デモクラシー

その方は、初めて見るお顔だった。軍帽に軍服、歩くたびに靡く外套、光る階級章。眼鏡をかけているその男性は、黒尾様と同じか、それ以上の身長を持った、端正な顔立ちをした軍人である。偶然ここへ立ち寄ったのだろうが、それにしても私は本当に軍人様に縁があるものだ。何かそういった人を呼びよせる力があるのだろうか。

「いらっしゃいませ、」
「アンタが黒尾さんのお気に入り?」

こちらへどうぞ、と席へ案内しようとした私に、藪から棒に投げつけられた言葉。へ?と間抜けな声を上げて目を瞬かせていると、まるで品定めをするかのように私の顔をじっと見下ろしてくる。こうして前に立たれると、改めてその身長の高さに圧倒され、顔を見上げるのに首が痛くなってしまいそうだ。しかしそれにしても、黒尾様のお気に入り、とは一体何のことだろうか。訳が分からぬまま言葉を失っていると、軍人様はふと口元を歪めて、意味ありげな笑みを浮かべた。

「へえ。あの人の好みってこんな感じなんだ」
「あの…、一体…」
「ああ、ごめん。興味本位で見にきたんだよ。僕の師匠が大事に囲ってる人がいるって聞いたからさ」

師匠?と聞き返すと、彼は認めたくないといった様子で渋々「…黒尾さんのこと」と返事をしてくれた。とりあえず立ったままお話をするのも何なので、いつも黒尾様たちが座っている席に通す。軍人様はあまり長居をする気がないのか、軍帽も外套も取らなかった。メニューを差し出しながら、先程から気になっていることを問いかける。黒尾様が師匠とは、一体どういうことか。この二人の関係性が見えない。

「あの、黒尾様が師匠って…」
「ああ、認めたくないけど、あの人がやたらと周りにそう言いふらすから。僕が学校に入学する前まで、あの人にはよくしごかれてたんだよ」

認めたくない、と仕切りに言うが、でも結局自分で弟子であることを自負している辺り、それなりに黒尾様に対して尊敬の念を抱いているのかもしれない。どうやら素直じゃない、かなり捻くれた性格をしているようだ。

軍人になるには、2つのルートがある。1つは、黒尾様たちのように、ある程度歳を重ねた後、自ら兵になりたいと言って志願し、軍に所属するもの。基本的に、志願兵はよっぽどの事が無ければ大抵の人が軍に入ることが出来る。むしろ、軍人への風当たりが強い今では人手不足が深刻で、人を集めに田舎まで行かされたことがある、と黒尾様たちも話していたような気がする。彼ら志願兵は、軍に所属した後、訓練を積んで軍人に必要なスキルを身に付けていく。成績を残したものは出世し、特務曹長という階級が、彼ら『ノンキャリア組』の最高到達点に当たる。

一方、エリートと分類される人たちは、お金や親の力を使いながら、幼少期より『陸軍幼年学校』に入学する。幼い頃から軍のいろはを学んだ彼らは、学校卒業後、すぐさま『少尉』の階級を与えられるのだ。ノンキャリアの人が努力して得た特務曹長という階級の上…、それが少尉。つまり、学校卒業仕立ての若者に、年上である特務曹長が頭を下げるといった状況は当たり前にあるのだ。

黒尾様と、この彼…月島様と名乗る方は、同じ地方の出身なのだそうで。月島様が陸軍幼年学校に入るまでは、よく黒尾様と一緒に遊んだり、チャンバラごっこと称してしごかれたのだと言う。田舎の小さな村で、無邪気に遊ぶ二人を想像すると微笑ましくて、小さく笑みをこぼした。

「黒尾様にも、そういう時代があったんですよね…」
「そりゃあるでしょ。黒尾さんもああ見えてちゃんと人間だし」
「ああ見えてって…」

いじられる黒尾様が新鮮で、つい笑ってしまう。私があまりにも楽しそうに話を聞いていたからだろうか、月島様は少し顔に影を落としながら、より詳しく昔話を聞かせてくれた。

「今こそこうやって軍の人間やってるけど、僕も昔は体が弱くてさ。小さい頃は殆ど家に閉じこもってたんだよね」
「そうなのですか?」
「まあ今は何ともないんだけどね。で、その時によく、うちの庭に忍び込んでは僕を連れ出す悪ガキがいて」

言わずもがな、その悪ガキとは黒尾様のことである。月島様と同じように、黒尾様に渋々連れてこられた研磨様や、赤葦様の姿も当時から傍にあったそうで、彼らは昔からの知り合いのようだ。その時代の彼らにも出会ってみたかったなあ、なんて思いながら、隣の席に座って、月島様の横顔を眺める。

「チャンバラごっこと称して、病人の僕を容赦なく叩きのめしてさ。泥だらけになって帰ると、僕の母が叱るどころか喜ぶんだよ。いつも遊んでくれてありがとう、夕飯食べていく?って」
「皆さんは昔から仲が良かったのですね…」
「まあ、昔は、ね」

