻っ攫う魅力。軍人という肩書ではなく、一人一人に対し、男として接してくれる、そんな純粋な彼女に興味があったのだ。

(…気付いとったな、あの田舎分隊の奴…)

名無しは気付いていないようだったが、あの時店にやってきた赤葦と研磨は、確かに気付いていた。カウンター席の奥、その厨房で、治が名無しと共に潜んでいたことを。鋭くこちらを睨み付けるあの眼差し。あの男たちもきっと本気なのだ。あそこであえて噛み付かずにあっさり引き下がっていったところが何だか悔しくて、結局治もその後を追うようにして出てきてしまったのだが。

「…もうちょいご奉仕して貰えばよかったな」

今さらそんな後悔が口からこぼれて、白い息を吐いた。