昔は、と強調した月島様の言葉が引っかかった。今は違うと言っているような気がして、違和感を覚える。こんなにも楽しそうに昔の話をしているのに、一体何が月島様にそんな寂しそうな顔をさせているのか。実際には、月島様の表情に変化はなく真顔のようにも見えるが、何となく私には悲しげに見えてしまったのだ。

「僕の家が、それなりに裕福な家だったから。僕は父親の期待を背負って、陸軍幼年学校に入ることになったんだ。上京して寮に入ったから、当然黒尾さんたちとはそこで疎遠になった。別れる時、俺たちもそっちに行くからって約束したのを今でも覚えてる」
「月島様…」
「まあ、子供の口約束だから、そんなに真に受けては無かったけど」

嘘だ。真に受けてなかったなんて、きっと嘘だ。その目を見れば分かる。月島様は、本当に待っていたんだ。一人上京し、家族とも黒尾様たちとも離れて勉学に励む日々。思い出さなかったことはないだろう。懐かしい、楽しかった過去を。

「学校を卒業した時、噂では聞いてた。田舎出身の生意気な軍人がいるって。…名前を聞かなくても何となく分かった。絶対に黒尾さんたちだって。あの約束を守ってくれたんだって」

また会える、きっと月島様はそう思った筈。同じ軍人として再会することを、彼は楽しみにしていた筈なんだ。だけど、あれからお互い歳を重ね、いらない知識や、詰まらない決まりを覚えた彼らは、昔のように再会することは叶わなかった。

偶然、寮ですれ違ったあの日。月島様の肩に見える階級章は、『少尉』。黒尾様が飾る階級章は、『伍長』。久々に姿を見て胸を弾ませた月島様を前に、黒尾様たちは軍帽を取り、頭を下げたのだ。

「お疲れさまです、月島少尉」

その時月島様は、言葉を失ったのだった。もう、昔には戻れない。友人に戻るには、この埋まらない立場が邪魔すぎる。自分を引っ張り出してくれていた近所の兄貴分は、今や部下として、自分に対して頭を下げていた。その現実がショックで堪らなかった。

「黒尾さんは、僕の事を少尉って呼ぶんだよ。あんな感じなのに、そこら辺だけはきっちり真面目に守ってて、気持ち悪いよね」
「…月島、様…」
「お疲れ様です、なんて絶対思ってない癖に。よくも平然とそんな事が言えるもんだよ」

そういうところでは尊敬しているかも、なんて悪態をつく月島様が、精一杯強がっている事など、バレバレであった。立場なんて気にしない月島様と、大人として軍人としてそこの線引きを守る黒尾様。どちらの気持ちも分かるから、私は上手い言葉が見つからず。でも1つ、確実に言えることは、決して黒尾様も、月島様と交わした約束を忘れている訳ではないという事。だって黒尾様は、周りに言いふらしているのでしょう?『あの月島は俺の弟子だ』って。きっと自慢で仕方がないのだ、出世して上に立つ、かつての病弱な弟分が。

「…この話、誰にも言わないでね」
「はい、勿論です」
「黒尾さんにも。言ったら許さない」
「分かっています」

今さら、喋り過ぎたといった様子で私に口止めをした月島様。勿論、この話を黒尾様たちに言う事はない。だけど、1つ我儘を言うとするならば。

「その代わり…またここへ来てくれませんか?」
「え…」
「また、聞きたいです。月島様と黒尾様たちの、昔の話」

そう微笑むと、月島様は面食らったような表情を浮かべた。そんなにおかしなことを言っただろうか。彼の顔を見つめたまま返事を待っていると、やがて月島様は小さく吹きだして。初めて見る、柔らかなその表情に不覚にも見惚れてしまった。

「やっぱり、類は友を呼ぶって言葉は本当なんだね」
「え?」
「アンタも相当な変わり者だよ。…黒尾さんと同じで」

そう言う月島様の顔はどこか嬉しそうで。変わり者、と言われたことに対しては納得いかない部分もあるが、月島様がそんな風に笑ってくれるのなら、変わり者でもいいかとすら思える。もし月島様がここへ来てくれたら、いつか黒尾様たちと鉢合わせするかもしれない。その時こそ、かつての『約束』を果たすことが出来るのではないだろうか。だってここは、ただのしがないカフェー。ここには、軍人の埋まらない階級も、詰まらない決まりもない。

(きっと、友人として、再会できるよね)

私が、ここへ来て欲しいと言った本当の思惑を、月島様は汲み取っているのか何なのか。「まあ気が向いたらね」と言いながら、私の頭をぽんぽんと撫でて背を向けた。頭の上に乗った温もりの名残に、自らの手を重ねる。結局何も頼まずに帰っていくその背中を見送り、寒い空の下を歩いて行く姿を見つめた。そのピンと伸びた背筋と、風に靡く外套が美しいとすら思えた。

「…まあ、あそこで黒尾さんが鼻の下を伸ばしているところを見るのも、悪くないか」

ぽつりと呟いた言葉は白い息と共に消え。頭の中によぎった、名無しの微笑みと、少しだけ湧きあがりつつある興味には気付かないフリをした。だって、師匠と女の趣味が同じだなんて、そんなの認めたくない。